羊飼いの憂鬱 | ナノ
鋭く眩しい赤色の光が、この暗闇を照らすようにして弾けた。それは一瞬のことで、直ぐさま沈黙と闇にこの場を支配される。
ぽたぽたという擬音がしっくりくるほど、令呪を使う直前に私を貫通した槍からは血が伝い、地面へと滴り落ちる。ディルムッド・オディナは顔を俯かせたまま、身動き一つしない。私を貫いた槍を握っているだけだ。


「……ぐ…っ……う、うう…っ…!はぁッ……はぁっ…げほっ…ごほっ!うっ……く…」


私の激しい息遣いだけがそこに響いていた。
足に力を入れ、歯を食い縛り、槍を握って、後進を試みる。少し動く度に、口からは多量の血が溢れ。全身血塗れのボロ雑巾と化していた私は、渾身の力で大きく一歩後退し、やっとの思いで槍から心臓を抜き取った。その拍子に自身の血溜まりに仰向けでダイブしてしまう羽目になったが、ディルムッド・オディナと再びキス紛いのことをしてしまうことと比べれば、まだ血溜まりに浸かっている方が何倍もマシだった。


どくどくと、血が溢れて止まらない。どんどん血溜まりが広がり、最早血の池地獄だった。
人間が生命活動を行うことにおいて、最も重要な器官に大きな穴が一つ空いたのだ。全身に血を循環させているのだから、こうなって当然である。何故心臓に穴が空いていても意識がぼんやりするだけなのか、多量出血で数分倒れるだけで解決してしまうのかなんて、もう考えたくもない。


血塗れでずたずたに裂けた手を見る。懸命に目を凝らせば、そこにはデザインが幾ばくか崩れてしまっている令呪があった。誰かに手荒く消されたかのように、一部が薄い痣のような形になっている。令呪を使えたことによる現象だろう、ということは何となく理解出来た。

安堵の息と共に、未だ健在である首元のアクセサリーを震えた手で握り締める。掴むと直ぐに血塗れになってしまったが、何かに縋り付きたい気持ちの私に、そのような配慮も余裕なんて何もなかった。


………使えたのだ。

現に、目前に存在するディルムッド・オディナは、槍を構えたまま完璧な沈黙を決めている。動く気配はない。指先一つも震わせることなく、静を保っていた。

彼は止まった。主電源のスイッチをオフに切り替えられたかのように。

──だが、この暗闇から出られるような前兆は見られない。
「ここから出せ」と命じた筈なのに、奴は停止してしまった。

結局は、自力でどうにかして脱出するしかないらしい。
血が足りず、白くぼやける意識と視界を頬を叩くことで何とか保たせ、匍匐前進の形で進むことにする。
まずは、「これ」から離れなければ。いつ、またこいつが動き始めるか、分かったもんじゃ─────


「──っぐ……」



それは、静かで、けれど鋭利で、有無を言わせなかった。

何かが刺さった“らしい”というのは、分かる。
分かるが、一切痛みが“ない”。
感覚機能が既にイってしまったのか。これはこれで、今の私には有難い。だが、地面を這いずる感覚もないのは、少しばかり困る。



「………ふふっ………ははははは!!俺に令呪は効かなかった!効いたと、俺を止めさせたと!安心しきったその姿!笑いを堪えるのが大変でしたよ、我が主!!」
「……………」


背後から、冷たい声が響いた。私の血溜まりをわざとらしく、ぴちゃり、ぴちゃりと音を立たせて歩いてくるその恐怖感は、さながらホラー映画である。


どうやら彼は、今の今まで、ただ動きを頑なに止めていただけだったらしい。どうしてそこに全力を注ぐのか。
「令呪の無駄遣いなんかして名前ちゃんって、ホント、バカ」と私を指差して笑う人型の聖杯くんが頭に浮かぶ。

「ぐ……」

頭を鷲掴みにされ、ボールでも投げるかのようにその辺に吹っ飛ばされた。ぼやける視界の中、二重に映るディルムッド・オディナがこちらへ近付いてくる。
ゆっくりと足取りで、槍と剣を両手に携えて。


「もう貴女は、どう足掻こうとも此処で終わりだ。俺に花を散らされ、壊され、生ける屍となり、外にいる英雄王には見限られ、親友には見捨てられる。なんと、ふふ……喜ばしいことか!」
「…………」


ギルガメッシュさんに見限られはするかもしれないが、元より私に知人は居れど親友と呼べるべき人間はいない。この数日、私の非リア充ライフをきちんと見ていなかったのだろうか。

ぶれてぼやける視界の中、どうにか視点を定めようと眉間に皺を寄せれば、私の前にはディルムッド・オディナがあった。彼は黄色い方の槍を片手に、憂いを帯びた瞳で私を見下ろす。

 
「目が、上手く見ていないようだ。時間が経てばアレの加護で治りましょう。ですが……ああ。なんと嘆かわしい、我が主よ。このディルムッド、貴女を残してこの世界から一人出て行く姿をお見せすることが出来ないなんて。とても悲しい。とても苦痛だ。今、俺の心は残念な気持ちで満ちています。殺して殺して殺し尽くす生を歩む第一歩を踏み出すというのに、これは、余りにもよろしくない。恨みます、貴女を。こんな気持ちにさせる貴女を、恨みます、憎みます。赦さない。こんなことなら、ああ、こんなことなら。


