trash | ナノ



自分の何でもない一言で人が一人消えていくことがとても容易なことであったということを、その時初めて知ったのは二年と少し前のことだったか。
ナギサの海は今日もいつもと変わらずに静かに波が立っていて平和だ。じんわりと汗が滲み出すのをそのままにして、ぼうっと何もない海を見つめた。傍らにはライチュウが砂の山を作って一匹楽しそうに遊んでいる。海に来た時にライチュウがよくやる遊びの一つなのだ。頭を優しく撫でてやると嬉しそうに笑うから、つられて俺も笑いを零す。そういえばあいつもよくこうやってライチュウのことを撫でていたっけな、なんて何処か気が遠くなる意識の中ぼんやりと思った。電気タイプの中では一番ライチュウが好きだから触れることが出来て幸せだと、初めて会った時に嬉しそうな表情を浮かべて言っていたのだ。この時は何もかも全てが上手くいっていて幸せだった。俺の彼女もよくあいつの冗談で笑って、オーバも定期的にこっちに戻ってはあいつと一緒に俺と彼女をからかってきていた。確かに幸せだったのだ。そんな幸せが壊れた日に、あいつは、俺の発した言葉に、何て返したっけ。覚えてる筈なのに記憶がぽっかりと消失してしまっていて空白だけが残り、すごく落ち着かない。何だっけ。俺は何と囁いて、彼女は何と答えた?思い出そうとするのに、無意識に脳が拒否をした。何だったっけ。


「デンジ」


薄れた気がするだけの記憶を辿っていると聞き慣れた声と自分の名前にそっと振り返る。無意識に眉と眉の間に皺が寄った。結構神出鬼没な所が嚼に障るのだ。三年前からふらりと帰って来てはいつの間にか消えているこいつには毎度苛々する。また帰って来たのかよ。さっさと仕事に戻れ。腐ったアフロ。

「だーれが腐ったアフロだ。俺は勝手にジムを留守にするお前とは違ってちゃんと上司の様子と仕事の片付け具合見て来てんだよ」
「あっそ」

ジムを出ても街の中に留まる俺と頻繁に所在知らずになるチャンピオンだと大分差があると思うんだが。そう言ってもオーバは聞き耳持たずなのは小さい頃から一緒にいる俺には解りきっていることだ。反論せずに黙って海に向き直った。今は何時だろうか。微妙な位置にいる太陽を見上げても何も分かるはずがない。

「何も用がないなら今すぐ消えてくないか。一人になりたいんだ」
「あるから来たんだ。……今日この日だから言うことだけど、もうなまえのこと考えるのはやめにしようぜ」


俺の方を見ずに、ボールからブースターを出してやりながらオーバが静かに言った。ボールから飛び出したブースターはライチュウに駆け寄り、二匹は楽しそうにじゃれつき始める。眺めていて和む筈なのに心は正反対に硬く冷たく凍っていく気がした。オーバの話のせいだ。


「なんだ。お前はなまえのこと庇うのかよ」
「…お前の中であいつはお前の彼女を殺したも同然かもしれないけどな、なまえの心を殺したのは、」



誰でもないお前だろ?デンジ。



「……………そうかな」
「そうだ。そうじゃなかったらあいつ、まだ此処にいた筈だろ」


…何故俺は今まで忘れてたんだろう。
さっきまで思い出そうとしていた記憶が鮮やかに、まるで昨日のことみたいに脳に映し出された。そうだった。あの日、あの時、冷たくなって動かなくなった彼女を沈んだ様に見つめるなまえの耳元で俺は一生苦しめるに違いない呪いの一言を、生きている彼女に送ったのだ。「ひとごろし」なんて、ありきたりで、ざんこくで、あの時のなまえには酷い位お似合いな一言を。送った。その時なまえはその言葉に目を閉じて、唇を噛み締めて何も言わずに震えていた。次の日には跡形もなく、まるではじめからなまえなんていなかったんじゃないかと思ってしまった位に何も残さず消えてしまったんだけれど。

「オーバ」
「…何だよ」
「俺はなまえのことなんて早く忘れたいって、いつも思ってる。毎日毎日バトルをしてる時も何をしててもだ」
「……」
「でも俺がなまえを忘れたら誰があいつが死んだことを覚えてられるんだ?」
「…デンジ」
「俺は、」

俺は何事も人のせいにしないと何もかも駄目になるんだよ。忘れるんだ。全部消えてなくなるかもしれないんだよ。

最愛の彼女が死んで二年になり、なまえがナギサシティから消えて二年になる。ナギサの海は今日も青くて静かで、それでいていつも通り死んでいた。太陽が眩しくて、綺麗だ。何もかも忘れそうになる位には。