16.こんなに怖いんだね



2月25日
時計の針は9時ちょうど
今この瞬間矢口くんの藝大一次試験が始まった
何もできないくせにじっとしてられなかった私は矢口くんと来たあの神社に来ていた

「頑張れ、矢口くん」

私には祈ることしかできない
ならできることをやろう
ぎゅっと手を握り祈るように願掛けする私を見た巫女さんが穏やかな表情をしていた



15時
受験終了の時間
今日が終わっても3月5日から7日にかけて二次試験がある
一次試験の合格発表は2月28日
正直生きた心地がしない

佐伯先生に藝大の入試について聞きに行ったりもしたけどスケールが違いすぎて一割も理解できてないのが本音
それでも矢口くんはそんな戦地で戦ってるんだと思うと改めてすごいなと思う
矢口くんだけじゃない、まるちゃんもユカちゃんも美大を目指す人ってみんなすごい





そして2月28日
矢口くんから一次合格のLINEが来た
その文字を見た途端涙が溢れてきて少し泣いた
あれだけ熱中できるものがないなんて言ってたくせに、今は矢口くんの”好き”を心の底から応援している
大丈夫、このままならきっと大丈夫
そう信じて今日もお菓子をつくる
矢口くんのことを考えてつくるお菓子は少し特別に見える
我ながらベタ惚れだなと苦笑いしちゃうけど好きには正直でいたい





3月3日ひなまつり
今日は初めて和菓子をつくった
和菓子といえばまるちゃんとユカちゃんが好きだったなあと電車に乗る
途中で停まった駅で向こう側に見える別の路線のホームを何気なく眺めた私は持っていた和菓子の入った紙袋を落とした

「(何で?どうしてこんな時間にその電車に乗ってるの?)」

だってその電車は東京から離れていく電車で、普段二人が乗らないもの
それなのに矢口くんとユカちゃんがそこにいた
そして先に私の電車は発車する

様子がおかしいのは遠目に見てもわかった
明らかに予備校帰りの矢口くんと、そうじゃないユカちゃん
慌てて矢口くんに連絡を取ろうとするけれど画面をタップする前に指が止まった

踏み込んで欲しくない壁は誰にでもある
もし今まさにその壁が建てられてるとしたら?

「あの、落ちましたよ」

床に転がったままの紙袋を拾ってくれたお兄さんがぎょっとして私を見てる
そりゃそうだろう、だって今私は電車でぼろぼろ涙を流してるんだから

「すいません、ありがとうございます」

久しぶりに貼り付けた笑顔は引きつって痛い

壁を張れば傷つかなくて済む
そう思ってお母さんの死を受け入れられないあの頃の自分のまま閉じこもった
お父さんにも聞き分けの良い子を演じ、まるちゃんにも心配かけまいと無理した
誰に対しても笑顔でいるように努め、本当の自分を嘘の自分で塗り固めていく
閉じこもっている内はなんとも思わなかったのに、外側に出てみて今度は自分が閉じこもっている人を見る側になって初めて理解できた

「(人の壁を乗り越えるのってこんなに怖いんだね)」

今まで私は周りにこんな思いをさせていたのかと思うと情けなくて苦しい
それでも乗り越えてきてくれた矢口くん、あの日助けてもらった日に見抜かれたあの瞬間
矢口くんはどういう気持ちだったんだろう

「(私は本当に臆病者だ)」

涙を拭いて早く最寄駅に着いてくれと願う
私は結局矢口くんのどこを好きになったんだろう
彼の壁の先に踏み込めてもいないくせに何を知った気になってたんだろう
結局私は何も変わってないのかもしれない
そう思うと急激に世界が色を失う気がした





3月7日

「それで落ち込んでるんだ」

美術室の机を挟んで向かい合うユカちゃんと私
いや、違う向かい合ってない
ユカちゃんはこっち見てるけど私は机に伏せっているし

「落ち込むでしょ」

あんなに好きだと思ってたのに、安全な場所にしかいられない自分に気がついて急に自信がなくなった
ユカちゃん曰くあの日矢口くんと小田原まで行ったらしい
家の事情で苦しくて仕方ない時に矢口くんが駆けつけてくれて、二人で海を見たとか
何もできなくてうじうじして泣いてた私と違って二人は行動してるんだということが余計にしんどい

「それにしてもヒナちゃんの和菓子美味しいね」

「あ、ほんと?嬉しいー、でも今じゃない」

幸い美術室にはユカちゃんと私しかいない
誰に聞かれるわけでもないのでここぞとばかりに矢口くんのことを相談する
と、その瞬間「あらあら、若いっていいですね」と佐伯先生の声が聞こえてばっと跳び起きた

「え…あの…いつから聞いて…」

「全部ですよ」

「…」

しまった、先生がいるのかちゃんと確認してなかった
頭を抱えていると先生は一枚の絵を差し出してきた
それはいつだったか私が描いた矢口くんの絵

「それを描いた時に絵には思いが出る、そう言いましたよね」

「はい」

「その絵を見た矢口さんが何て言ったと思います?」

「え?」

そういえば前にユカちゃんにも同じことを言われた気がする
あの時は矢口くんのことだから真っ赤になってたんだろうって判断して聞かなかったけど

「”兎原さんって俺のこと好きなんだね”…だよ」

ユカちゃんの発言を聞いてきょとんとした
え?矢口くんは私が好きってことに気がついてなかったんじゃないっけ?
橋田くんと桑名さんと会った時に「片思い」って言ってたし間違いない
え、じゃあ絵を見ての発言は何?

「矢口さんは貴女に思いを告げたんでしょう?
じゃあ次は兎原さんの番ですね」

そうだ、私は矢口くんに言葉で伝えてない
絵で伝えただけでちゃんと好きって言ってない
曖昧にしてるのは自分の方だ

「矢口さんと言えば…そういえば今日でしたねえ、藝大の二次試験」

「あー、そういえば」

思い出したかのような口ぶりのユカちゃんに先生は意外そうな顔をした

「心配じゃないんですね」

「はっはっは、まー大丈夫じゃないですか
八虎、ああ見えてできるやつなので」

そう、矢口くんはそういう人だ
ああ、どうしよう矢口くんに会いたい
けど今日は疲れてるだろうし帰って寝た方がいい

あれ、じゃあいつならいいんだろう?
発表終わってからかな
そんなことを考えていた私は次の登校日がもう卒業式なことに気がついて顔を引きつらせた




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