Ad hominem.


点滴を二袋分くれてやったと船長が言っていたらしい。

はるなはそれを聞くや空腹でない理由が出来たことを言い分にして、クジラと名乗ったはるなの見張りにお願いをして夕食の準備を手伝えるよう志願した。
突然の行動に驚いたクジラは船長の許可がいる事をぼやきながら幾らか渋ったものの、時間が経過したことで薬の副作用も落ち着き体調が元通りになったことをはるなが懇願してくるので、その誠意らしき熱意に呆れつつ、その切迫した願いに恐怖心が突き動かすものをいやでも感じとってしまい、彼女の夕食の事も考えここから出すのを了承する事にした。

「……けど、その前に風呂行ってこいよ、つなぎに着替えるってなってもおまえずっと入ってねえだろ?」
「……いいんですか?」
「厨房入れるってんのに不潔なやつ入れられるかよ」

クジラは捕虜を扱う中にも不慣れながら女性に対しての配慮を含んだ棘のない声でそう言って笑うと、医務室に畳んで置かれた縫い直されたばかりのつなぎをはるなへ投げ、立ち上がり覗くようにベッド側の壁についた小窓の外へと目を向けた。

「今くらいなら他のクルーも入らねぇし、別にいいだろ、タオル持ってくるな」
「わざわざすみません、……本当にありがとうございます」
「いや、こちらこそ」
「?」
「ちゃんと話せてよかった」

クジラはその一言を、更に気の抜いた清々しい笑みと共に見せてくるので、第一印象といい何かと肩すかしする男の態度が怪訝なまでにも不可思議に見え、はるなは首を傾げた。

「……私とですか?」
「不審者っても、この海じゃ常識なんてあってないようなモンだろう?」
「………」
「その上突然可愛い女の子が現れたってなって、浮かれねぇ男はいねぇよ」
「そ、そんな大げさな……」
躊躇うはるなの頼りない声を遮って、男は続けた。
「話してみれば相手のことは大体わかる。というか話さないと正直わからねぇしこっちも納得できねぇからな、これでも船長より長く船には乗ってたんだ、……アンタは海賊どころか、悪人ですらねェよ」
「………」
「少なくとも、俺は信じてやるよ、嬢ちゃん」

単純な自身の心に、言葉があっけなく落ちていくのがわかり、はるなは肩が震えるのがわかった。
当たり前だと心では男の言葉に頷いていても、その自身の正体をやっと見つけて貰えた気持ちは、迷子の少女のように朧気に世界に浮いていたはるなにはあっけなく、そして余りに力強い威勢でこの胸をかき乱した。
自分の存在すらろくに説明できやしなかった人間を、どうしてこんなにもあっけなく信用してしまうのだろうと、不思議で理解も出来なかった。
けれど嘘ではない。そう信じたくなるほど真っ直ぐした目で、ベポも、彼も自分を見るのだ。

まったく海賊はわけがわからない。
死にそうなほど限界まで人を放っておいて、いざ会ってみたら気紛れのように人を迎え入れる。
船長命令でいくらでも人を殺すというのに、その胸にはか弱い者に生類の情を感じ取る精神を失わないでいるのだ。
戯れで、気遣いで、性根で、ありとあらゆる理由が彼らは海の上で揺れて騒いでははるなを見ている。
目の前の男の何か拙い物を見るような優しい視線を受けながら、はるなは困惑しか顔に出すことは出来なかった。やがて、俯いて彼の姿
確かめないまま、冷えた指先を握りしめる。


「………はるな、です」
「ん?」
「わたし………小嶋はるなって、言います……」

顔を勢いよく上げて男を見れば、クジラは一瞬ぽかんと口を開けてすぐ、赤い歯茎が見えるほどに笑みを浮かべ笑い出した。

「そうか!よろしくな!」
「はい、……!」

加減された手が何度もはるなの肩を叩く。
そんな彼の豪快な振る舞いに、ふと胸を打つような寂しさが心を裂いて湧き出ようとしたが、はるなは終始、ずっと俯いているしかできなかった。男が笑う豪快な声に、気持ちが揺さぶられてしまう。

この優しさを知っている。
同情の無意味さをわかっている。

自覚したのだ、ベポの時に、私は散々に思い知らされた。
船長が片手を降ってしまえば、彼はこの笑みを躊躇いも無く捨て、何の感情もなく私の心臓へ刃を突き立てるのだ。
そういう、だけの話だ。
結局、ベポの時だって自分は期待していたのだ。それが自分の甘えに他ならず、この世界の現実からどこかまだ夢のように自分を助けて貰える何かを望んでいる事がわかり、 はるなはただ重くのし掛かっていた錘がまた胸に増えていくのを感じた。

どうかクジラが陽気費に笑っている声を聞きつけ、どうかあの男がこの部屋に入ってこないようにと、はるなは焦りを感じながら肩を窄めていた。そんな願いはクジラにとって取るに足りない、あっけない話になり得るのだろうことも、はるなにはわかっていた。












