Aquila non captat muscam.


ペンギン




海図室というのは、普段航海士であるベポと、その指示により正確な海図を作る役目である航海長の俺くらいしか居座ることはない専用の作画部屋だった。
航海を続けていくと絶対的に海図室には資料や図面の紙が山のように重なっていくので、部屋には海図用の幅をとった作画机に備えられた固定椅子と、船長用の大きめのソファが一脚しか用意されていなかった。広さのある部屋を埋め尽くすのは海図を纏めたファイルとそれを集める棚の並び、入りきらない島々で手に入れた海域資料は、床の上に積み重なったままである。
船の指針を決める際には自分が船長室へ向かうか、ここに船長が座るか、立ったまま机を眺めるように並び、広い図面を眺めながら話すことのどれかだったので、置かれたソファは元々船長がいるという前提の為に置かれただけのようなものだった。
そのため部屋に入ってもくつろぐ用な物は無い上、船長が使うことが数少ないにしろ名義が船長である分他人が座ることをまず許さないというようにしていたのだが、ここ最近付き合いのもつれが生んだのか、人のそういった律儀さを考慮しない人格が表に出始め、堂々そのソファに座りかける奴が一人現れた。
その振る舞いが怒りになる事はないのだが、少々礼節に欠けた性格はこれからも長く旅を共にするとなると、自分だけでない所にも問題が生まれてくる事だろう。
今日ばかりは一言釘を刺しておこうかと、入った途端堂々と座り込んだ姿を視界の端に捕らえ、図面から顔を上げた所、肝心の男はそのソファで足を組み、何か考え込むように持ち上がった自分の顔を見つめていたので、思わず俺は想像と違う言葉が口から出た。

「なんだ、何かやらかしたのか」
「違ェよ、アレだよ」
「アレ?」
「侵・入・者!」

シャチの顔はやけにはっきりと言葉を誇張するような作りをしていて、俺は不審になりながらもやっと今地下に閉じ込めているあの女の姿を思い出した。

「……何か吐いたのか?」
「いや、吐いたっつうか、……まあ問題になるような事は何もなかったんだけどよ、それがまた問題というか……うん」

どっちつかずの物言いをするシャチに、更に眉間に皺が増える。互いにそんな相手の表情を上手く掌握できない出で立ちをしているもので、そんなやりとりは常ではあったが。
何時も物事を倫理的に纏めないシャチの言葉は会話の引き延ばす癖があった。

「……はっきり答えろ、船長に報告はしたのか?」
「“問題ないです”って言ったけど、なんか面倒臭そうに追い払われた」
「報告の仕方が悪すぎる、船長は素性を調べろと言ったはずだぞ」
「それがわかんねぇって言うんだよ」
「それを答えさせるのがお前の役目だったんだろうが!」
「はー!だから!問題ねぇよ!」
「何の話だ!」

あまりに適当な物言いに声を張ると、シャチは困ったように両腕を組みさも自室であるかのようにソファに深く腰をかけた。
普段使わない頭を回して悩み抜いているらしい表情が、曇りがちに唇を尖らせる。

「……だから、別に、悪い奴じゃねぇんだよ、……まあ何で答えられないのかはわかんねぇけど、ホント、監禁いらねぇくらい弱いんだって」
「………どこまで騙されてるんだ」

俺の言葉に、シャチは言い訳をするように口早に切り返した。

「だってあいつ、俺がベポの後ろにいて少し殺気を向けてても、俺の存在にすら気付かなかったし、途中で俺がナイフに手をかけたのにも気付けなかったし、筋肉の付き方は普通の女と一緒だし、手は信じらんねえくらいキレイだったぜ?殺しどころか人を殴った事なんてありません!ってさァ、」

その、あまりに簡潔な思考に頭を抱えたくもなったが、言っている事が間違いでないだけ報告の意味はあったことだろう。シャチはもう一度その姿を思い返すようにうんうん唸りながらせわしなさそうに足先を揺らしている。
俺は持っていたペンをそっと机に置き、背もたれにもたれ掛かり目を合わせないシャチの表情を伺った。

「……船長には、それを言ってないな?」
「言ってない言ってない、俺がバラされる」
「………」
「おまけに、ベポ超気に入っててさ」
「珍しいな、あいつがキャプテン以外に懐くなんて」
「な?変な感じするんだよ、」

都合のいいようにしか解釈しないシャチに見かねて、俺は気兼ねなさそうに口を開いた。

「……殺しとくべきだったか」
「…………」
「反対か?」

「正直、な」

俺が、少しばかり低く忠告するように発した言葉に気づきもせずに、シャチは俯いたまま言葉を続ける。

「なんていうか、」
「あんまりにも普通の感じだったから、」


「……………」

絆されてる、というよりは、それは久しく残虐行為を行わなかった自分たちの海賊という立場を忘れた、腐抜けの一言のように思われた。

船長には言わないでおこう、問題がないのならそれでいい、そのまま放っておけばいい話だ。
そう思い俺は、未だ無駄な問答を脳内に繰り返すシャチをさっさと追い払い図面へと再び顔を向けた。

────船長も恐らく、そこまで危険視するほどの存在でないからこそ、別段構うことも殺す事もしなかったのだ。それこそ、暇になったら遊べばいい、そう思っているだけにすぎない。
自分の想像よりもずっと船員が実直で、遊んでいいと言われたから仕事を怠り女を犯し遊ぶような腐った趣味がない事など、船長は考慮してすらいなかった。

もしベポかシャチが捕らわれたのなら、その時にでも確実に殺してやればいい。
能力者が己の力を過信して基礎体力もろくに付けずに戦いを挑むことなど、さして想定できない事ではないのだ。







(彼は小物を相手にしない)

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