pkmn | ナノ
「午前の勤務は如何でしたか?」

昼休憩。彼との食事を始めてからの、彼の第一声は必ずこれだった。私は出勤する途中で買った、なかなか蓋が開かないコンビニ弁当と戦うのを止めてノボリさんの顔を見た。ノボリさんは優しく目を細めながら頬杖をついて私を見ている。早く自分の昼食をとればいいのにと思ったが、毎度のことながら私が食べ始めるまで待ってくれているようだった。待って欲しいなんて一言も言っていないのに。少し焦りながら、がりがりと蓋を引っ掻いていると遂にそれを見兼ねたノボリさんは「貸して下さいまし」私の手から弁当をさらうと、いとも簡単に蓋を開けてしまった。何でだ…何で私の時はちゃんと開いてくれないんだ。
「どうぞ」と手渡してきたので私を慌ててお礼を言いながらそれを受け取る。無造作にテーブルの上に置かれたプラスチックの蓋は私のことを小馬鹿にしているのかという気すらしてきた。

「いただきます」
「いただきます。それで、どうでした?」

午前の勤務…思い出すと真っ先に浮かぶのは遅刻で電車に乗り遅れたカズマサさんがよっぽど慌てていたのか電車に追い付こうとホームから飛び降りようとしていたことぐらいか。勿論必死で、全身全霊をかけて止めた。カズマサさんはよく遅刻をすることで職場内で有名だ。清掃員である私ですら彼の遅刻っぷりは耳に入ってくる。多分今日の遅刻だって、当然ここのボスであるノボリさんに報告されているだろう。わざわざ私が言うことではないし、日頃頑張っているカズマサさんの失敗を笑いの種にするような趣味の悪いことをするつもりは元よりない。

「………いつも通り清掃をやってました。普通です」
「そうですか。ご苦労様です。わたくしもなまえと同じく普通でしたよ」
「……そうですか」
「ええ」

ノボリさんは目を伏せるとランチボックスの中にあるサンドイッチを一つ取り出して静かに食べ始めた。多分今日の食事当番はクダリさんだったのだなと若干手抜きの入っているそれを眺め、私も弁当の中に入っている唐揚げを一つ口に含んだ。何の変哲もない、ただのコンビニ弁当に入っている唐揚げの味だ。

ノボリさんから昼食を共にしはじめて随分経つというのに未だに緊張感が拭えないのは、少なからず彼の持つ独特な雰囲気が原因であると思っても誰も私に異議を唱えたりはしないだろう。ポケモンでいうとノボリさんの特性はプレッシャーで決まりだ。もしくは緊張感。
我ながら阿呆らしいことを考えているなと心の中で苦笑していると不意にノボリさんが顔を上げてコンビニ弁当に目を向け、それから私の顔をじっと見つめてきたので私は無意識に背筋を伸ばしながらもその仏頂面に視線を送り返す。

「今日は寝坊でもしてしまったのですか?」
「え?」
「いつもは手作り弁当ですが今日はコンビニ弁当なので少々気になりました」
「ええ、まぁ…少し夜更かししてしまって」
「それはまたどうして?」
「と、友達と呑みに…」
「ほう。二日酔いの方は大丈夫なのですか?」
「はい、そんなに呑んでないし…呑めないんで…」
「そうですか」

……何だか尋問されているみたいだ。もしノボリさんがクダリさんのようににこにこ笑うような人だったならこんなに堅苦しい質疑応答の時間ではなかった筈だ。ノボリさんはもう一枚のサンドイッチを手に取り静かに咀嚼する。無音。気まずい。なるべく音を立てないように私も黙々とおかずを片付ける作業に取り掛かる。最早これは食事ではなく作業だ。食事をしている気分にはまるでなれない。私がこうして彼の誘いを断ることが出来なかったのは私が多少なりとも彼に好意を抱いていて、彼も私と同じ気持ちを持っていたからだが──……日頃上司と部下として長らく過ごしていれば、何となくではあるがお互いの距離のとり方が分かるようになる。所謂越えてはいけない境界線とやらが出来てしまうわけだ。そんなわけで、私の場合不用意にその境界線を踏み切られると変に緊張してしまう。例えそれが恋人であるノボリさんであっても、ノボリさんは元来上司だ。普通の上司と部下は二人きりで食事なんてしないだろう。
ポテトサラダをかき集めていると、ノボリさんはランチボックスを片付け始めた。もう食べ終わったのか。私はというとまだまだたくさんおかずが有り余っている。これ以上サブウェイマスターしか入れない部屋に私がいるのも場違いだ。…毎日お邪魔してる奴が言うことじゃないけど。
ノボリさんと同じく私も片付けようとすると、ノボリさんは不思議そうな表情を浮かべた。

