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それはある冬の、その年でも一番冷え込んだ日だった。いくら暖炉に薪を焼べようとも、一向に暖かさは部屋全体へ広がらず。膝かけを一枚に広げて足に巻き付けるも、やはり薄い生地だからか効果は薄い。
指先からじわじわ伝わる冷たさは、毒が回っていくように手全体へと広がっていき、仕舞いには動くことを拒むようになっていった。仕事放棄をする右手に苛立ちが募るのは避けようのない事態だ。次々と生み出される歪んだサインを見下ろし、舌を打つ。
今年の寒さが去年以上のものであることは確かだ。

まったく、この建物は防寒設備がなってねえ。巨人に食われて死ぬ以前に、凍え死んじまうだろうが。調査兵団が壁の中で死ぬなんて──しかも自室でだ──とんだ笑い話である。
窓を叩く冷たいであろう北風を睨みつけた。当たり前ではあるが、効果はない。北風が巨人の姿を形作っていたら真っ先に削ぎにいくところだった。


………もっと厚い上着引っ張り出すか。


一先ずペンを置いて伸びをしているところに、ドアがノックされた。そして「オルオ・ボザドです」と声が続く。

ああ、オルオか。
…………オルオだと?

ああ、オルオか。と納得しかけたが、確かこいつは非番だった筈だ。晩メシの場で「明日は休みだが、ペトラよ。お前の訓練に付き合ってやらねえこともないぜ」とペトラに話しかけていた。そんな非番の奴が何故俺を訪ねるのだろうか。
訓練を見てもらいたいのなら、他の奴…グンタやエルドに頼んで欲しい。今日の俺はこのクソみてーな大事な大事な紙切れに、俺の名前を書いて提出しなければならない。


「入れ」
「…あ、ハ、ハイっ!失礼します!」



オルオは何故かそわそわと挙動不審に動きながら入ってきた。団服は着ておらず、ズボンとワイシャツに俺と同じく首にはスカーフ。やはり今日は非番で当たっていたようだ。


「どうした。何か用か」
「あ、えっと。あのですね……」
「…………お前、調子でも悪いのか?」


オルオの顔色は青白く、そしてだらだら汗をかいていた。壁外調査が終わった時の、死と生の両方を実感しているかのような。そんな表情だ。

なんだ、腹でもくだしてんのか。用があるならまずクソを済ませてから来い。そしてきちんと手は指の間まで石鹸で洗え。話はそれからだ。


「大丈夫です。クソ…いえ、手洗いは既に済ませました。きちんと指の間から掌、手の甲、手首まで石鹸使って万遍なく洗ってきました」
「そうか。じゃあその尋常じゃねえくらいの汗はなんだ?」
「……は、はいッ!……今から言うことは、調査や訓練などといった公的なものとは一切関係がなく…大変失礼だとは思ったのですが…兵長の私的な…個人的なものに関わることであって…」


オルオはペトラに見せるような芝居がかった少々高圧的な態度を一度も出すことなく、おどおどしながら視線をあちこちに飛ばす。そして反応を窺うかのように俺を見た。
話を聞いたら俺が激怒するのではないかと、こいつは脅えているのだ。

そんなに気が長いではないが、短いというわけでもない。一体こいつは何の件で来たんだ。

リラックスして肩の力が抜けたら言えやすくなるだろう、と先程気分転換に掃除したばかりのソファーに座るよう促してみる。オルオはぶんぶんと首を横に振った。


リラックスさせる以前の話ではなかった。


「……お前が休みの時間を削って上司のツラを拝みに来たってことは、それほどの理由があるってことだ。ゆっくりでもいい。分かるように説明しろ」


ここまで渋られるとますます気になる。
そんな意味を含めて部下へ視線を送る。

どうやら伝わったのか、少しの沈黙のち、彼は小さくぽつりと言った。


「…………なまえ・みょうじのことです」



……てっきり俺に対する苦情だとばかり思っていたんだが。
思いもよらない変化球に内心戸惑いつつも納得する。オルオは俺よりもあいつとの付き合いは長いのだから、こいつからあいつの名前が出ても何らおかしくはない。