───いっそ、本当に見えなくなってしまえばいい」

「…………!」



黄色の槍の切っ先が、こちらを向く。

こいつでやられると、やばい。こんな所で視力を完全に奪われては、私の詰みだ。

顔を強張らせる私を見て、彼は優しく笑った。目は柔和に細められ、うっすらと上がる口角。大丈夫ですよ、と言わせるような。安心させるような優しい笑い方。そんな笑い方をしながら、彼は槍を構える。



「……ッ………!」




──そうだ、令呪!



駄目元でも、もう一度、無駄な足掻きかもしれないが。令呪で動きを止めて、





とか…今、の……場、

を。


切り、抜……………………………………




……………………………………。




「…………………………」

「…ああ、今頃気付かれたのですか?痛覚の遮断もここまでくると痛々しい」


憐憫を注ぐ彼の言葉は、最早耳には入らなかった。

左手首から、その先がなかったのである。

文字通り、なくなっている。

ない。


指を動かそうとしても、指がない。手を折り曲げようとしても、肝心の手がない。ないのだ。血が噴水のように噴き出ており、切断面からは血に染まってはいるが、骨が見え、肉が、筋肉が見える。肝心の手は何処にいってしまったのか分からずきょろきょろと目を凝らし探してみれば、血まみれで令呪付きの私の手は、私から見て後方側の少し離れた所に、ぽつんと転がっていた。まるでゴミのようだった。

いつの間にやられたのか。
痛みもなければ、手がなくなったという感覚もなく。そもそも見た目からの衝撃が強過ぎて、脳の思考が現実に追いついていない。まるで第三者の視点から見ているみたいに、実感がない。


とりあえず、あれを、腕にくっつけておかないと。




「はじめから、こうしておくべきでした。そうすれば、貴方の言う通り……俺は貴女のことを畏れ、こうやって変に可愛がることもなかった。………ああ、そういえば、貴女を魅了させるつもりだったのに。つい、殺すのに夢中で失念しておりました。だが……貴女の目を奪ってしまえば、魅了させることは出来なく──…………ああああ!!!もう、鬱陶しい!鬱陶しい!面倒だ。貴女のことをいちいち考えるのは、面倒臭い。時間が惜しい」


体を引き摺り、手を回収する時間はなかった。



「貴女を、この魔貌で魅了出来ずに終わることは残念ですが。精々、貴女の体を味わい尽くし、俺自身の手で、貴女を魅了させてみせましょう」
「…………………」
「最後に見る世界が、俺で良かったと。その減らず口で言わせてご覧にみせます、主」



それでは、さよなら。主。


大きく振りかぶることもなく。少し槍を振るうだけで、槍の扱いに長けた彼は、私の目を抉るのだろう。
瞬きをしたその次の瞬間には、私の視界は全て闇に覆われ、痛覚も視覚も触感も奪われた状態で、此処に居るのだろう。



────と、思っていた。




「───────…………………ッ?!」




───槍が、槍の切っ先が、目の前に映る。視界は、私の目を抉ろうとしているそれで遮られている。私がほんの少しでも身動ぎすれば触れてしまいそうな、ほんの数センチの距離しかなかった。
その槍は私の目を抉らんとばかりに殺意が溢れている所為か、槍先が震えている。だが、私には触れられない。


何故かディルムッド・オディナは私を貫こうとしない。
彼の表情は怒りに狂い、憤怒と疑心と憎悪に囚われている。私を殺しても殺し足りないというその姿に、私を殺すことに躊躇いを感じているとは到底考えられない。殺気が、彼の体から満ち溢れていた。今のうちに離れてどこでもいいから逃げろと本能が騒ぎ立てる。だが、肝心の足は鉛になってしまったかのように動く気配はない。

指先を動かすことすら躊躇ってしまうこの状況で、逃亡という選択肢は選ぶことなど、どうしても出来なかった。



その間にもディルムッド・オディナは、痛々しく響くほどの歯軋りをしながら、私に近付かんとばかりに槍へと力を入れていく。みしみしと、微かに槍が悲鳴を上げていた。
こんなに力の込められた槍で刺されてしまえば、今度こそ私は死んでしまうのではないか。


「くそ、邪魔を……するな…ッ!!貴様は後で殺すつもりだったが──……マスターを優先させたのが間違いだった!!」
「……?」


彼は私にあらん限りの殺気をぶつけ、睨みを効かせて言葉を紡ぐ。だが、その内容は私に向けて喋っているようなものではないように思えた。まるで、第三者でも居るかのような口振りだ。

