etc | ナノ
「……生まれてくるなら。シンジ君や、君のようなちゃんとした人間に生まれてきたかったな」


私が部屋に戻り、二十分経つか経たないか。それくらいの時間を無音で包み込み、静寂を作っていた沈黙を突き破ってようやく吐き出した渚カヲルの第一声は、そんな言葉だった。





***






溜まりに溜まった書類の整理も終わり、気怠い達成感を味わいながら、長い間座る体勢をとって硬くなった体を軽い運動で解す。そうすれば背骨がばきばきと狂った体のバランスを直していくように何度か鳴った。その音は私以外に誰もいない事務室に小さく響いて消える。仲の良い同僚は、既に仕事から引き上げていた。久しぶりに恋人と会うのだそうだ。溜まっている書類はそっちのけで。危険と隣り合わせの仕事をこなしているのだから少しぐらいサボっても大丈夫だ、と言って悪戯っぽく笑った彼女を、私は怒る気にもなれなかった。


愛用している腕時計を見れば、時刻は既に二時をまわっている。私に書類を渡してきた伊吹二尉に労いの言葉を述べてから一体何時間経っていたのだろう。よく分からない。根詰めて働き過ぎだろうか。

誰もいないのだから隠す必要もなく、大きな欠伸をそのままに、部屋の電気を消した。本日の業務はこれでおしまいだ。ご飯は書類を書きながらではあるが、既に済ませている。

数時間の睡眠を貪った後、シャワーを浴びて、またこの事務室に舞い戻る生活はネルフに就職してからずっと続いていた。

最早この事務室こそが我が家のようなものだ。安らぐことなんて一度もない、常に緊迫感の漂う部屋。そんな雰囲気と始終居合わせているお陰で、過去に一度胃に穴が開いてしまったことがある。戦場に立ちもしない事務員がこんな状態なのだから、世界の命運を背負っているエヴァのパイロットである子供達や、エヴァの指揮官である葛城三佐の方が胃に穴が開いていそうだ。現に、シンジは綾波レイのこともあってかなり精神が参ってしまっている。「なまえさん」と私の名前を呼んで照れたように笑うその姿は、いつの間にかどこかへ消え去り、常に悲壮感の漂う十四歳とは思えない少年になっていた。



薄暗く誰一人として通らない廊下を突き進み、終業時間によって停止したエスカレーターをこつこつとヒールの音を響かせて歩く。セキュリティーがしっかりしている此処に忍び込もうなんて思う輩はいないので──というか、既にほとんどの一般市民は第三新東京市から姿を消している──ただ何も考えずにひたすら歩くことに専念して、ネルフ職員の市営住宅へ向かうことが出来た。幼い頃には建物の明かりが灯り、仕事終わりの社会人が笑顔で歩いていたこの場所は、最早面影を見つけることが出来ないくらいに物寂しい。使徒とエヴァが戦った痕跡があちこちに残り、人々の思い出は瓦礫に埋もれてしまった。痛みと苦しみと、ほんの一握りの希望しか存在しない世界。エヴァが使徒に敗北すれば、真っ先に此処が人類の墓場と成り果てるのだろう。舗装の予定もない半壊状態の道路に転がっていた石ころを蹴っ飛ばせば、石ころは闇の中に紛れて消えてしまった。エヴァが使徒に倒される、なんてことになったとしたなら、こんな風に世界は消えて闇の一部分となってしまうんだろうか。






***






「……何でいるの」


カードキーを差し込み、ドアを開けて電気を点ければ見知らぬスニーカーが視界に飛び込み。律儀にもきちんと揃えられたそれに、自然と眉間に皺がつくられていく。こちらに近付いてくる足音に、反射的に顔を上げれば、わりと顔の知れた人間が柔らかな笑みを浮かべ「おかえり」と私に向かって一言挨拶を述べた。私が上記に吐いた問いには答えず、挨拶だけして居間に戻っていくフィフスチルドレンこと渚カヲル──またの名前を第十七使徒タブリス──に思わず顔を顰めながら、ヒールをその辺に脱ぎ捨てる。
居間に向かえば、渚はソファーへ三角座りをしてこちらを見ていた。私の顔を見て、笑みを絶やさないまま首を傾げて口を開く。


