trash | ナノ


俺がなまえを意識しだしてしまったのは、誰もいない教室で、彼と何処とも知れない女がキスを交わしているところを目撃してしまった時からだった。




なまえは岩ちゃんと同じく小学生からの付き合いで、よく外に行っては虫を捕まえたり、公園で駆けずり回ったりして遊んでいた。程なくして俺と岩ちゃんはバレーの道に進んだけど、なまえはサッカーが大好きだったから、一人でそっちの道に進んでしまった。互いに遊べる時間が減ってしまってはいたけれど、毎日学校で顔を合わせてはいたし、運良く休みが重なった時には三人で日が暮れるまで行き先を決めることなく自転車を漕いで遠くまで行ったり、どんな些細なことでも面白かったりして。そんな小学校生活を送っていた。


多少喧嘩はすれど、俺達は疎遠になることはなく──というか喧嘩を通じて親交を深めることが多かった気がする──漠然とだけど、何年、何十年もずっとこんな風に一緒にいるんだと思っていたし、それが当然のことだと思っていた。だって岩ちゃんはがみがみ何か言いつつも俺を見放すことはなかったし、なまえは俺にがみがみ言う岩ちゃんを嗜めたり、俺の我儘を聞いてくれたりした。岩ちゃんは俺を甘やかすなまえも「こいつがこれ以上調子になったら収拾がつかないだろ」と叱っていたけど。



岩ちゃんが鞭ならなまえは飴のような存在だ。



俺はこんな性格だからかバレー部連中や同級生は(男子は勿論だけど、そこそこ女子からも)俺に対する扱いが割とぞんざいで、でもなまえはいつも俺を甘やかした。そりゃあオイタをした時は真面目な顔で苦言を漏らされはしたけど、基本的にあいつは俺に優しかったのだ。






「おはよう徹」


朝、なまえはバレー部の朝練がない日以外に限り、俺の家まで迎えに来る。大きな欠伸を噛み殺しながら迎え出れば、その顔が面白かったのか小さく声を上げて笑った。

「おっはよぉ……今日も良い天気だね、絶好のサッカー日和だ」
「まあね。あんまり日差し強くならなきゃいいけど」

眉間に皺を寄せて空を見上げるなまえに「水分補給はちゃんとしなよね」と言えば、彼は横目で俺を見ると「それは徹にも言えることでしょ」と返される。確かにそうだ。あんな蒸し風呂みたいな体育館で水分補給を怠れば下手すれば死んでしまう。じっとしていても汗をかいてしまうあの暑さの感覚を思い出して一人げんなりしながら、一つ目の角を曲がった。三つ目の角を曲がって少し歩いた先に岩ちゃんの住まいがあるのだ。



「っつーかさ、また足痛めたんだって?一から聞いた」
「…軽い捻挫だって」
「軽くても捻挫は捻挫。オーバーワークは駄目だって前にも言ったじゃん。気を付けろよ」
「はーい」
「お前はチームの要なんだから」
「はーい、はいはい」


俺のテキトーな返事でも、なまえは「分かっていればいいよ」とそれ以上は何も言ってこない。岩ちゃんだったら「何だそのフザけた返事は!クソ及川!」って言ってくるレベルだ。下手をすれば拳骨が落とされるやつ。岩ちゃんが俺を心配してるんだってことは分かってはいるけど、なまえくらい寛容になってくれないかなと思う。



「そういや来週の水曜暇だよね?体育館の点検とか何とかでさ、部活休みになっちゃったんだよね。三人でぶらぶらしようよ」


その内の一人は言わずもがな岩ちゃんである。

サッカー部は水曜休みだということを見越しての誘いだった。
それなのに、なまえは「あー…」と小さく声を漏らすと眉を八の字にして、困ったような笑顔で俺を見る。最近よく見るようになったその表情で、次に彼が言う台詞が、何となく分かった。


