etc | ナノ
※転生






時代の流れに従ってコンクリートジャングルと化してしまった東京はいつの間にかやって来た夏の季節の到来により、今日も私の化粧を滲み出る汗で台無しにしようと企んでいるらしい。ようやく日頃行っている手入れの成果が出てきたのかファンデーションの乗りが良いのに、このままだとさして意味がないようなものだ。全く忌ま忌ましい。
ぎらぎらと睨みつけるような陽射しを睨み返し、止まることを知らない汗をハンカチで拭い去る。毎日この状態で人間が敷き詰められた電車に乗り込まなければならないのだから、家を出てから気分はどん底だ。夏だ。全て夏の所為なのだ。沖縄よりかは大分涼しいだろうが生憎私は沖縄の地に立ったことはないので気温差を感じようにも、どだい無理な話である。この朝から蒸し暑さと戦いながら出勤しても得られるのは何もない。残るのは疲労と汗に塗れた自分自身だけという事実は変えようのない事実の一つだ。
半袖のサラリーマンの後に続いて改札を出、見慣れたホームに向かう。白と黒のコントラストが視界いっぱいに広がる中をどうにかこうにか歩き、数分もしない内に来るであろう電車を待っている列に並んだ。人と人との距離がゼロに等しいので熱気がむんむんとホームを包む。隣にいた半袖のお兄さんがネクタイを緩めながら「暑い」と誰に言うわけでもなく溜息をつきながら呟いた。心の中で同感だと返事をしながら手で首元を扇ぐ。気休め程度にしかならなくとも何かをして暑さから気を遠ざけなければどうにかなってしまいそうだ。主に頭とかが。

暑さを吐き出すように息をついて周辺にいる人に視線を散らばすと、私のように手で扇いで自ら温風を身に受けている人、何もせずただ電車を待っている人、同僚と話して暑さを紛らわせている人がいる中でふと目に止まる人影があった。衣更えをしたのか、いつもの少々珍しい学ランはいずこ、どこの高校でも見られるような白い半袖のYシャツを着込んでじっと何かを見据えている。

(……大正君だ。)

大正君とは私が彼に断りもなく勝手に付けた渾名である。
別に私が彼に「大正君」と正面きって呼ぶことなんてないし、第一私と彼は知り合いではないのだから「今日から大正君と呼ばせて頂いてもよろしいでしょうか」なんて見ず知らずの女に言われたら何だこいつはと白い目で見られるか、変質者扱いされて車掌室に連行されるだろう。私だってまだ社会人の一員でいたいのだ。
大正君とは毎日この通勤通学ラッシュの時間帯に現れる美男子のことだ。時々会社の同僚が彼のことについて話しているのを耳にする。彼の名前までは知らないらしいが、稀に見る美しさを感じる顔立ちと誰も寄せ付けないような無表情さが彼女達の心をざわめかせているようである。年下相手に騒ぐのは個人の趣味だし一向に構わないが、仕事を放り出してまで話すくらいなら社会人をやめてまた学生に戻ったらいかがなものだろうと書類整理に追われながらそう考えていた記憶がある。
私が大正君と名付けた由来は、初めて見た時に一昔前に戻ったかのような古臭い学生帽を被っていたからという何とも陳腐で下らない理由からだ。渾名なんて短絡的な、シンプルかつ瞬間的なインスピレーションさで作られるものであるし、私は自分が付けた「大正君」という渾名を結構気に入っている。大正君本人からしてみれば堪ったもんじゃないけれど、赤の他人だ。本人には絶対に知られることのない話なのだ。呼称くらい付けたって大正君の人生には何ら関係がないからこのくらいしたって構わないだろう。

大正君は自分よりも幾分か年上である人間が暑さでうんうんと唸っているのに、我関せずと言った感じで白い肌を太陽の下にさらけ出し、じっと立っていた。彼は汗をかくという行為を忘れてしまったのかもしれない。人形のように欠陥の見当たらない顔は無表情で、何も映し出されることはなかった。
相変わらず取っ付き難さのオーラは無くならないが、少しばかり影のあるところが女の人にはウケるのかもしれない。

そんなこんなで大正君のことを考えていると待ちに待った電車がとうとうホームにやって来た。待ってましたと言わんばかりに人の波が押し寄せてくる。私もその波の一部になり、押されるように車内の中に入り込んだ。冷房が少し効いていたがそんなものは何十人といる人の前では余り役には立っていなかった。ぎゅうぎゅうに押し込まれてからそんなに時間が経たない内に発車のベルがホーム内に響く。扉が閉まり、暑苦しさでいっぱいの車内は静かに動き出した。こんな狭い車内の中でも大正君は汗を一つ掻かずにいるのかもしれない。首を少し動かしてあちこち見回せど真っ黒に輝く学生帽は私の視界に映りはしなかった。

***

動き出した電車に揺られ、揺られて数十分経った。勤務先の近くの駅に停車することを知らせるアナウンスが聞こえたところで私はほっと一息ついた。会社に着いたら一先ず化粧室に直行しなくちゃいけない。ゆっくりと電車は速度を落としていく。何とか人混みを掻き分けて扉付近まで辿り着けば、さっき探していた大正君が窮屈そうに扉に張り付いていた。流石に大正君でも人がゴミのように詰まっている空間の中は苦手なようだった。

小さく音を開いた扉を前に、後ろの人に押し出されながらホームへと足を着ける。それと同時に私より先にホームに降り立った大正君がべしゃりと音を立ててすっ転んだ。学帽が吹っ飛び、鞄もその辺に無造作に転がる。その見事な程の転びっぷりに一瞬大正君の近くにいた人達息が止まったような気がした。
それから一呼吸置いて大正君を避けるように歩いていく人々を見、何だか無視するのもアレな気がしたので大正君の学帽や鞄を拾い集めていると、ゆるゆると大正君が立ち上がり私に近付いてくる。背は私より頭一つ分くらい高かった。

「どうもすいません」
「いえいえ、お怪我とかないですか」
「大丈夫で…す……」

学帽を受け取り、大正君は私の顔を見るなり驚いた顔をしてじっと見詰めてきた。沈黙が痛いし、周りの目も痛い。何人かのOLやサラリーマンの方々が通路の邪魔だと私を見て舌打ちを送り届けてきたりもしてくる。

「えっと、あの…早くしないと遅刻しますよー…」

私も遅刻しちゃうんですよー。
そう言うと大正君は私の両手をがしりと握り締めた。必然的に私が持っていた大正君の鞄は再び転がり、地に落ちる。新品そうなのにそんなぞんざいな扱いをしていいんだろうか。
ひんやりと冷たい大正君の手を感じながら大正君を見上げれば、大正君は無表情だった表情に一つの微笑みを浮かばせ、
「銀楼閣でお別れして以来ですね。お久しぶりですなまえさん」
と言って笑った。


半世紀の隠し事をしているね