nodus secundus


「そうか、飯を作ったのか、ならそのままイッカクが使って良い、朝は四時に起きて、就寝はイッカクは食事が済み次第、コイツは全員の皿洗いをして朝食の準備が終わってからだ。時間が無いなら寝なくていい」


イッカクさんは、謝ってくれた。勝手に連れ出してしまったからこうなったのだと。
けれど、はるなは首を横に振るしか出来ない。あの時せめてもの償いに手伝いをしようと、そう自らが志願し、身勝手に縋ったのは確かなのだ。
だれが、それを彼の怒りの切っ掛けになると思っただろうか。



長い間、私はこんな張りつめた緊張感を、ひたすら味わわされ続けた事などない。
深夜のバイトは体にくるがそれでもやる事は限られていて、ちゃんと休憩もあった。
バイトに追われる日々ではあったが、それでも、至って普通の日常の中で生きてきたはるなには、こんな労働による苦痛など無かった。
それでも朝はやってくるのだ。鎖に繋がれたような足をひきずり、言われた時間に30人分の朝食を用意しなければ、あの男の制裁が落ちる。
本物の鎖を繋がれるのはそれからだ。はるなは長い間重たい鍋を動き回して棒のようになった腕を、皿を洗い続け痛んだ手先を、震えながら握りしめる。
洗面台で冷たい水を顔から浴びる、枯れそうな咽喉に一口送る。海の中を進む潜水艦は冷たく、光の無い廊下は暗い細道を僅かな線だけで現しているだけだった。
それでも、朝はまだ苦しくはなかった。たとえ朝日を浴びない海中の暗闇でも、ちゃんと前を向く事が出来た。
「おはよう、嬢ちゃん」
弱音すら吐けない環境の中で、数少ないはるなが息をつける人が、そこにいるからだ。
「おはよう、ございます」
小さい挨拶とともにはるなが食堂の扉を開ければ、既に厨房で下拵えに手をかけていたイッカクが元気よく振り返る。
「体は……っと、まあ嬢ちゃんは大丈夫としか言わなそうだな、一応先に軽く食っておけよ、ほら」
言うと同時に彼は、用意していた盆にあるマフィンサンドと牛乳をはるなの前に置き、手際よく椅子を片足で滑らせながら用意すると、驚くはるなの声を流しその上にちょこんと座らせる。
はるなは思わず首をあげて、大きな体を見上げその高い鼻を見た。
「そんな」
「いいんだって、これはコックの特権だぜ、嬢ちゃんもその一端を担うのなら、貰っちまえ」
「……」
微笑む彼の笑みが、はるなの頭を撫でる掌と同じように優しく落ちる。
「この影で隠れて食うよりは、いいじゃねえか」
昨日の夜言われたローの言葉を、彼は少しでも償いたいのだ。それが痛い程にわかった。思わずはるなは唇を噛んだ。
じわじわと優しさが胸に沁みて、痛んでしまわないよう心の奥にしまい込みながら、言葉を返した。
「……いただき、ます、」
「ああ」
朝の五時、朝食の開始まであと二時間。
静かに朝をまつ食堂は広い、冷たい空気がまだその夜の名残を残している。あれほどにぎやかだった食堂から、逃げるように倉庫に閉じこもって、そしてまたここへ帰ってくる。まるで生きている実感の無い、太陽の無い生活が待っている。けれど、
食堂の片隅でパンを頬張りながら、はるなは心の中で繰り返した。