「ごめん、先約入ってる」
「………彼女?」
「…えっと、うん」
「…いいねー!彼女とラブラブみたいで。俺もラブラブな甘酸っぱい恋したーい」
「……別に、そういうわけじゃ……徹だって彼女いるだろ。何言ってんの」
「え〜?別れたよ。自分よりバレー優先にされるの辛いんだって」
「…ごめん」


気まずそうな表情を浮かべるなまえの背中をぽんぽんと叩き「なまえが謝ることじゃないって」と笑えば、彼は少しほっとしたように息をついた。


「いいねえ、部活優先でも許してくれるコ」
「許してくれるってわけでもないけど。あいつも部活忙しいし」
「ふぅん?」
「徹も部活やってる子とかと付き合ってみれば?案外良い人いるかも」
「だといいんだけどねぇ」



二つ目の角を曲がりながら、俺は口角を綺麗に歪ませる。



いないよ、そんな女。




***




今日は月曜日だから、部活はない。
帰路につく影の数は三つじゃなくて、やっぱり二つだけだった。彼女が出来てから、なまえは俺達との付き合いは悪くなる一方だ。あの時キスしてたんだから、今頃やることは大体済ませてんのかな、なんて下世話なことを考える。なまえのキスは上手いのか下手くそなのか、などと考えたところで無理矢理思考を振り切った。こんなどうしようもないことを考えたって時間の無駄遣いだ。
不純な考えを振り払うべく、「今頃なまえ何してんだろうね、俺達放ってさ」と話を振ると、岩ちゃんは「野郎より彼女優先は仕方ないことだろ」といつもの常套句を言い放った。誘いを断られる度に文句を零す俺を窘める為に使われる台詞第一位がこれだ。ちなみに第二位が「お前はなまえの彼女かよ」で第三位が「お前より彼女が大切だからだろクソ及川」だ。内心この第二位、第三位は心が若干抉られるから勘弁して欲しい。

「寂しくないの?」と尋ねれば、「別に」と一言だけ。何とも岩ちゃんらしい憎い解答である。


「朝に喋ってるし、する気になればメール出来るし。っつーかなまえ困らせんなよ。お前だって彼女いた時とかよく二人で遊びに行ってただろ!」
「それは時々でしょ?遊びに行かないと煩いんだもん。仕方ないよね」
「大差ねーだろ。こういうの何て言うか知ってるか?自分のことを棚に上げるっつーんだよ。一つ賢くなれたな、クソ及川」
「いーや、違うね!時々だった俺に比べてなまえはいつもじゃん。いーっつも彼女彼女って!」
「…………はぁ」



岩ちゃんは大きな溜息を吐いて白い目で俺を見た。その「どうしようもねーなコイツ」みたいな視線はやめて欲しい。どうしようもないのは俺を放っておくなまえの方だ。こんなに長い間一緒にいるのに“彼女”なんて一時の関係にしか過ぎない存在に惑わされているのはどうかと思う。


「昔から思ってたけど」
「何?」
「なまえがお前の後ろくっついてたように見えて──

本当はお前がなまえにくっついてたんだよな」




一瞬。


ほんの一瞬だけ。




心臓を、手で鷲掴みにされたような。
そんな感覚が体を駆け巡った。



「…………は?何ソレ意味わかんない。岩ちゃん頭大丈夫?足りてる?」



返事の代わりに顔面に一発痛いのをお見舞いされた。本当に鼻血が出るかと思うほどじんじん痛むものだから、顔を顰めながら鼻の具合を確かめる。ほんと痛い。俺に対して全力投球な姿勢は評価するけど、暴力の方にまでそういう姿勢を持ってこなくていい。


俺のなまえへの想いなんて欠片も知らない岩ちゃんは真剣な顔で口を開く。



「いい加減あいつから自立しろ。もうガキじゃねーんだから」



「十八は日本だとまだ未成年だからガキだもんね!」そう返せば本日二回目の頭突きが再び顔面にやって来た。



今度は鼻血が出た。
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