『今日、変な奴と知り合いになった』
一昨日の帰宅後、そう首を傾げて口を開いた静雄に対し、幽自身も小さく首を捻った。
高校に入学してからの彼の兄は、折原臨也という同級生との揉め事で始終苛立ち気味であり、特に登校前や帰宅後はその波が大きい。
そしてその苛立ちを和らげるために兄へ牛乳を差し出すのが幽の常なのだが、それが今日はただ不思議そうにしているだけで、苛立っている様子は見られない。
一体何があったのだろうと思いつつ、幽は黙って静雄の話を聞いた。
『――それで、何かよく分かんねぇんだけどよ、その場にいられなくなっちまって別れた』
そう話に区切りがついた時には、静雄が何を不思議に思っているのか、幽はだいたい把握できていた。
ついでにその場にいられなくなった理由も分かりはしたのだが、これは言って良い物かと無言のまま疑問に思う。
『兄さんは、その人の事どう思った?』
変以外で。
そう付け加えると、静雄は少し悩むように首を傾げた後、
『良い奴そうだった』
あの新羅といられるんだから、相当いい奴か変な奴かどっちかだ。
そう自分で言いながら納得するように、静雄は頷いた。
新羅という兄の友人からしてみれば、酷い言われようだろう。しかし、その友人がどういう人間かということを小学生時から聞かされている幽からすれば、フォローの余地がなかった。
そんな短いやりとりの中でも推測は確信に変わりつつあったので、最後に念のためと静雄に尋ねる。
『その人可愛かった?』
『可愛かった』
間髪を入れない返答だった上、真顔だった。
『……あ?』
そして自分の言ったことに対して首を捻る静雄。
『何で俺、今即答したんだ?』
『……さあ』
それから先は兄が自分で気付かなくてはいけないものだろう。そう判断した幽は、適当に返事を濁すことにした。
――というやりとりを経てからの、今日。
例の彼女と偶然遭遇した買い物帰りに、静雄は難しい顔をしていた。
今日も前回と同じように中途半端なところでその場を立ち去ってしまったと、少し気にしているらしい。
「あの人なら、そんなに気にしないと思うよ」
平然とそう言ってのけた。
「それでも気になるなら、月曜に学校で話しかけてみたら?」
「……それは、そうなんだけどよ……」
うーん、と両手に買い物袋を持ちながら唸った静雄は、悩んでいるような表情のまま、幽の方へと顔を向ける。
「なあ、幽」
「うん」
「俺は何がしたかったんだろうな……」
「……何がしたかったんだろうね」
ただ純粋に不思議がっている静雄の言動を見て、どうやっても兄の学校生活は前途多難だと感じる幽だった。
×××
平和島さんと別れた後、買い物を終えた私はゆっくりと帰り路を歩いていた。
微妙に傾ききっていない太陽がほんのりと温かく、まだ春なんだなーと呑気な気持ちに浸ってしまう。
事態はこんなに悠々としていられるはずの物ではないのに、私はいまいち危機感に欠けているようだった。
数日前に落下してきた謎の紙片の言葉を鵜呑みにするなら、多分このままでもいいと思うのだけれど、あんなものを信用して良いのかとも思う。
というより、信じられるわけがない。あんな怪しさ全開の文章をどうやって信じろというんだ。
それにしたって、この事態をパラレルワールドとして解釈するならばの話なのだが、元々ここにいた『私』はどこへ行ったのだろう。
まさか、私と入れ違うように折原さんと同棲している時代に行ってしまった……なんてことがあれば、向こうはさぞかしややこしいことになっているに違いない。
『私』は折原さんをよく思っていなかった、というより嫌いだったようだし……。そう考えてみると、嫌な胸騒ぎがした。
「……折原さんか」
改めて思い返してみると、何となく、本当に何となく、薄ら寂しいものがあった。
アパートに帰って、料理を作って、夕食を食べて、翌日の予習をして、ぼーっとテレビを見てから、たまに昼食メンバーの子達とメールのやりとりをして、おやすみなさい。
ここ数日の一人暮らしは、文字通り一人だけの生活だった。そこにいることが当然の人。その人がいないというのは、なかなか物足りないものらしい。
これが噂のホームシック?
「まあ、っぽい人ならいるんだけど」
というより同姓同名、容姿も性格もほぼそっくりそのままな人がいるんだけど。
私の認識上で言えば、別人扱いだ。ここの新羅さんや平和島さんが、あっちの新羅さん、平和島さんと違うように、同じ人だとは思えない。
結局の所、様子を見ながら生活することしか出来ないという結論に落ち着き(落ち着いてるのか?これは)、到着したアパートの自室前で鞄の中から鍵を取りだした。
明日はどうしようかなーなんて、やっぱり呑気に構えながら解錠。ドアノブに手を掛ける。
「あ」
そして入室前に、扉の隣にある郵便受けを覗かなければいけないことを思い出した。
『私』は何故か新聞の夕刊をとっているらしいので、回収しておかないと翌朝の新聞が入りきらず、床へ落ちているのを拾う羽目になるのだ。
ガタガタと郵便受けに手を入れ夕刊を引っ張り出す。と同時に、A4サイズほどの紙切れがカサッと床に落ちた。
嫌な予感がした。
まさか例の怪文章かと考えたのだが、前回と違って便せんに入っていないことが、少しばかり気になった。
恐る恐る拾い上げて、裏面を確認してみる。そして、そこにあったものに対し、私は大きく息を吐いた。
ここでの『私』も、それなりに苦労はしていたらしい。
拡大コピーされた自分の姿(今日と同じ服装なので、もしかすると今日撮られた物かも知れない。というより、角度からして盗撮に間違いない)の上に書き殴られた『謝れ』の文字。
――帰れる帰れない以前の問題が、私には課せられているようだった。
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