生きている。

たとえ、何もかもが受け入れられないとしても、今、ここに、

私は生きるしかないんだ。















「おはよーっす、はるな、朝飯なんだ?」
「え?」
「ん?」
厨房から香る匂いを嗅ぎ付け、段々と人がその場に顔を出し始める中、シャチがまた、前触れも無くはるなに話しかけたのだ。
彼は昨日のように、また別に理由も無くはるなの前に現れてみせる、それの真意が、未だにはるなにはわからなかった。
そのためはるなは相変わらず、どうして自分に話をふるのか理解出来ないといった面持ちのまま、イッカクと考えたメニューを固く音読のように言う。
「……海藻と豆のサラダと、トマトポタージュ、スクランブルエッグとベーコンのマフィンサンド……」
「……う、美味そうだな」
流石にシャチも、こんな困ったように言われるとは思わなかったので、曖昧に頷いて見せるしか無い。
「……」
けれど、余計に反応に困ったはるなは、その言葉の返事が思いつかず、結局曖昧に黙り込み、そそくさと背を向け調理を続けた。シャチがその背を、どこか悔しそうに口をとがらせ見る。
「う〜ん……、懐いてくれねえな」
「仕事の邪魔をするな」
「うえ、ペンギン」
気付けば、食堂側に立っていたシャチの隣に、いつものように腕を組んだペンギンが立っていた。
「さっさと席につけ、お前は飯食ったらすぐソーナーの点検だぞ」
「ああいやだ、朝からやな事が待ってやがる」
シャチはその顔を隠さぬままそそくさと席へ戻って行く、ちらと、消えて行く気配に気付いたはるなが後ろを振り向けば、腕を組んだペンギンと目が合ってしまい、とっさにぴくりと、肩を揺らす。
「……はるな、お前は食堂の仕事が終わったらおれの仕事を手伝うんだ、9時に来る」
「は、はい」
それだけ言えば、さっさと彼も席についてしまう。
用意した朝食を彼らがとっていくのをせっせと手伝う。
朝、トラファルガー・ローがやってくることはなかった。それがせめてもの救いだった。



その後時間ちょうどにペンギンがきたので、はるなはなんとかぴったりに仕事を終わらせて、食堂で一息つくイッカクに頭を下げその場を後にする。洗い物の途中、急ぐあまり包丁を触れてしまい指先を軽く切ってしまったが、強く押さえ込めば血を何とか止め切れた。吸って血の味が残る口内に違和感を感じつつも、仕事の時間を遅らせることは出来ないと気付かれぬよう拳を握ったまま廊下を歩く。