あいつ、なまえ・みょうじとオルオ・ボザドは兄妹みてえな関係だ。なまえは別段ドジや鈍臭い類に入るわけではないが、訓練中によくオルオが世話を焼いているのを見かける。なまえもなまえでよくオルオの傍に寄っていくのである。

……恋人である俺の傍に来るよりも、頻度が多いのが気になるが──…俺よりオルオといた時間の方が多く、互いに腹の内を知っているのだから、そうなるのも仕方のないことかもしれない。とても癪ではあるが。


「…あいつがどうした」


オルオがちらちらと俺を見ながら再度口を開く。拳は強く握られ、震えていた。「怒らないでくださいよ」と目が必死にそう訴えかけているが、オルオのこれから話す内容によってはその願いは一刀両断する構えである。

勿論本人には申告しないが。


そこで俺は本日二度目の変化球を受けることになる。




***




オルオの立ち去った数時間後、丁度腹がすく頃合いにそいつはやってきた。



「兵長、なまえ・みょうじです」
「……入れ」


失礼します、と数枚の書類を手に入ってきたなまえは、俺の顔を見て特に表情を変えることもなく一礼する。
当たり前だが、そこには恋人ではなく、部下の顔があった。

普段の、いつも通りのなまえに、オルオの言っていたことは果たして事実なのか疑わしい思いを抱きながら。なまえが渡してきた書類を受け取り、簡単に目を通す。


「……………」


公私混同はしない主義だ。……だが、オルオの言った言葉が頭の中でぐるぐると駆け巡るものだから、なかなか書類に綴られた内容は、いまいち脳に入ってこない。私的なことで職務に支障が出るのは、良いことではないことなんて分かっている。分かってはいるが、理論や正論でもどうにもならないことだってこの世にはごまんとあるのだ。今がその状態だということに気付かないほど、俺は馬鹿ではない。


………仕方ねえ。


軽く溜め息をつき、書類を机に放る。その行動になまえは少し驚いた顔をして、焦ったように口を開いた。

「…すいません兵長。どこか不備がありましたか?指摘してくださればすぐに──」
「後でいい。…少し話がある。そこに座れ」
「……はい」


オルオとは違い、俺の指差したソファーへすぐに腰をおろしたなまえは、自分の隣にどかりと座り込んだ俺の目を真っ直ぐに見つめている。多分、仕事の話だと勘違いしてるんだろう。
そりゃそうだ。
仕事の日と休みの日で、きっちりかっちり関係の切り替えをしてきたのだから。


「話は…今度の壁外調査の件ですか?」
「…違う。…今から話すことは仕事の話じゃねえ。力抜け」
「……えっと…」
「………楽にしろ」


案の定、なまえは戸惑っていた。俺達が恋人という関係に発展した時、絶対に公私混同はしないと言い出したのは俺だ。そんな言い出しっぺが、今まさにその約束を破ろうとしているのだから無理もない。
これから言うことに多少の恥ずかしさは募るが、まあいい。これを言うことでこいつの不安が取り除かれるのであれば言うしか他にない。


「…一度しか言わねえぞ」
「……はい」
「俺は──……好きでもない女に手を出しに行くほど、暇な身分じゃねえ」
「……!」
「そして、そんな趣味も持っちゃいない」
「…………」
「毎日傍にいられなくてもどかしいと思っているのが…自分だけだと決め付けるな」
「…兵長、」
「名前で呼べ」
「……リヴァイさん」

膝に置かれたなまえの手を握れば、びくりと震える。その手はこの寒さの所為か、緊張の所為なのかは分からない。なまえは少し目を見開いて、軽く握り返してくる。頬を少し赤く染めて、「オルオから聞いたんですか」と小さな声で訊ねてきた。

「…ああ。顔を真っ青にして俺に言いにきた。お前が、少し不安に思っていると。責めてはやるな。……男に愚痴をこぼすくらいなら、きちんと俺に言え」
「…気を付けます」
「俺は…こういうことに関しては器用な方じゃねえ。だが…なるべく、努力はする」


まずは、その努力の第一歩とやらを、歩んでみるとしよう。

そっと耳に口を近づけ、耳元で慣れない愛の言葉を囁いてやる。
……ああ、まったくらしくないことをするもんじゃねえ。
俺もお前も、この寒さにはそぐわない顔色をしている。


照れた横顔にキスをした

企画「英雄」様に提出