Ubi amici ibidem sunt opes.


目が覚めたら、そこは病院でした。

なんて事になればどれほど良かったことだろう。
はるなはちかちかと汚れたガラス越しに強く照りつける電球と目覚めの挨拶を交わし、次に大きく、溜息をはいた。


「…………来る前、たくさん食べたのにな」


お腹が鳴ったことで空腹であることはわかったのだが、現実は空腹に対する痛みよりも、瞳の粘膜が薄汚れた部屋により空気の汚れが入りこみ痛みだし、はるなは現実から目を背けるように目を閉じてその場にうずくまった。

一体、何時間経った事だろう。 

そう考え暫く目を瞑ったまま瞑想していると、呼吸が落ち着いてきたことで実は何時間ではなく、経過は何日であるのだとはるなは悟ることができた。夜に飛ばされて、落ちた空の様子から恐らくあの時は昼で、自分の体内時計が正常なら恐らく丸一日分は寝ていたのではないかと言うほど体が気だるかったのだ。筋肉は疲れ果ててろくに動こうともせず、衣服に付いた埃は電球の黄色い光に照らされ白く存在を誇張している。

このまま暗い密室に籠りきる生活となると、窓がないせいで正確な時間など計れない事はわかっていたが、刻々と過ぎる時間を確かめられず過ごすのも、誰かがここに“目的”を持って来るよりはずっといいようにもはるなは思えた。
そしてそのまま横になった体を動かす事もせず、重たい瞼を一度開いて思考を手繰り、暗い部屋から自分を隔絶する様に考えを背け疎らな光を見に受ける。
こうこうと照りつける電球が船によってささやかに揺れている。物音ひとつない世界で自分の体が投げ出されているまま力を失っている。


「……、ふッ……うっ、……」


丸い電球がぼやけた時に、涙が滲んだのがわかった。
瞼に痛みが走っていた事を理由にしなくとも、今ここではるなの涙を追求する者などいないのだ。はるなは迷うこともせず、大人しく為すがままぼろぼろと落ちていく涙をそのままに強く瞬きを繰り返した。頬を伝う涙が床に落ち、まるで雨に打たれている様に次から次へと溢れる涙に床が黒い斑点を作っていく。

死にたくない。
けれど、触れられたくもない。


自分の目の前にいた人間が、たとえ自分の脳の中に生きていた“空想”の産物なのだとしても、もはやあれだけの敵意を向けられれば、はるなはここを夢物語と喜べる世界ではないと理解したのだ。彼らが何者なのかなどどうでもいい。
それより覚悟しなければならない事が山ほどあった。覚悟しても、仕切れないことがたくさんありすぎた。
死にたくない……。
思うだけなら、何度でも胸に繰り返される。


はるなは仰向けになった顔に落ちる光に目を閉じ、両腕を瞼に押し付けた。
現実が染みいり孤独に胸が苛まれていく。

夢なら早く覚めて欲しかった。















鍵の開けられる鉄の音で目を開き、すぐさま誰かが部屋に来たのだと気が付いた。はるなは真っ先にあの時のトラファルガー・ローの言葉を思い返し、体が硬直した。
誰、と口が開く前に、扉の間から自分の顔をのぞき見る巨大なシロクマの姿に緊張は僅かに緩み、言葉は喉の奥へと押し戻される。
そのはるなのぎこちない動きにさして気にした様子もみせず、ベポはすたすたとはるなの前まで歩いてきた。

「はるな、おれごはんもってきた」
「え?」

言葉を理解するより先に、目の前に差し出されたおにぎりとおかずの品々にはるなの腹は先に反応してしまった。きゅう、と動物の鳴き声のように鳴く胃の音にベポがはるなのほうをぱちりと見る。上半身だけをあげたままベポと見つめ合っていたはるなは、ゆっくりとトレーが目の前に置かれるのを見送り、落ち着かない思考を辿らせて顔を上げた。

「……どうして……」
「お腹すいてるでしょ?」
「……でも、トラ、……あの人がこれを?」
「ううん」

ベポは、笑いもせずに少しだけ犬歯を見せてぱくりと開いた口で、こそりと顰めて声を出した。

「俺の分半分あげる、はるないいやつだから、」
「…………」

はじめは、開いた口が塞がらないと言ったように、はるなは言葉の意味が素直に理解できなかった。
同情なんてするようなタイプではない、では、単純に自分のことを信用してくれたのだろうか。そしてそれはこんなあっけなく、自分に差し伸べられているのだろうか。
はるなは、段々肩が震えるのがわかり、不意に泣きそうになってしまった。
あまりにささやかにこうやって優しくしてくれたベポの優しさに、緊張が全て壊されそうになる。体中ががんじがらめに痛み、頬の血がまだ乾いてこびりついたまま、何もかもあの時の恐怖を覚えているのに。ベポのそんな一度の言葉に、あっけなく壊れてしまいそうになったのだ。

はるなは鼻をすすり泣くのを何とか堪え、トレーに手を伸ばす。
何時間経ったかはわからなかったが、空腹感は確かに強く、ベポの目の前で一口大きくおにぎりを頬張った。

「ありがとう……ごめんね……」
「ううん、トレーは次取りにくるから、明日また来るね」
「いいの?」
「わかんない」

ベポは、本当に特に考えてもいないように大きな手をあげて、ぽすりとはるなの頭を撫でた。僅かな力に前に縺れる体で、大きな顔を見上げると、ベポは艶やかな鼻をひくりと揺らし、柔らかな口調で言う。

「でも、食べないと死んじゃうし」
「……」

それでも構わないから、貴方の船長は私をここに閉じ込めたと言うのに。

ベポの言葉は矛盾している訳ではなかったが、あっけらかんと言われる言葉の優しさには笑ってしまいそうにすらなった。
考えてないだけなのだろう。
だから、考えさせられれば行動は変わるだろう。それだけの事で、それっきりなのかもしれない。
でも、それでもよかった。これだけで十分すぎるほどだった。
ベポ、優しくしてくれてありがとう。

はるなはご飯粒の付いたゆびさきを舐めて。ご飯と一緒に押し込むように涙を抑えつけた。





(友のいるところ、そこには富がある)

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