ポシェットに入れていたハンドタオルは、辛うじて濡れていないようだ。
そのことにほんの少し安心して息を吐くと、
「これ使え」
となりから青い無地のタオルが差し出された。そのタオルの持ち主はもちろん門田さんなのだけれど、同じベンチで隣り合って座っていると言うオプション付きだ。
何故こんなことになったのかと言えば、門田さんに帽子を取ってもらった後、これからどうするんだという話になり、
「この恰好で歩くのは恥ずかしいので、ここで自然乾燥させます」
と答えた結果、どうしてか門田さんもその自然乾燥待ちに付き合ってくれると言う話になった。
さすがにこんなことで時間を割いてもらうのは悪い、というかどこかへ行く途中だったんじゃないかと私も言うには言ったのだが、
「時間つぶしに本屋へ行こうとしただけだ。用って程のもんじゃねぇ」
と答えられてしまい、それ以上食い下がることもできず、こういう状況になった。
嫌だという気持ちは微塵もないのだけれど、やっぱり元々知っている門田さんとは違うわけで、どうしたものか。
折原さんや平和島さんの一件で、同級生の男子にさん付けや敬語を使うのはおかしいと気づいてしまったからなぁ……。
なんて思いつつも、
「すみません……」
やっぱり敬語が抜けない。
ありがたくタオルを受け取って、ずぶ濡れの服に当てがう。
「ちゃんと、洗濯して返します」
「ああ、月曜にでも返してくれ」
そう無難な約束を交わして、一度会話が途切れた。
もともと向こうの『門田さん』とも数えられるほどの会話しかしていないので、そういえばこの人のことをほとんど知らない自分に気付いた。
まあ、厳密に言えば、こちらとあちらでは差異があるのだ。全て同じというわけではないと思う。
……向こうという言葉で思い出したけれど、本当に私はこの先どうすれば――って、いやいや。
一瞬自分の置かれている状況について頭を抱えそうになったが、それは一人でもできることだ。
せっかくの機会なのだし、門田さんと話してみよう。そして、今度こそさん付けも脱却しよう。敬語はもう使ってしまったから、仕方ないとして。
よしと意気込み、私は口を開いた。
「か、門田京平くん、ですよね」
やばい何これ違和感がえげついない。そうよくわからない罪悪感に苛まれつつ、何とか言い切る。
すると、門田さんは若干怪訝そうな表情で、
「そうだけどよ……」
と言葉を返した。
明らかに今の口調を怪しんでいる雰囲気だ。私は絶対にスパイやら隠密の仕事には就けない。就く機会もないと思うけれど。
とりあえず、ミスを隠すためには、別の話題でカバーするしかない。
再びよしと意気込み直し、口を開く。
「私、野崎ユウキです。この間はお世話になりました」
タオルが落ちないよう手で押さえつつ、小さめに頭を下げた。
すると門田さんは事も無げに「世話ってほどのこともしてねーよ」と言う。
……どうしてこの人、いちいち言動が男前なのだろう。女子からさぞかし人気があるに違いない。しかも大人しそうな子から人気があるせいで、滅多にアタックはされないタイプと見た。
今度、同じクラスの女の子達にリサーチしてみよう。
「そういえば、折原――」
新しい話題を提示しようとしたとき、やはり折原さんもくん付けにするべきか、それともさん付けで通してしまうかと一瞬で悩んだ結果、
「――くん……に、あだ名で呼ばれてましたけど、仲良いんですか」
ついに折原さんにもくん付けをしてしまい、謎の罪悪感に見舞われる。
決して絶対的な上下関係というわけではないのだけれど、加えて何だろうこの気恥ずかしさは。まずい、顔が赤くなっている気がする。
さりげなくタオルで顔を隠し、私は門田さんの言葉を待った。
「仲が良いっつーか、一年んときに同じクラスでよ。知らねえうちに気に入られちまって、変なあだ名まで付けられた」
「……じゃあ、あの『ドタチン』ってあだ名、あの人が作ったんですか」
門田さんには似合わないなと常々考えていたけれど、そうかあの人のネーミングセンスか……。
参ったと言うように溜息をつき、門田さんは「ああ」と頷く。
「おまけにあいつが毎回それで呼ぶもんだから、クラスの連中にもすぐ広まってよ……。俺はあんま気に入ってねえんだけどな」
「でも、あの人があだ名を付けるほどの何かが、門田さんにはあったんでしょうね」
「……なんだそりゃ」
訝しげな門田さんの声を聞いて、私はしまったと口を塞いだ。
くん付け忘れてた!
ではなく。これではまるで私が、折原さんを気にかけているような話になってしまう。そんなのは『私』じゃない。
「いや、だから、門田くんが、いい人だってことですよ。それで一目置かれてたんですね、きっと」
内心慌てながら、あくまで門田さんメインの話であることを主張した。
すると、隣に腰掛けているその人は、あまり納得していなさそうな具合で首を傾げる。
「あのな……そこまで『良い奴』扱いされても、」
「まあ、ドタチンは何だかんだ言ってお人好しだからねえ」
「!?」
突如背後から聞こえた声に、私はすぐさまその場から立ち退いた。
案の定、いっそ不気味ともとれるほどの笑みを浮かべた折原さんが、ベンチの背に手をかけていた。
本当に何者なんだこの人、というかいつからここにいたのだろう……。
さすがに門田さんのあだ名話を聞かれていたとなると、高校生とはいえ折原さん。何か気付くことがあるかも知れない。それはまずい。
しかし、どう真偽を確かめたものだろうと閉口していると、門田さんが呆れた様子で口を開いた。
「お前、いつからそこにいた?」
門田さん、本当にいい人。
元から平均値以上だった門田さんへの好感度が、私の中でうなぎ登りだ。
「んー。ユウキちゃんが君のことを、いい人だって言い始めた辺りかな」
にこにこと笑みを浮かべたままそう言った折原さんに、心の内で安堵の息を吐いた。
しかし、安心ばかりもしていられない。折原さんとの接触は、まだ出来る限り避けた方が良いだろう。私が『私』であるために。
「それで、こんなところで何してるの?デート?」
「違ぇよ」
「あのっ」
折原さんの冷やかしを遮り私が声をかけると、二人が同時にこちらへ振り向いた。なかなか珍しい光景だ。
……って、そうじゃなくて。
「私、そろそろ失礼しますね。タオルは必ず月曜に返しますから」
その言葉に門田さんが「おう」と言ってくれたのを聞き終えて、私は二人に背を向けて走り出した。
折原さんが何か言っていた気がするけれど、引き返して聞き直すわけにもいかず、結局何を言っていたのかはわからず終いだった。
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