TL:83 | ナノ


 昨日寝過ぎてしまったという意味で怠い体を引きずりながら、私はどこか重苦しい気持ちで教室に向かっていた。
 やはり一度不安を自覚してしまうと、すぐさまテンション回復とはいかないらしい。ああ本当に、どうすればもとの場所に帰れるのだろう……。
 悶々とそんなことを考え巡らしながら、やっぱり一人で解決しようとしていること自体が間違いなんじゃないかと考え付く。
 私が『私』ではないと知ってくれている人が一人いるだけでも、気持ちは大分変わる……かも。


「……でも、信じてもらえるのかな」


 実は数年後、もしくは別の世界からやって来たんです――なんて、大抵の人からすれば冗談でしかない。 
 そう考えて息を吐きながら、『私』の教室の扉に手をかける。そして、特に妨害もなくそれを開けた。

 中にはすでにクラスメイト達が半分ほど登校していて、皆好きなように時間を過ごしていた。
 友達同士で喋っている子もいれば、一人机に向かい、作業をしている子もいる。そんな光景自体は、私の高校生時代と何も変わらない。
 ぼんやりとそんなこと思いながら自分の席へ歩き、新羅さんはまだ来ていないのだろうかと思った瞬間。


「おはよう、ユウキちゃん」
「ッ!?」


 背後からいきなり声をかけられ、私は半ば飛び上がるように振り返った。
 そうしてすぐそばにあった自分の机に腰をぶつけ、思わず「いづッ」と声が漏れる。

 
「そんなに驚かなくても」  


 少し苦の交じった笑みを浮かべるその人は、言わずもがな折原くんだ。
 ちなみに私が知っている折原さんと区別するために、腹をくくって折原くんと呼ぶことにした――というのをついさっき決めた。

 というより、昨日の今日でこの顔を見るのはまずい。具体的にどうとかではなくなんかこう、まずい……気がする。
 そう根拠もなく彼から目を離して、私は小さく「おはよう」と呟いた。そしてすぐさま自分の席に着き、鞄から一限目の教科書を取り出し始める。
 
 ……いや、根拠はあると言えばあるか?


「本当につれないなぁ」


 そう頭上から聞こえた声の持ち主は、私の目前にある座席の椅子を引いてそのまま腰かけた。
 どうして目の前に座るのだろう。そう怪訝に思い顔を上げると、狙ったようなタイミングで折原くんが後ろへと振り返った。
 そして彼の顔を見た瞬間、いやに自分の意識がぼんやりとする。それはどこかひどく安心したような、ホッとしたような、不思議な感覚。

    
「……そっか」
「なにが?」


 じいっと私が顔を見つめていたからか、折原くんはやや怪訝そうに言った。
 少し慌てて何でもないと言いながら、私はまた視線を彼からそらす。

 これはよくないことだ。私は昨日捨てたはずの考えを、無意識に実行しようとしている。折原くんと折原さんを、重ねて見てしまいそうになっている。
 顔も仕草も言動もそう変わらないのだから無理もない気がするけれど、それがいいことだとはあまり思えない。なんとなく、厄介なことになる気がする。
 まあ、本当にこの折原くんとは妙な関係を築きたくないから、という理由もあるにはあるけれど。
 
 いまいちはっきりとしない自分の考えに悶々としながら、とりあえず折原くんから離れることにした。
 門田さんへハンドタオルを返しに行かなければならないし、授業まではまだ時間がある。
 そう無言で席を立った私が一歩踏み出したときだった。


「そんなに、きみも俺が嫌い?」


 背後から何の感情も含んでいないような声が聞こえて、私は思わず振り返る。
 するとそこには薄い笑みを浮かべた折原……くんがいて、唐突なことに言葉が詰まる。
 ここで嫌いということは簡単なはずだ。事実数日前の私も、彼に嫌いだと言えた。『私』を模してそう言えた。

 それなのに。


「き、嫌いな、わけ」


 声が震える。何故だか寂しくなる。喉が締め付けられるような感覚がする。目頭が熱くなる。
 おかしい。私はこんなに情緒不安定な人間だっただろうか。いや、今はもうそんなことはないはずだ。
 それなのにおかしい。昨日から、体調も含めて何か変だ。

 
「ユウキちゃん?」   
「……え」 


 頭を抱えそうになった寸前、折原くんにそう言われて私はふと顔を上げる。
 すると目の前の彼は眉を潜めて自分の目の下を指差していた。まるであっかんべをするような仕草に、私自身も首を傾げてから、ハッとする。

 慌てて自分の頬に手を当ててみると、水滴の感触がした。嘘だろ私……っ情緒不安定ってレベルじゃないぞ!?


「こ、これは、何の意味もありま、ま……じゃなくて、意味はないッ!」


 思わず敬語を使いそうになって、慌ててそう訂正しながら私はその場を逃げ出した。 

 教室内であのやりとりをどう思われたのかはわからない、というより気にしている余裕なんてなかったけれど、少なくとも折原くん自身は変に思ったはずだ。
 いきなり言葉に詰まるし、急に泣き出すし、そもそも敬語を使ってしまっていたり、『私』からすればキャラ崩壊もいいところだ。
 そんな急なキャラ崩壊を彼――いや、この場合、あの人はどう思うだろう。数年前とはいえ折原さん、あの人はどう私を見るだろう。

 そう全速力で廊下をかけながら、私は無計画に階段を上る。どこになにがあるだなんて、まだ私は少しもわかっていないのだから。 
 何人も同じ制服の生徒たちを追い抜かしながら、頭の中では別のことばかりがぐるぐると巡る。

 あれは変な奴扱いで終わらせてくれるものなのか?また私はいらぬことをしでかしたのでは?むしろそうだとしか考えられないような……。

 とにかく今度顔を見かけてしまったら、どうすればいいの!?

 そう鼻をグシグシさせながら校内中を駆け回り、丁度7回目の曲がり角を曲がった瞬間――大きな影がそこから現れて、息をのむ暇もなくその人影にぶつかってしまった。
 私は半ば弾かれたように後ろへ倒れ、派手にしりもちをつく。別の意味でも涙が出そうだった。いや、泣くより前に謝らないと……。

 誤解されないように目のあたりを乱暴にこすってから、ぶつかった衝撃でくらくらしている頭を押さえて立ち上がった。


「す、すみませ、」
「野崎?」 
「え?ユウキちゃん?」


 相手の顔を確認すると同時に、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。
 目の前には制服を着た平和島さんと、その後ろから顔を出している新羅さんが不思議そうな顔でこちらを見て、すぐさま二人ともぎょっとしたように目を丸めた。
 場違いにも、珍しい光景だと思ってしまう。けれど、そこでも不意に涙腺が緩んで(自分でも意味が分からない)、ぼろぼろと涙が出てきた。


*前 次#

戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -