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※ネタバレ描写有り










太陽は既に空高く上がっているというのに薄暗く、どこか陰欝な雰囲気を漂わせる町中はコートを着込んだ大人も雪にはしゃぐ子供も見当たらなかった。視界に映るのは去年から漂いはじめた濃い霧だけで、かなり居心地が悪い。この時間帯なら人が並んでいる筈のバス停には誰もいなく、私一人だけだ。
ぬるい温かさを保つカイロを片手で握り締め、気休め程度に暖をとりながら携帯で時刻を確認すれば、バスの到着時刻はゆうに過ぎていた。


ようやく稲羽よりも田舎の所から這い出て来れたのに、濃霧と治安の悪化で再び舞い戻らなければならない事になるなんて去年の四月の私には想像出来ない筈だ。
霧が濃くなっていくに連れて、稲羽の人達は徐々にどこか様子がおかしくなってしまった。窃盗、暴漢、浮浪者の続出。出歩く人は目が虚ろで生気が感じられず、不気味そのものだった。果たしてここは現実世界で、世界一安全な国だと言われた日本なのかと疑いたくなる。こんなことになるならもっと早くに帰省していれば良かったかもしれない。最早私の知る稲羽とでは百八十度違いすぎた。

徐々に下がっていく体温に体を震わせながらじっと立ち尽くしていると、白く濁った景色の中に人影がうっすらと一つ見えた気がした。目をこらしてじっと見つめていれば、体格からして男だろうと判断が出来る。もし暴漢だったらどうしよう、と普段の稲羽という土地の治安からすれば想像出来ないことを思った。隣のクラスの海老原さんが数日前に暴漢に襲われそうになった話を急に思い出し、背筋が凍る。

こつこつと迷いない軽快な足音が沈黙を繰り返している周りに響く。霧が濃すぎて誰だか分からなかったが、「なまえちゃーん?」と少々くぐもり気の抜けた声を聞いて飛び付きたくなった。この声には聞き覚えが嫌という程あった。稲羽警察署に勤務している足立さんだ。
前に稲羽で起こった連続殺人事件での聞き込み調査で出会ってからというもの、度々町中で会うと世間話をする程度の仲だが、今の私には足立さんという存在が神様かそれ以上の何かに見えた。心細い気持ちと恐怖心が嘘のように消えていくのを感じながら困り顔の足立さんの元へ小走りで駆け寄る。

「足立さん!」
「ああやっぱりなまえちゃんだ!探したよ!アパート訪ねてもいないんだから。危ないじゃないか。この間暴漢も出たってのに…」
「すいません」
「あーっ…と、怒ってる訳じゃないから、ね?心配だったんだ。ほら、さっき堂島さんの甥っ子さん達に会ってさ。君がまだこの町にいるって聞いたからびっくりしたよ」
「今日実家に帰ろうと思って…」
「そっかそっか。こんなとこにいるより百倍安全だね。僕が送ってあげるから、とりあえず僕のアパート行こっか」
「え、」
「バスは数日前からもう来ないから待ってても無駄なんだ…本当どうにかしてるよねぇ、ここ」

バスすらも来なくなっていただなんて、予想してなかった。
黙り込む私の片手にある荷物をとり、空いているもう片方の手で私の手をぎゅっと優しく握り締めた足立さんは「ここは危ないから歩こう」と言って笑うとゆっくり歩き出した。

「そういえば、瀬多君達に会ったって言ってましたけど…」
「うん?…あぁ、会ったよ」
「瀬多君達は今何処に?」
「さあ?僕になまえちゃんがまだ稲羽にいるって言ってからどっかに行っちゃってさぁ…最近の若い子ってのは何考えてんだか分かったもんじゃないよ、ったく…」
「そう、ですか…」
「うん」

何となく足立さんの声が刺々しくなった気がした。もしかしたら足立さんは瀬多君のことが好きじゃないのかもしれない。今までの態度からして、結構気に入っているのかなと思っていたけど、大人は嫌いな人相手にも嫌な顔一つしない生き物だから、足立さんはその大人の内の一人だったんだろう。話題を変えるようと隣を歩く足立さんを見上げる。…あ。

「?どうかした?もしかして僕に惚れちゃった?!参ったなぁー僕女子高生に手出したら警察に捕まっちゃうなぁー…って、僕も警察なんだけど!はは」
「……」
「だ、黙らないでよなまえちゃん…」
「アパートってまだですか?」
「いや、もうすぐ着くよ。着いたらすぐに車出すから、安心してね」

足立さんはきれいに笑った。きれいに笑ったのに、


いえるはずないや


ワイシャツに色濃く残る赤いそれに私は見て見ぬふりをした。