etc | ナノ
「………」
「何時間待ったと思ってるの。早く開けてよ」
「また来たんですか」

赤木が再来した日から数日後の昼。珍しく雨は降らなかったが、相変わらずの肌に張り付くようなべとついた気候はなまえの気持ちを下降させ、そして階段を上がりきった直後の一声に気分はますますどん底に陥った。部屋のドアに凭れ掛かり座り込んでいる赤木は煙草を燻らせながら苦い顔でこちらに近づいてくるなまえを観察するように眺める。赤木の目の前まで来たなまえは当たり前の様に其処にいる白髪を立たせると鞄の中に入っているらしい鍵を取り出し始めた。小さく文句を二言三言呟くなまえを、無意識に口角を上げて見ていた赤木は扉を開く彼女の手元に目を止める。彼女の左手の薬指には見慣れない銀色の輪が嵌められていた。まじまじとなまえを見れば、服装はいつもより気にかけているのか身なりがしっかりしている。そして何より彼女は薄く化粧をつけていた。彼女はほとんど化粧をしない。赤木はそれを知っている。以前化粧の気がないことを冗談交じりで指摘すると化粧は苦手だからあまりしたくないのだと喋っていた気がする。化粧をしていたからと言って赤木にはまるで関係の無い話であり、何をどうこうする訳でもないのだが、彼女が化粧をし、指輪を身につけた事に対して理不尽過ぎる憤りを胸の内に感じた赤木は口に咥えていた煙草を下に落として靴で捻り潰した。それに気付いたなまえは叱咤の声を上げながら赤木を部屋に押し込み、無残に潰された煙草を拾い上げて部屋に入る。

「酒」
「ないです。…あ、そうだ。今日こそ受け取って下さいよ。今までのお金」
「………使ってなかったのか」
「怖くて使えませんよ」
「…ふうん」

いつもの場所に腰掛けてなまえがいつもの麦茶を持って来るのを見、再度その左手に視線を持っていく。幾ら見ようとも存在感の強いそれは赤木にとっては何でもないものだ。赤木の人生には無関係のものだ。何の思い返すと自分と彼女の間柄はとても脆いものである上に、少しばかり異端染みたものであることに気付いた。赤木はなまえが自分とこうして会っている時以外に普段何をしているのかなど知らない。そして尋ねたこともない。時折思い出したかのように彼女の元へ行き、飯を強請り、内容のない話に少しばかりの時間を取った後、去り際に金を置いていくだけだ。そして彼女も赤木が命懸けの勝負事や喧嘩に溺れていることなんて知る由もない。何とも味気のない話である。他人と呼ぶには近過ぎる上に、友人と呼ぶには何処か違和感を覚える。まるで細くて今にも千切れそうな綱の上を歩くような、すぐにでも消えてなくなってしまいそうな、そんな関係だ。考えれば考える程意味の分からない怒りがこみ上げてくることに赤木は不思議に思いながら手元に置かれたコップを手に取った。

「ねえ」
「?」
「アンタ、結婚でもするの」

突然の問いに喉を鳴らしながら麦茶を飲み込んでいたなまえは少し咳き込みながら赤木を見た。彼が自分の左手を凝視していることに気付くと「これですか」と納得したように口を開く。

「まだ式は先ですけどね。とりあえず男避けにでもしとけと言われたんで」
「…アンタ、バカだな。男なんて寄って来るわけねえだろ」
「言われなくとも自分が一番よく分かってますから黙ってて下さいよ」

