その日の私はいつになくそわそわしていた。どれくらいそわそわしていたかというと、意味もなく時計を見たり、何度も植木鉢の土が乾いてないか確かめたり、どこか埃まみれになっている箇所はないかとぐるぐると家の中を徘徊したり、人から見るとただの怪しい人になっていた。 時刻は正午過ぎ。午前中にコウキくんからきた連絡では「お昼ちょっと過ぎたら行きます」とのことだったので、つまり、コウキくんはもうすぐやって来るというわけで。隠し切れない興奮を発散するように、ソファの無造作に置いてあるクッションに顔を埋めるも発散なんて出来る訳もなかった。我が家(と言ってもマンションの一角だけど。)にポケモンがやってくるのだ。冷静でいられる方が無理という話である。ポケモンをゲットしたくても両親に禁じられていた為に、友達が楽しそうに自分のポケモンと触れ合っていたのをただ見ることしか出来なかった寂しい子供時代を思い出しながら紅茶でも煎れて落ち着こうとソファから腰を上げ、棚をがさごそと漁る。普段紅茶なんて来客が来た時くらいしか出さないのに、やっぱり今日の私は少しおかしい。 コウキくんに話を持ち出された数日後、ポケモンを育てみたいという内容の話をポケギアで伝えると、コウキくんは一拍置いた後にとても嬉しそうな声色で「わかりました」と了解の意を述べた。好きなポケモンがいるならその子を持ってくると言ってくれたけど、ポケモンに詳しくない私は「バカ食いしないポケモン」という条件を除いた以外は全てコウキくんに任せることにした。あの時何故すぐに返答を出さなかったのかは、経済的な面が気になったからだ。ポケモンと暮らしていくにはどれだけの世話の費用がかかるか知る必要があった。ネットで調べてみるとカビゴンは一日400キログラム食べないといけないんだとか。 幾ら可愛くても育て方や共に過ごしていくことが難しいのは、少し辛いものがある。コウキくんはポケモンのことについてはかなり詳しいから、鈍臭い私でも一緒に暮らせるようなポケモンを選んでくれる筈だ。(コウキくんに頼りすぎてとても申し訳ないが、彼は「大丈夫ですよ」と、優しい言葉をくれた。とても十一歳とは思えない。) 沸騰したお湯にティーバッグを浸している途中に待ち侘びていた無機質なチャイムが鳴り、ティーバッグを手放して一目散に駆け出した。きっと戻る頃にはティーバッグはティーカップの下にどんよりと無言で沈澱しているに違いない。 「こんにち──」 「こんにちはコウキくん!」 「はは、こんにちは。今日はやけに元気ですね」 「いやー、今日が楽しみで楽しみで…」 えへへとだらし無さ満点の笑顔を浮かべながらコウキくんを家の中へと促すと、コウキくんは「お邪魔します」と静かに言って靴を脱ぐ為に私に背を向ける。コウキくんの後ろ姿を見て、いつもよりリュックが膨らんでいることに気付いた。 「コウキくん、もしかしてリュックにポケモン入れてきたの?」 「あながち間違ってはいませんけど、生身のポケモンはリュックに入れるよりモンスターボールに入れて持ち運ぶ方が何倍も楽ですよ」 私の滑稽な質問に少し苦笑を漏らしつつ、リュックを肩から下ろして抱き抱えながら居間へと進むコウキくんの後ろ姿を少し死にたい気分になりながら追う。 「ムクホークに乗る前にリュックに入れといたんです」 リュックから出てきたものはタマゴだった。てっきり生身のポケモンだとばかり思っていたので少し面食らった。ポケモンのタマゴなんて見るのは初めてだ。これからカビゴンみたいな食料専門掃除機が生まれてくるわけだ。成る程。ポケモンってすごい。 「こんなタマゴからカビゴンみたいのが生まれるなんてこの世は不思議だねコウキくん」 「なまえさん、カビゴンは一つ進化した姿なんですよ。タマゴから生まれるならカビゴンじゃなくてゴンベっていうポケモンが生まれるんです…あ、でもお香を持たせなかったらカビゴンが生まれちゃいますね」 「タマゴからカビゴン?」 「タマゴからカビゴンです」 やっぱりこの世はまだまだ上手く理解するには難しい出来事がごまんと広がっているのだろう。ポケモンはんぱない。 「このタマゴ、ここ数日すごく動くようになってきたから生まれる瞬間を見せたくて」 「コウキくんありがとう!緊張してきた…あ、このタマゴのポケモンは何なの?」 「それは生まれてきてからのお楽しみです」 「お楽しみ…!」 「お楽しみです」 どんなポケモンが生まれてくるのかはとりあえず置いといて、新しい生命が世界に生まれ落ちる瞬間に立ち会えることが出来るなんて、私はコウキくんに感謝しなくてはならない。今度いっぱいケーキ買ってくるね。そう言うとコウキくんは照れながら「楽しみにしてます」なんて言って笑った。 「あ、ちょっとカップ片付けてくるね」 「わかりました。僕はタマゴの様子見てますね」 「おうよ」 完全に沈黙している無惨な紅茶はコウキくんが帰ったら飲み干すことにしよう。勿体ないし。適当に台所の隅に隠して、コウキくんに出すジュースとお菓子を、物があまり入っていない侘しい冷蔵庫から取り出す。昨日買ったロールケーキが半分以上まだ残っているから、二人で分けよう、そうしよう。 ロールケーキを切り揃えている途中コウキくんの興奮した声が家に響いた。 「なまえさんっ!生まれるよ!早くこっち!」 「マジか!!!!ちょ、待って!」 大股に走ってコウキくんの元へと駆け出し、二人並んでタマゴを見守る。タマゴがぴしぴしと割れる音しか聞こえないこの家の中で、ごくりと固唾を飲み込むことすら無意識に躊躇ってしまう程、何とも形容し難い空気が私達を包んでいた。もうちょっとで生まれる。私はこの生まれてくる子と仲良くなれるだろうか。今更ながら出てきた不安に、少しだけ体がぶるりと震えた。何なんだ、私。今になって、(だめだそんなの。) 急に手に与えられた子供特有の少し熱いとさえ感じられる体温に少し驚いて、隣にいるコウキくんを見る。コウキくんは私の目を見て「大丈夫、怖くないですよ」と静かに零した。 コウキくんが言うなら、大丈夫だ、怖くない、多分、きっと。 再度タマゴに目を向けると、丁度良いタイミングでタマゴからポケモンが出てきたところで、私は新しい命の誕生とこれからの生活が楽しくなるようにと、心の中で祝い、祈った。 |