ベポが様子を見に廊下に出たとき、ちょうどクジラに案内され浴室へと向かうはるなと三人は鉢合わせ、ベポは事情を聞くや大きな巨体を揺らせてはるなの体を掴んだ。まるで映像で見るヒグマが動物を襲うときのような俊敏でいて滑らかな腕の描く孤の線に捕らわれ、咄嗟に蹄に反応の遅れたはるなはあっけなくその大きな両腕の中に収まってしまう。
抱き寄せると言うよりは、捕まえるに近い動きだった。

「おれも入る」
「ん?一緒にか」
「うん、」
「……俺は元々入り口で待ってるつもりだったからな……はるな」
一応確認のためと目を向けられたが、むしろこんな風に、慣れ合ってしまっていいのだろうかと、 はるなはローに怒られひどく落ち込んだあのベポの小さな鼻を思い出し、狼狽えた。
「あの、……えと、私、……」
「俺とはいるのいや?」
「そんなことないの、一緒に、……私でいいの……?」
「はるながいい!」

ベポは目を爛々と光らせ、はるなの言葉を聞くや彼女が持っていた荷物やタオルを片手に奪い、もう片手で彼女の腰を掴み持ち上げると、どすどすと俊敏にクジラをおいて走り出してしまった。クジラもその行動は予想が出来なかったらしく、急いで振り向き足を早めその後を追う。

「わっ、わっ、わわ」
小さな叫びを繰り返すはるなの声は耳にも入らず、船内を慌ただしい足音が二つ走り抜けていく。
「なんだ?!どうしたベポ!」
「早く入りたい!先行くね!」
「おい!ベポお前ッ」



はるなは、そんなベポの手の中で気分を悪くすることはなかったが、やはりまだ生気を欠いた薄い肌は情けなくベポの力にされるがまま激しく揺れ続けていたので、ようやく途中ベポは気づき、見過ごせなかったのだろう、ひとつ扉を出た後は、樽を抱えるように持っていた両腕をずらし、はるなを両腕の中に閉じこめるよう抱え直して、また歩幅広く歩き始めた。悪意の自覚を持たずにした事ではあったが、やはり少しローの怒りがベポにも理解できたのだろう。あれから二人はろくに話せていなかったため、ベポは二人きりになったことで上機嫌を隠しきれない足取りではるなを隠すように忙しなく浴室へと駆け込んでいった。
2人が十分に入る広い洗面所で下ろされるやすぐにタオルや着替えを確認していくはるなをじっと伺い、ベポは言う。

「体は大丈夫なの?俺人間の体調とかわからないけど、もうなんともないの?」
「うん、あなたの船長のおかげだよ、ありがとう」
「キャプテンは何でも治せちゃうからね!」

混じり気のない賞賛の声に、はるなは出来る限り丁寧に笑い返した。
積まれている洗濯物を見れば使っていいタオルは何枚か合ったが、つなぎ一枚の下に下着もつけないでいることは流石に無理があるだろうが、それは最早今更わめける内容にもなれない事は納得している。
身一つで浴室に駆け込むベポは、すぐにシャワーをつけて豪快に浴びながらかわいらしい声を出してはるなを呼んだ。シロクマなのにお湯が平気という事実に少し可笑しくも思えたが、それより体を隠す布もないのは少し躊躇いがあった。
他の人よりはと急いで彼の誘いを受けたが、やはり扉を開けるまでははるなはベポだって恐縮してしまう。
あんなにカワイイカワイイ言っていたキャラとまさか、裸のつきあいをすることになるなんて、どう言ったって以前の私は納得しないはずだ。

「……どうしたの?はやくおいでよ」
「…………うん、」
そしてすぐ、がらりと開けて裸のはるなの手を引くベポにそんな感情は無駄であると、はるなは観念して足を踏み出した。

「……ベポのからだすごいね、泡だらけ」
「俺タオル代わりになるよ」
「ふふっ、可愛いね」
「それは嬉しくないよ」
すぐ体の洗いっこになって、二人で入ってちょうどくらいの一戸建ての家屋と変わらない浴室の床に二人で座り込む。泡をたくさん作ってベポの体に手を滑らせば、その全身がスポンジみたいに泡の固まりになるのだ、これで触れるなというのが無茶だ。
はるなはどきどきしながらもその腕に触れて、泡をすくうように体を寄せる。ベポが両手で泡を作ってははるなの頭にのせるので、なすがままはるなはくすくすと笑った。

「ごめん」
突然、ベポが湿ってぺったんこになった頭をさげ足の間に座りこむはるなに言った。
「どうして?」
「……おれのこと、嫌いになった?」
ベポはずっと、呟くように言ってはるなの言葉を聞かなかった。理由があの食事の一件しか思い当たらず、それで心を痛めるベポには、どうしても先に申し訳なさが浮かんでしまった。
そんな風に思って欲しくない、そう胸が痛んで、はるなはゆっくりベポへと真正面から抱きつき腕を回した。頬に触れる泡の向こうで、大きな心臓の音が聞こえる。
「……私、ベポのこと好きなの」
「……すき?」
「うん、大好きなの、ほんとだよ」

