Calamitas virtutis occasio est.


部屋に入ってから5日が経った。



過酷な環境はたったこれだけの短期間で、健康で病一つ無かったはるなの体を精神的にも肉体的にも蝕み尽くし、はるなはベポを待つという事以外にはその日の記憶を保つことすら出来なくなり、ただ痒みを覚えた肌を伸びた爪で容赦なく掻きむしり、ひたすら無心に浸る他にない日々を送るだけとなっていた。

感情はまだ確かにあったが、最早それはこの世界の虚像云々やトラファルガー・ローという空想の真理など論外にあり、ただ、普通の生活に戻りたいという一心に、幻覚のような日常風景を思い返すだけなのであった。怒りや悲しみすら彼女の若い心から沸き上がることはなかった。
一度感じた死の恐怖を思えば、このまま知らない国に運ばれて頭に袋を被され拳銃で脳を打ち抜かれることを想像するのすら、今では容易だったのだ。
なんでもいい、
それでもいい。今、今すぐにでもこの状況が変わるのならば、なんだっていいから運命に動いて欲しかった。

永遠に変わることない密室の木箱を見つめ続けて、はるなは静かに息を続ける。


相変わらず、ベポと話す内容は端的であり、彼は時間を見つけては喜んで話し込んでくれたりするが、あくまでここへ来るのは自分を生かす名目の下にこうしているだけなのであって、たとえ付属された会話の端々にまったく不純のない好意があったとしても、別段逃げる手助けをするつもりなどは彼に毛頭無いことを、はるなはトレーを渡す際に話した初めの二日で理解していた。


どっちだってよかった。
捨て猫を子供が隠れて育てるような感覚で遊ばれているのだとしても、彼を攻め立て咎める気にはまるでならない。
はるなのストレスは限界まできており、感傷的に泣き出す気力すら残っていなかった。

本当にあと一週間かそこらで自分がこの船から下りられるのだろうか。
それすらも、最早信じられなくなっていたのだ。
ふと明日にでもパッタリと死んでしまうような気がして、はるなは乾いた喉を閉じて、死んだらまた元の世界に戻れますようにと、せめてもの祈りを何度も繰り返し神に捧げた。






そしてまた突然、不規則な時間に錠の開けられる音がしたが、その時はもう驚く理由もなく、ベポでも、シャチでも、船員でもどうでもよく思えていた。

そしてそれはすぐ、嘘だ、と自覚させられるのだ。


「ベポ、早いね、どうしたの?」


現れた白くて大きな体に優しくそう問いかけると、すぐにベポは口を開いて、そして悩ましげに顔を逸らした。
それの意味がわかったのは、彼が体を横に滑らせ、後ろに経っていた人物が自分の目の前に立ち塞がったからだった。


「捕まっといて人のクルーを足に使うとは、大した度胸だな」


5日ぶりにみたその鋭い眼光は、少しばかりも緩められることなく、はるなを静かに見つめていた。
はるなはローの声にまるで蛇に睨まれたかのように体が固まるのがわかった。
疲労のせいではないのだろうが、こちらへ近づく動きを少しも捕らえることは出来ず、気付けば体は壁に縫いつけられ、呼吸が出来ないよう鞘で喉元を押さえられた。
はるなを見据える威圧するような眼差しは、嘲笑を含んだ口元と合わせはるなの全てを否定する如くにねじ伏せる。
抵抗できるわけがなかった。

「キャプテン……」
「下がってろベポ」
「……アイアイ」

ベポはだらりと力なく目を細め為すがままにされたはるなの顔をちらりと見た、そして何も言うことはなく静かに俯き閉口した。
はるなは、ベポへ忠告しなかった自分の不甲斐なさにこの状況に怒る気にもなれず、そしてあっけなく事が終わったことにより自分が考えていた理想の甘さを痛感せざるえなかった。

「四日飲まず食わずとは思えねェ顔色だな」

そう言って笑う、何もかも把握していたローの物言いには最早、言い訳を探すことも無意味な痛烈さしかなかった。はるなは言葉を出そうものの、喉が圧迫され上手く舌も回らない。

「島まで運んで飯も貰って、俺の船を客船と勘違いしてねェか?あ?」

怒っているんだ、そうはるなは感じてすぐ、掠れた喉を裂く思いで息を吐いた。

「ごめ、んなさい……」
「あ?」 
  
「……勝、手に、食事、を頂いてたのは、あやまります……でもどうか、……仕事をさせてください」
掠れながら言ったその言葉に、ローがぴくりと眉を顰めたことを、瞼を強く閉じて必死に酸素を吸いながら言葉を探すはるなは気付くことが出来なかった。


「なんでもします、働きますから、……島に着くまで、食事をください……お願いします……」


そして、少しの間をおいたあと、不意にローは刀をするりと首からはずし、遊ぶように刀を肩へ乗せ上げる。
途端にはるなはずるりと、硬直しきった腰を抜かせ床へと落ち、荒く肩で息をしながら朦朧とする意識を何とか繋ぎながら、せめてローが放つ言葉を理解しようと意識を張りつめた。


「なんでも、ねぇ」

ローは、ゆったりと余裕をもちながら扉の前に佇んでいたペンギンへと振り返る。

「お前ら、使わなかったのか?」

ペンギンはそれに特に答える事もせず、黙って座り込みせき込む少女を見下ろしていた。
使う、も何も相手にすらしていなかったことをその反応から確認して、ローは乾いた笑みを浮かばせる。

「腰立たなくなったらそのまま切り落としてやってもよかったのによ」

────はるなにはそれが、とてもじゃないが冗談には聞こえなかった。
恐らく半分は可能性のある話だったのだろう、固唾を呑んではるなが俯いていると、目の前に見えた刀の鞘がはるなの顎に添えられて、上を向くように顔をあげさせられた。

微かな呼吸と自分の心音でまともな世界が作られない中、ぼんやりと浮かびあがる景色に、まるで獣のように自分を見定めるローの双眼を、はるなはふと、綺麗だと感じてしまっていた。


「いいか、てめェは客じゃねぇ、奴隷のようなモンだ」
「………は、い」

有無を許さない言葉だった。

「変な真似したらすぐに首が飛ぶと思え。……精々、死にたくなきゃ必死で働く事だ」

ああ、海賊の目だ 。

それは、紙面越しでしか見ることの無かった褪めた彼の瞳が見せる静かな表層で、濃い紫の瞳の奥の瞳孔までもが、ちっぽけなはるなの脳裏に激しく焼き付かれるようだった。
不思議と、その目に恐ろしさは感じなかった。

この部屋からやっと出られるという実感に、他の感情は何も付いてはこれなかったのだ。










(災難は勇気を試す機会である)

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