「全然食べていないではないですか。食べていて結構ですよ」
「いえ…私もう戻ります」
「何故ですか?」

少し首を傾げるノボリさんは理由が分かっていないようだった。どうしてって……。

「ノボリさんのお仕事の邪魔したくないので…」
「なまえがいて仕事の邪魔になることはありませんよ。むしろ貴女がいた方が心地が好いのです」
「いや、でも…」
「……では、これはサブウェイマスターとしての命令です。弁当を完食するまで此処にいること。命令を無視するならなまえの給料は五十パーセントカットです」
「五十…!?」
「クビでもいいですよ」

「此処にいますか?」というノボリさんの問い掛けに私は何度も頷いた。弁当を食わないで部屋を出るだけでクビ……職権乱用にも程がある。
ノボリさんが書類をデスクから取り出して確認作業に入る中、向かいに座る私は黙々と唐揚げを処理していた。どことなく部屋が唐揚げ臭くなっている気がする。非常に申し訳ない。今度から弁当を買う時は唐揚げ弁当以外のものを買おう…。

大方食べ終えたところで彼の方に視線を向ける。ノボリさんは無線に向かって何やら話しこんでいるようだった。

「………ええ、…ええ、了解しました。では。……なまえ、今日はこの後ダブルの方に向かうご予定ですか?」
「えーっと……はい。確かそうです」
「では一緒に行きましょう。わたくし、午後からダブルの方の運転をしなければならなくなりましたので」
「…はい」

一緒に行くのは別に構いはしないが、サブウェイマスターと一介の清掃員が並んで歩くと周りの視線が気になる。ギアステーションの短い距離を歩くだけなのに、隣にノボリさんがいることを想像するだけでこんなにも緊張してしまう。今食べたものが口から戻ってきてしまいそうだ。キリキリし始めた胃をそのままにウインナーを一つ放り込んで弁当を片付け始める。時計は昼休憩が終わる十分前を示していた。

「おや、なまえ。マヨネーズが口元に」
「え、」

ノボリさんは私の顔を見つめながら自分の左頬を軽くつついた。サラダについていたあれか!恥ずかしい。頬に熱が集まるのを感じながらポケットティッシュを取り出そうとポケットをまさぐる。………あれ、ない。可愛いパッチールのデフォルメ絵が描かれたポケットティッシュ…昨晩きちんとポケットに入れておいた筈なんだけど。
何でだどうしてだと考え、泣き顔のカズマサさんが頭に過ぎった。そうだ、ホームから飛び降りるところを阻止した後、情けない声を上げながら穴という穴から液体を流し始めたカズマサさんにあげたんだった…。
汚いけどまぁいいかとマヨネーズを手の甲で拭うと、「ティッシュを使って下さいまし」とノボリさんはズボンのポケットからティッシュを取り出した。持ち歩いていそうだなとは思ってはいたが、まさか本当に持ってるとは。
ティッシュを一枚引き抜いた彼は、丁寧にそれを正方形に折り畳むとずんずん私に近付いてきた。

「わたくしが拭いて差し上げます」
「はっ? いや遠慮します」
「まだ若干付いていますから。ほら、」

慌てて椅子ごと後退するもノボリさんは片手で私の肩を押さえ付け動かないようにすると手の甲についたマヨネーズを拭き取り、それから私の口元を拭いた。その手つきはとても優しくて抵抗する気なんて失せてしまう。

「はい、とれましたよ」
「……色々すいません…」
「こういうことはいつもクダリで慣れていますから」

クダリさんはノボリさんに何をやらせてんだ……。
小さくお礼を述べるとノボリさんは薄く笑って帽子を外した。……?

「あの、ノボリさん」
「…少し黙って下さいまし」
「…っ!」

拒絶する間もなかった、というか肩に手がかけられていた所為で動けなかった。一瞬で離れた唇に触れた温かくて柔らかい感覚が頭を駆け巡り、頭にじんじんと血が集まり、頬に熱が集まり、頭が眩む。あまり思考が動かないまま彼を見上げれば、彼は帽子を被り直してティッシュをごみ箱に放り捨てていた。後ろ姿からノボリさんがどのような表情を浮かべているかは分からない。

「…そろそろ行きましょうか」
「…はい」

そう言ってこちらを振り返ったノボリさんは頬から耳までもを真っ赤に染め上げていて、私はまた頬に熱が集まるのを感じた。

午後からの仕事は真面目に勤められる気がしない。

滲透した朱色の夕

ちょぼさんからのリクエスト。どうもありがとうございました!
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