etc | ナノ
「出来たぞ、そろそろそれ一旦止めて食わないか?」
「はーい」

さっきから鼻腔を擽る良い匂いに、目の前にある大量の書類を片付けることを億劫に思い始めていた頃だったから丁度良い。私はペンを置いて立ち上がり、カップ麺を両手に持つ土門くんの元に駆け寄った。少し薄暗い部署の中で響いた「熱いから気をつけてな」という土門くんの声に頷いて、私は彼からそれを受け取る。蓋をゆっくりと開けると、ぶわりと湯気が立ち上ってくる。熱そうだ。このまま食べると間違いなく火傷してしまうだろうな。手渡された割り箸も割らずにそのままでいる私を不審に思ったのか、土門くんは訝しげな表情で私の顔を覗き込んできた。

「もしかしてこの味嫌いだった?みょうじさん好きそうかなと思ったんだけど…」
「えっ?いや、そんなことないよ。熱そうだからちょっと冷ましてから食べようと思って」
「そっか。割り箸で混ぜたら早く冷めるんじゃね?」
「あ、そうか」

私の言葉に少し笑った土門くんは誰かの椅子を適当に引いてきて私の側に座ると、静かに麺を啜り始める。その姿を横目に、私は麺をゆっくりと掻き回しながら悪いことをしてしまっているなと心の中で土門くんに謝罪の言葉を呟いた。本来ならば土門くんはとっくに帰っている筈なのに、一人で残業に勤しむ私を見兼ねた彼は「女の子一人だと危ないから」という理由でこんな時間まで一緒に残ってくれている。もう女の子といえるような年齢でもないのに、だ。近くのコンビニで夜食のカップ麺を買って来てくれたり、書類の整理を頼んでもいないのに進んでやってくれているのだから、土門くんには感謝してもしきれない。
ようやく冷めてきた麺に口をつけると、土門くんは「それにしても」と口を開いた。

「あんな量一人に任せるなんてどうかしてるよな、部長の奴」
「はは、まぁ…今日は人少なかったからしょうがないよ。皆休みたくて休んでるんじゃないし」
「そうだとしても今年は酷いだろ」

確かに今年の風邪はこの部署に多大なダメージを与えている気がする。ぴんぴんしてる人は私と土門くんくらいで、後の皆はマスクをして咳込んでいる人か、熱を出して寝込んでいる人のどちらかに分かれてしまっている。同僚の友人には「馬鹿は風邪を引かないんだね」と鼻声で言われる始末だ。そういう訳で、休んだ人の皺寄せが咳一つしない元気な人間にくるのは当然のことで、こうして定時に帰っていく同僚を見送り楽しみにしているドラマも見れないまま書類との格闘に勤しんでいるわけであり。未だに残る膨大な書類の量を見て、思わず出た溜息に土門くんが苦笑する。

「これ食い終わったらまた手伝ってやるって」
「いや、いいよいいよ。っていうかほんと土門くん帰った方がいいんじゃない?ほら、彼女とか心配してると思うし」
「彼女がいたらカップ麺買って渡した時点で帰ってるよ。フリーだし、そういうの気にしなくていいから」
「え、フリーなの?」
「ああ。悲しいことに独り身なんだよ」

社交的で誰にでも優しい土門くんのことだから彼女なんてとっくにいると思ってたんだけど。意外だと言う私を見て土門くんは「そうかぁ?」と首を傾げて小さなワンタンを口にする。
……あ、そういえば。

「前に土門くんと女の人が並んでたって違う部署の子が言ってたけど」
「ん?…あー、それ多分幼馴染の奴だわ」
「幼馴染?」
「ああ。今はアパートの管理人と、サッカーチームの監督やってるよ」
「へぇ。なかなかアグレッシブだね」
「だろ」

話に花を咲かせながらカップ麺を完食し、私は書類に取り掛かる。その横で土門くんは私が仕上げた書類を分別したり、まだ手をつけていないそれに目を通したりと出来る限りの協力をしてくれた。



***



「っつーか思ったんだけど、このままだと泊まりがけになりそうだよな。終電の時間間に合わねーや」
「…うぇ、もうこんな時間なの?」

土門くんに言われて、一旦字を書く手を止めて携帯で時刻を確かめる。とっくに日付は変わっていた。何てことだ。謝ろうと土門くんの方を振り返ると、彼は待ち構えていたように右手で私の口元を押さえ込んでくる。

「みょうじさんすぐ謝るよな。こっちは好意でやってるんだから、気にするなって」
「……土門くんの自由な時間を奪ってることを思うとね」

土門くんの手を無理矢理引きはがしてそう述べると、土門くんは少し目を見開いて私を見つめてからにやりと笑った。

「オレはみょうじさんの為に時間使えて嬉しいぜ?」
「!…えーっと…あの…」

思いがけない言葉に私は土門くんから目を逸らして言葉にならない声を上げることしか出来ない。

「オレは何とも思ってない女の子の残業に付き合ってやる程良い男になった覚えはねーよ。みょうじさんなら感づいてくれてるかなと思ってたんだけど…もうちょっとストレートにいけば良かったなぁ」
「え、ちょっ…何言って…」

「まだ分かんない?」


オレがみょうじさんと一緒にいたいってこと。

両手を握り締められて言われた赤面せざるを得ない言葉に、私はとりあえず「女の子じゃないですよ」としか返せなかった。こんなの反則だ。

夜に綺羅めく