呼ばれたのは海図室で、所狭しと積まれた海図は壁や床にちらばり、その上には何かを書きなぐったあとがあるものが多く、はるなはそれを見て初めて自分がこちらの世界の文字を読める事に気付き、密かに目を見開いた。
「海賊の生業がわかるか」
部屋に入り、徐に広げられていた海図に手を添えながら、ペンギンは静かに言った。一瞬。戸惑ってしまう。
それに答える為に、はるなはどれだけ自分の世界の見解を持ち込めば良いのだろうか。
「……略奪と、殺戮」
「そうだな、正解だ」
それを行う人間が目の前の一人であると、ペンギンはわからせる為に言ったのだろうか。
けれどはるなは、ペンギンが以前あのトラファルガー・ローがはるなに向けたような何もかもを踏みつける冷たい瞳を、その帽子の下から見せない事を知っている。だからこそ、聞かれたままに、生徒のように答えられるのだ。
「……けれど、略奪するべき相手が死んでいては、それは誰のものとも知れないただの眠る財宝だ」
「……これが」
その眠れる宝の地図だと、彼は言いたいのだろうか。
手元にあった古びた紙に触れる、ある場所に何十にも丸が重ねられ、ただ一言、hereとだけ読める。たったこれだけで、あの船長はそこに行く事を決めるのだろうか。
「普段は出くわす海賊を沈める事の方が多いが、船に乗っていた海図であると、本物の可能性が高いからな、それらはお前がくる前に集めた海図だ。、この仕事はただおれの言う通りにしてくれればいい」
はるなはただ、黙って彼の言葉を聞いていた。
その表情の変わらない瞳、に、ペンギンは目を向ける。
「……何だ」
「い、いえ……」
「そこに座って良い、おれが言った所に海図を閉まっていけ、ここにあるファイルが全て、今までの海図を纏めたものだ」
言いながら、椅子を用意し、はるなを座らせ、向かいにペンギンは座る。淡々とした作業だった。あまりに効率がよく、無駄のない作業だった。はるなは大人しく座って彼の言う事を聞いた。
「これはBのファイルだ、これはG……」
「はい、……はい、」
「これは使えないな…処分だ……これは…、」
「はい…」
「……はるな、それはDと言った」
「あっ、ご、ごめんなさい……ッ!」
「……他に間違えたのはないか?」
急いで持っていた大きなファイルを掴むと、ペンギンが海図に目を落としながら言う。
「焦らなくて良い、夕食まで、お前に仕事は入れていない」
はるなはまた、動いていた指先をとめて、すぐ目の前の白い帽子のつばをみた。それがついと動き鼻の上を覆う影が揺れる、形のいい唇が、その止まったはるなへ向けられる。
「……言いたい事があるなら言うんだ」
「……あ、いや……あの……」
「……」
数秒、はるなは間を開けて、躊躇いがちにその唇を開いた。
「……どうして、普通に、接してくれるん、ですか……」
顔が見えないのがせめてもの救いだった。はるなはその帽子が、はるなより一回り大きい船乗りの体が、静かに唇を閉ざし黙るのを見る。ゆっくりと開けられるのを、確かめる。
「別に、お前を警戒している訳じゃない」
予想外の言葉に、はるなは驚く。
「……え?」
「されたかったのか?」
「い、いえ、……」
少し厳しい物言いだったが、それでも
「倉庫に、いるよりは、ずっと……ありがたいです…………」
あの地獄の日々を思えば、人が目の前にいてくれるというのは、どれだけ有り難い事だろう。
「わ、わたし、コーヒー持ってきますね」
黙り込んでしまったペンギンに居心地が悪くなり、はるなはそう言って立ち上げあると、ペンギンはそれを見ながら、徐に首をしゃくる。
「ここにポットはある」
「……」
「入れられないのか?」
「……」
はるなはふるりと、唇を震わせるしかできなかった。
「……その書類を纏めておいてくれ、自分でやる」
立ち上がって自分の横を通るペンギンに、はるなは恥ずかしさで俯いた。イッカクさんに、なんて事までいっぺんに見透かされてしまっては、もう呆れられても仕様が無い。目の奥が熱くなっていく、顔が赤い。
言い訳の一つも出やしなかった。
「ごめんなさい…」
淡々と作業をこなすように湯を用意し引き出しから豆をだすペンギンの後ろで、はるなは長い睫毛を伏せていた。
そして、お湯を注ぎ豆の匂いが静かに鼻を擽りだすその静かなひととき。怒りも何も無い、自分のいつもの作業の一部を、ふと彼女に言ってみただけだ。何の支障も無い。
けれど彼女にとってそれは大事なのだろう。この海賊船で、客でもない自分が、言われた事が出来ないでくの坊だと思われてしまうかもしれないという事が。
今にも泣きそうに俯く彼女を、ペンギンは静かに眺めている。
コーヒーを飲まないのだろうなと、そんな事を今更思った。
「キッチンにミルクと砂糖があるな…」
考えていたものの続きのように口にすると、案の定彼女はばっと顔をあげ、またその大きな瞳を潤めて、こまったように震えて言う。
「そ、そんないいです、ごめんなさい、気にしないでください、私……」
「……」
また、ペンギンは言葉を発せず眺めているだけだった。
吐き出す言葉がどんなものか探っている。何かを言いつけるよりも、彼女が絞り出してなんとか伝えようとする言葉の方が、遥かにペンギンの興味を誘っていたのだ。それはペンギン自身ですら、気付かぬうちに。
「……にがいの、飲めないんです……」
萎縮しきって、涙を流すように零す言葉が、それなのか。
不意を付かれるようだった。
ペンギンは危うく、笑ってしまいそうになった。
はるなは困り果てて、その親切の置き場所を探している。無下に出来る訳が無いと、せめてもの言葉を探している。
震える猫だ、爪がない仔猫。
ペンギンはその幼い輪郭を追った。
「……少し待っていてくれ」
言われれば、はるなは大人しく待つしか無い。数分後に甘い、暖かいココアがやってくる事もしらずに、その帰りを待ち、また慌てふためくしか出来ない。
ペンギンは想像つくすべての所作に思いを馳せて、さっさと時間が過ぎれば良いと、思った。
用意し始めたばかりのコーヒーが湯にあてられ、その味を失ってしまっている事を忘れる程、それほどに自らを覆いだした、シャチ達と同じようなこの感情に、我らが船長が気付いてしまう前に。





(第二の結び目)


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