ベポは少し反応を遅くして、ゆっくり、はるなの体を抱き返した。鼻が泡をかき分けはるなの耳の下から肩をなぞる、大型犬より大きな腕が、優しくはるなを包んでいた。

「……はるなの体、いいにおいする」
小さなつぶやきに、はるなは思わず照れてしまった。
「やだ、汗くさいでしょ?」
「ううん、……」
低い小さなつぶやきが、浴室の中に響いた。
生き物がすり寄るようなあの柔らかい仕草で触れあい、ぎゅう、と、ベポはそのままはるなに抱きついたまま、しばらく動こうとしなかった。普段見せない静かなベポの温かい泡に頬をよせて、はるなの下腹を泡が伝い落ちた。



風呂場の外では、いつの間にか当番を交代したのかシャチが少しそわそわとした面持ちで扉の前に立っており、出てきた二人にかけ足で近づいてきた。
一度顔を合わせただけであるシャチは(勿論、はるなは少なくとも漫画という紙面上で何度もそのキャラを追っていたので別段彼に警戒することはなかったが)、やっとちゃんと彼女の顔を見ることが出来るからであろうか、サングラス越しでも視線を感じるくらいにはるなの上から下へとしっかり首を振り、やがて満足したようににかりと口をあけた。
「おー、さっぱりしたな!うんうん」
「ありがとうございます……お風呂まで貸していただけるなんて……」
仰々しくぺこりと頭を下げてるはるなを見て、それも笑うようにシャチはあっけらかんと手を振るだけだった。
「いやまあ、治療用のベッドだし汚されたくねぇからな、そんな気にすることじゃねえよ!……ていってもここでずっと寝られる訳にもいかないから……どうすんだろな、」
「………」
それを私に聞かれても、という顔をしたのはさすがに気付いたのだろうか、シャチははるなの困り下がった眉を見てすぐにうんうんと自ら頭を悩ませて見せたが、さすがにその先を察してくれというのは無茶な話しだったのだろう。
「船長に直談判するか?」
そんな事を簡単に言ってくるのだから、はるなは恭しく唇を噛んで苦虫を噛み潰しつつ静かに顔を振ってみせる。
「いえ……、掃除道具を貸していただけたら、倉庫で寝ますので、……」

「……そっか、俺たちも手伝うか?ベポ」
勿論!とベポはあがったばかりでまだしめった毛を震わせて言う。
「そのつもりだよ!おれまだはるなといっぱい話したい!」
大きな白い手を広げて言うベポは、隣で見ていて思わず抱きついてしまいたくなるくらい無邪気に笑いかけてくれる。
この子がいてくれて本当によかったと、はるなは気恥ずかしさより先に振り向いたベポへと笑って頷いた。
その様子を見ているシャチも、思わず肩をすくめ口角をあげる。
「おーおー随分仲良くなっちゃって」
「だっておれはるな好きだもん、はるないい匂いするし、からだ柔らかくて、お風呂楽しかった!」
「な、ベポっ……!?」
突然、躊躇いもせずにそんな事を言うので、はるなはあわててベポの大きなつなぎの裾を引っ張ってみるが、ベポにはその意味が伝わるわけがなく、うろたえるはるなをよそににこにことシャチへ言葉を続けるだけだった。

「キャプテン、よくおれのお腹で寝てるけど、その気持ちちょっとだけわかったんだ、おれもはるなと一緒に寝たい」
「や、やだ、ベポってば、……っ」
ふるえる口をあけてちらとはるながシャチを伺えば、同じくシャチが黒いサングラスの視界越しにはるなをはっきりみているのがわかり、はるなはすぐに目をそらし真っ赤になってうつむくしかできなかった。
ベポが気付けないこの気恥ずかしさを、同じようにシャチも感じているのかもしれない。
気兼ねなく話せる相手でもないというのに、女子同士で話すようなあられもない話題を男性の前で話してしまっては、赤くなるなというほうがはるなにとって難しかった。
幼稚なことで狼狽える子供だと笑うのだろうか、
はるなは慣れない話題にごまかしきれず、 目元を揺らしてこちらを見るシャチの視線から逃げるように、床へと目を落としたまま呟いた。
「………ごめんなさい」
「いや……」

それ以上言葉にすることもなかったはるなは、その時、まっすぐはるなを見ていたシャチが、そのサングラスの下で頭一つちいさい女の子が弱弱しく恥ずかしがる姿を見て、なんとも言えない気恥ずかしさで居たたまれなくなっていたのには、気付くことはできなかった。





(人間へ)あるいはそれに限らぬ全てへ、

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