「…どうしてそんな怖い顔するんだい?仮にも同じ組織の仲間なんだから、歓迎してくれてもいいと思うけどね」
「不法侵入してなかったら今よりも良い待遇だったかもよ」
「無断じゃないよ。ちゃんと此処を管理しているリリンから許可を得て入ったさ。今を生きるリリンの常識は一通り勉強しているからね」
「いや、そういうんじゃなくて…」


管理人に許可もらったからって当人に言わんでどうする。

どこかズレた渚の言葉に頭痛を覚えながら上着をハンガーにかけ、ソファーには渚がいるのでテーブルの椅子を引いて座り込む。テーブルに上半身を突っ伏して今日一日の仕事による疲労がじわりじわりと体を蝕む感覚を味わっていると、ソファーからこちらに移動してきた渚が静かに私の向かい側に腰を下ろした。頬をついてまじまじと見てくるその目は、疲労に潰されている私を興味深く観察している。ここまでぐったりしている人間を見たことがないのかもしれない。世界を滅ぼすことが出来る使徒とは言っても人間に触れる機会がなかったから、全てのものが新鮮に見えるのだろう。ゼーレのお偉いさん方に紹介されてそこそこ時間は経ったものの、ほとんど話す機会もなかったのであくまでも私の推測であるが。


「ねえ、リリンは一定以上の疲労を蓄積するみんななまえさんみたいな体勢を──」
「知らないよ…っていうか、何か用?あの人達から何か言伝でも?」

ゼーレが私に何か用があったら誰かを通してではなく直接こちらにコンタクトを送ってくる筈だ。何の理由もなしにこいつが此処にのこのこやって来る訳がない。

渚の顔に視線を向けると、彼は私を見つめていた。


「…とりあえず、君は命の洗濯をしてくるといいよ。……ああ、命の洗濯というのはね。シンジ君の保護者が付けた『入浴』の別名だよ。彼が教えてくれたんだ」

赤くて思わず血を連想させるような瞳は、人間ではない彼には不釣り合いな色を含ませて。口元を緩めはにかむ様子は、その辺の子供と変わらない。


「……ん」


一言返事をして、ゆっくり上体を起こし、立ち上がる。私が疲れを癒したら、渚は此処へ訪れた理由を話してくれるのだと解釈することにした。





***






浴槽に肩まで浸かれるくらいのお湯を張り、逆上せる数歩手前まで体を温めた。「命の洗濯」なんて、葛城三佐も上手い言葉を使ったものだ。確かにお風呂は一日の疲れを癒してくれる。
疲労を洗い落とした火照った体で部屋に戻ると、渚はソファーに横になって、瞳を閉じていた。
時刻は三時を過ぎている。普通の中学生なら、というか、大抵の人間なら間違いなく寝ている時間帯だ。渚は普通の人間ではないから寝ることなんてないだろうと考えていたのだが、どうやら睡眠は摂るらしい。渚は此処へ来た理由を言うことなく眠りについてしまった。眠たかったなら言ってくれれば良かったのに。疲れた私を気遣ってくれたんだろうが、どうせなら話をしてから寝て欲しかった。あと泊まるなら泊まるって言えよ。まるで接点がない私の元に泊まっていることがネルフ関係者にばれたら………いや、既に管理人にフィフスチルドレンが此処にいることが知られているのだから上に報告がいくのも時間の問題だ。面倒臭いことになったらどうしよう。渚もちゃんと考えて行動してくれれば良かったのに、変なところで抜けている。

「はぁ……」

溜息をつけば、室内にわりと大きく響いた。風呂に入って命の洗濯をしてこいと、疲れをとれといったのは渚だ。そんな渚に振り回されて、疲れている。馬鹿みたいだ。テーブルに突っ伏し、暫くソファーからはみ出ている渚の足先──顔や体はこちらからだとソファーで見えないのだ──を睨んでいたが、どうにかなる筈もない。どうにかする気もない。視界が少しずつ揺らいでいくことで眠気が意識を溶かしていく様を、他人事のように、頭の隅から眺めた。寝室に行く気力は、既になくなっていた。