男避けとして嵌められた金属の輪をしているのにも関わらず男である赤木を部屋に招き入れているということに、なまえは気付いているのだろうか。気付いていたとしても赤木を男として認識していないだけなのか。急に黙り込む赤木になまえは訝しげな表情でその恐ろしく整っている顔を見上げる。その顔を見た瞬間、何故だか手に持っているコップの中身を目の前にいる彼女にぶち撒けなければならないような気がした。自分が自分でなくなる感覚を直に感じながら手に持っていたコップをなまえの頭上で逆さにひっくり返す。案の定なまえは行き成り体にかかった麦茶の冷たさに驚き、間抜けな声を上げた。何が起こったのかよく分からないのか交互に赤木と自分の濡れた服装を見る。その慌てふためいた姿に赤木は自分でも聞いた事がない位の歓喜を含んだ声で笑う。目は爛々と狂おしい程に輝いている。頬に伝う薄い茶色に染まった液体はなまえの化粧を少しずつ崩していった。それを見て赤木はいつものなまえの方が何倍もいいじゃないかと考える。何故そう思ったのか理由は自分でもぴんとこなかったが、未だに混乱しているなまえの肩を押しやり、そのまま床に強く倒す。打ち所が悪かったのか顔を歪ませて唸るなまえの腹部に腰を下ろせば「ちょっと、」と制止の声が上がった。

「何」
「何、って…そりゃあこっちの科白ですよ!何してくれるんですか!折角の服も化粧も台無し…とりあえず退いて下さい!」
「化粧似合わないからやめろよ」
「わ、私が何をしようが、赤木さんには、関係無い話じゃないですか!」
「その化粧も、服装も、指輪も全部似合ってない」

何も似合わない。
成人男性並の平均体重が腹にかかっているからかなまえは荒く整っていない呼吸を繰り返しながら赤木を押し返そうとするが、いとも容易くその両手は骨張った赤木の片手によって抵抗を止む無くされる。赤木は何も言わないがその口元には前に一度見た狂いの色に染まった笑みがこぼれていた。なまえはごくりと喉を鳴らし、何故今までこういうことになることを想定していなかったのか、身元が分からない男なんかを何の危険も感じず部屋に何度も上げていたのか、心の中で過去の自分を呪いに呪った。警戒心の欠片もない自分を呪った。呪ったところで今起こっている事が変わらないことは痛いくらいに分かっていても呪わずにはいられなかった。鼻筋の通った作り物のような顔がなまえの顔に近づく。何で、どうしてこうなったのか、訳が分からない。恐怖が脳を支配する。目の前の男が、怖い。初めてあの笑みを見た時に、縁を切るべきだった。そんな後悔をしても、何もかも遅いのだ。

「こんなもん、アンタには必要ねえよ」

押さえつけた両手を片手で押さえつけ、空いているもう片方の手でなまえの左手の薬指についている指輪をゆっくりと抜く。抵抗しても、赤木にとっては何の妨害にもならなかった。赤木は暫く手に入った指輪を見詰めていたが、何を思ったか口に放り込むとごくりと音を立てて飲み込んだ。一瞬の事だった。
人間として常軌を逸している行為になまえは抵抗をぴたりと止め、平然としている赤木を穴が開く程凝視した。目の前にいる人間は一体何をしたというのか。

「何…したんですか」
「飲んだ」
「意味が…分からな…」

大切な物が食われた事に対する怒りが沸いてこない代わりに赤木に対する恐れがじわじわと体をかけ巡り、抵抗しようにも体が動かない。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。こいつは人の皮を被った悪魔だと心が叫ぶ。警報が耳元で鳴り響く。逃げる術なんてとうに消えてなくなってしまった。

「オレはアンタのことが気に入ってるのに…なァなまえ」

どうやらオレはアンタの幸せを壊さなければ気が済まないらしい。赤木は溢れ出てくる笑いと共にそう言葉を漏らすと、恐怖に染まったなまえの瞳から涙が後から絶え間なく流れていく。別に赤木はなまえを泣かせたいという気はないのだ。だが、自分が関与していない場で生じる幸せを享受している所を見るのはとても腹立たしい。恋の意味すら知らない赤木は自らがなまえに対して好意を抱いていることにすら気付かないようであった。崩れた化粧のまま小さな声で鳴くなまえの頬をべろりと舐める。
薄くついていた白粉は完全に剥ぎ取られ、いつものなまえらしい肌の色に赤木は満足するように目を細めると、そのまま赤い口紅を付けた唇に噛み付く。初めて口付けたなまえのそれは化粧独特の味気のない味がした。


不幸になってしまえ



尊敬してやまないCさんへ。お待たせしてすいませんでした