Vena tangenda est.




次に目が覚めたとき、ベッドの周りには誰もいなかった。


はるなはぱちぱちと瞬きを何度か落とし、無音になったベッドから音を立てないよう体を持ち上げる。そのとき思いの外易々と動いた足に自分の体調が随分と回復していた事に気付いて、はるなは驚いた。
何時間寝ていたのか分からないほどにどっぷりと浸かり寝ていられたのは、久しぶりのベッドとシーツのせいだろう。
しかしそれにしたってここまで体力が回復したのは打たれた薬や点滴の賜物だ、トラファルガー・ローの医師としての腕を深く考えなかったはるなは、身をもってその医療技術に感服するようだった。肉体が賛美していることを無理矢理否定することも出来ない。あれだけ衰弱していた自分の思考までもが水を飲み溢れるよう光に満ちていて、その心には恐怖を覆うほどの感謝だけが浮かんでいる。
彼は、死の外科医なんて言われていても、それは所謂ブラックジャックのような天才的知識を備えている人間を讃えた海賊らしい通り名の証明なのかもしれない。

はるなはまだ気怠さの残る上体を鞭打つように動かして、するりとベッドから両足を下ろす。
見回しても時計がない所為で時間の確認は出来なかったが、出来ることなら早く仕事に手を着けたかった。夕食の準備でも手伝わなければ、これ以上謝る方法がないくらいだ。と、はるなは逸る気持ちでかかっていた毛布をあげる。
そしてそのとき漸く、自分の衣服に気がついた。

(これ、誰の服?、)
 

その時はるなが俯いたのと同じタイミングに突然開いた扉に、はるなは肩を振るわせ頭を上げた。中に入ってきたペンギンの姿を見て、咄嗟に優良児のような振る舞いで、はるなはぴったりと両足を揃えベッドの前に立つペンギンの向かいに座り直した。その仰々しいまでの慌て振りはペンギンの眉をひそませたが、言葉にでるまでには至らなかった。


「体調は?」
「おかげ様で……本当にすみませんでした……」
「いや」

ペンギンははるなの体を確かめるように眺めていたが、その視線に圧迫するような意図を感じたはるなは、彼が言葉を放つ前に礼儀を見せるよう口早に言った。

「あの、仕事に向かっても、」
「今日はいい、食事を持ってきたから済ませたら大人しく寝ていろ、」
「…………ごめんなさい」
「……なぜそんな謝るんだ」

人の表情を見もせずに決まっていた言葉を返すだけのペンギンの冷静さに緊張していたはるなは、ちらりと垣間見てくるペンギンの訝しげな視線にますます困惑して、眉を下げながら情けなく肩をすぼめた。

「ご迷惑でしょう……?」

ペンギンは返事を聞いて、更に言葉を選ぶように両腕を組んで縮こまる丸い背をじっと見る。本当に直感的に恐縮している印象しか彼女から受けられないことに、ペンギンはシャチの言葉を思い返した。

「…………どういうつもりでここに来たのは知らないが、基礎戦闘力がシャチより劣る程度の人間であることはわかった」
「…………」
「だが、それだけだ。能力で幾らでも補える戦いをお前が持ち込む可能性がある以上、俺達はお前を不審人物として扱わせて貰う」
「…………」
「ここにも見張りを一人置く、わかったか」

はるなは、ペンギンがそうして確認を取るように自身へ言葉を聞かせる優しさを見せたことに驚いた。彼には船長同様言いしれぬ軽蔑の眼差しを感じていたので、迷子の人間を扱う大人の正しい言葉遣いに暫く口を縫いつけて、やがて静かに黙り込んでいたはるなは、少し目を剃らした後思い直すようにペンギンへと顔を戻し、生真面目な姿勢でゆっくり頭を下げた。

「ありがとうございます」
「…………今度は何で礼を言うんだ」
「………不審人物だと、思われても……しょうがないのは、十分承知しています、……初めは殺されてもしょうがないと思っていたので、……だから、」

はるなは少しだけ強ばった口角を緩めた、目元は疲れで寝起き独特の弱々しさを残していたが、その表情は却ってペンギンに気弱の印象を強く与えた。

「本当にありがとうございます」
「…………船長の気紛れだ、同情じゃあない」


それを言うべき言葉ではないと、ペンギンは内心気付いてはいたが、毒気のない人間を脅す事など滅多になかったので、ペンギンはそれ以外に適切な表現を選ぶことが出来なかった。

そもそもペンギンは部屋に入ったときから、その木の擦れる音で驚いたように慌てた女の鈍感振りに、いつまでも演技だと疑う自分の心に疑念を抱きそうにもなっていたのだ。
これほど徹底して弱者ぶるのはある意味至難の業であろうし、危険を侵して滞在を求めてまで狙う船長に接触しようともしないのは明らかに不審ですらあった。
納得しようと言う結論に至ることはなかったが、よく考えれば船長はいくらかの非道さが彼女に向けられても、村を襲い女を犯す謂わば"低俗"の趣味など興味もない事から別に彼女を無理に貶す必要もないのだ。
すべて船長の戯れの中の話であるが、気紛れに殺さないでいる彼の"気紛れ"に付き合うように、ペンギンは持っていた錠をポッケに入れ直しその場を後にした。







(脈はじっさい 手でさわらないといけない)

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