朝、再び出勤する少し前に渚を起こして、話を聞こう。今日はもうこのまま意識を手放してしまおう。

あと少し。もう少しで眠りにつくことが出来る。
その時、テノールともアルトとも、その一辺だけでは例えることの出来ない声が私に掛けられた。


「……生まれてくるなら。シンジ君や、君のようなちゃんとした人間に生まれてきたかったな」



突然の発言に、うつらうつらとしていた私の意識は、先程の睡魔などなかったかのように覚醒する。

「……起きてたなら起きてるくらい言ってよ…」


むくりと起き上がった渚は、私の文句を聞き流しどこか苦しげに言葉を選ぶそぶりを見せながら口を開く。


「……何でだろう。僕はこの言葉を言う為に此処に来たんだ。それなのに、何故か君を前にすると言葉を吐き出すことが出来なかった…」
「……認めたくなかったんじゃない?」
「……何を?」
「自分が使徒だってこと。見た目は同じでも私やシンジとは担う役割が違うでしょ、渚は。…存在理由も、寿命も違う」
「………そうか。成る程。自己の分析は簡単なものだと思っていたけど、案外難しいものだね。ヒトの心は複雑だ…リリンはつらくないのかな。こんなに苦しいものを持って生きているなんて」
「…つらくて苦しくない人生なんてないよ」
「……ねえ、なまえさん」
「……何?」

ソファー越しから私を見つめる渚はもう一度「人間になりたかった」と繰り返した。

「ゼーレ」「ネルフ」という枠組みに入っていることしか接点のない私に言ったのかは、渚カヲルの立場と正体を知ってもそれを利用する程の力を持っていないからだ。ただ、渚カヲルは愚痴を零したかっただけなのだということに気付いた私は途方に暮れた。


そんなこと、ただの人間である私に零したところでどうにかなる問題じゃないのに。
そんなこと、どうやったって──


……………。



「……渚は輪廻転生って知ってる?」
「リンネテンセイ?……聞いたことならあるよ。死んだ魂がもう一度この世に生まれてくることを言うんだろ?」
「そう、それ。今は無理でも来世では人間になってるかもしれないよ」
「それはないよ。君は上から聞いていないの?僕の体にはアダムの魂が宿っているんだ。死んだところでリリンの魂にはならないよ。残念だけど、僕はこの呪縛からは逃れられそうにない」
「来世がダメでも可能性を信じればその次は人間になれるかもしれない」
「人間に生まれたとしたって、そこに君もシンジ君もいないじゃないか」
「いるかもしれないよ。渚は少しくらい希望を持った方がいい。そうしないと奇跡だって起こらない」
「希望?希望を持てば奇跡が起きるの?」
「少なくとも、希望を持たない限りは…渚にそうしようとする意志がない限りは、何も起こらないよ。…多分」

最後に付け加えた言葉に、渚は少し呆れた視線を私に寄越す。私だって運命やら希望やら、奇跡なんてそんな不確かな存在を信じているわけではない。それでも、葛城三佐がエヴァパイロットに希望を託しているように、希望を持てば少しは何かが変わることだってある筈だ。

今は無理でも、未来でなら。

私の苦し紛れな慰めが彼の心に響いたかどうかは分からない。軽く溜息をついて顔を伏せた渚は、床を眺めていたが、多分床を眺めてはいなかった。いずれ訪れるであろう使徒の行く末や、今後それを体験したシンジのことでも考えていたのかもしれない。
暫くそうした後、静かに私の名前を呼んで顔を上げる彼は少し泣きそうな表情で微笑んだ。


「ありがとう、なまえさん。少しだけ、希望を持ってみることにするよ……来世とやらにさ」


彼に救いが訪れるとすれば、それは使徒ではなく渚カヲルとしての死を迎えること以外に他ならないだろう。
だとすれば、私は彼に一刻も早く死が訪れることを祈るとしよう。それで彼がもう一度生まれ変わり、今度は人として生きることが出来るのならば。



一緒に生まれ変わろう

企画「救済」様 提出