私と彼以外に、もうこの世界には誰もいないというのに。

「離せ、離せ離せ離せ離せッッ!!どうして、俺の邪魔が出来るッ?!………さては先ほどの令呪か?!令呪の魔力が、俺ではなく貴様の方に流れたとでもいうのかッ!!」



独り言にしては大き過ぎるその声に圧巻されていれば、私の彼の間には一枚の白い花弁がひらりと舞った。
一度目を瞬けば、睫毛に付いたまま固まった血が肌に触れ、視界が赤く霞んだ。何度か瞬きを繰り返した後、顔を上げる。


其処に広がる光景は今まで私が見ていた黒一色の世界とは、まるで違っていた。


白だ。



一面というのは、至極物足りないが。白色がある。
白の薔薇。白の薔薇が、何輪も咲いている。

今まで黒しか映らなかったこの視界に、突然白が映る
というのは、フラッシュをたかれたカメラで行き成り撮られた時のように眩しいものだった。

その白薔薇は灰色の茨と共に、ディルムッド・オディナの動きを止めるが如く雁字搦めに巻き付いていた。槍が何故動かなかったのか、というのも納得出来る。
ただ単に私が気付くことが出来ず、見えていなかっただけだったのだ。

彼は舌打ちを一つ、もう片方の手で持っていた剣を振るおうとするも、四方八方からわき出てきた茨や薔薇がそれを阻止した。体に巻き付いた茨の棘は、彼の皮膚に深く深く刺さっていく。少なからず痛みはあるのか、端正な顔が僅かに歪んだ。
聖杯くんと劇場にいた時に、薔薇に巻き付かれた私みたいだ。

薔薇に巻き付かれ一切の行動が封じられたディルムッド・オディナを、放心したように見つめることしか出来なかった私の元にも、それはやって来た。
彼に巻き付くよりも速い速度で手足を拘束されてしまっては、満身創痍の今、どうすることも出来ない。
幸いなことといえば、痛覚が死んでいるお陰で茨の棘が体中に刺さっても痛みを感じることはなかったことくらいだ。現状は、恐らく良くない。ずるずると、茨の中に取り込まれていく。


これは何なんだ。


目の前にいるディルムッド・オディナの力でないということは分かった。彼の望んでいない方向に物事が進んでいる、ということも。


全身に茨が絡まっていく私を見て、ディルムッド・オディナは怒りに歪ませていた顔を一変させ、無表情に置き換えた。ゆっくりと瞳をとじ、荒かった息遣いはそうすれば、彼の纏うの空気が僅かに変わった……ように感じた。
今までの憤怒は、憎悪は何処にいってしまったのかと思える程に、彼は冷静さを得ていた。澱んだ悪意の色は払拭され、澄み切った空気からは、純粋な殺意が私に向けられている。私を、苗字名前を殺すという、他意もない、至ってシンプルなそれだ。
それは、以前に柳洞寺で感じた敵アサシンへの殺意と似ている。

彼はディルムッド・オディナの皮を被った“何か”ではなく、ディルムッド・オディナ本人なのだという事実を改めて突き付けられてしまった。


私は心のどこかで、こいつは「彼」ではないと思っていたのかもしれない。


「ここで無駄な魔力は使いたくなかったが。こうも“貴様”の思うがままにされては、宝具を開帳するしかあるまい。主、御覚悟されよ。貴女が俺の傍から離れるなど、そのようなことは………あってはいけない」



「自分から離れていく気満々だった奴が何を言っているんだ」という向こう見ずな突っ込みは、生命の危機的状況下で言うことは出来なかった。

彼の言葉に、互いの茨の拘束が先程よりも急速に進んでいく。一方は、ディルムッド・オディナの攻撃を阻止するかのように。もう一方は、私をディルムッド・オディナからいち早く遠ざけるような。私の思い込みかもしれないが、茨の動きがどことなく焦りを含んだように映って見えた。

それと比例するように、彼自身の魔力が槍へと集まっていくのが、何となく感じられる。澄んだ空気の中に、柔らかで、けれどもどこか澱みのある空気が混じっていく。宝具を解放すれば私の体は真っ二つだと、彼は言っていた。
茨ごと私を突き刺して引き戻す算段なのだろう。引き戻されれば、私はまた彼に捕らわれ、生き地獄を味わうのだ。
この茨が何をしようとしているのかさっぱりではあるが、ディルムッド・オディナから距離を離してくれるのであれば、今はこれに縋るしかない。

茨によって距離が離れたとはいえ、槍使いである彼からすれば私は攻撃可能の間合いに足を踏み入れているままなのだろう。私を見据えたディルムッド・オディナは、茨に絡み付かれていることなどお構いなしに攻撃態勢に入ろうとしている。黄色の槍からは、視認出来るほどの魔力が溢れていた。それをどうこうする術は考えても思い付かない。

令呪はない。抵抗出来る気力もとうにない。体は得体の知れない茨によって拘束されている。こんな状態で彼の攻撃を回避するなど、ギルガメッシュさんが私に向かって腹踊りをするくらい無理な話だった。

ぼんやりと、私に狙いを定めている槍を見つめる。この槍の色は、ギルガメッシュさんの愛機と少し似ていた。本人は「こんな棒切れと一緒にするとは、貴様の目は節穴か?」とぶち切れそうだが。


………ギルガメッシュさん。
ここまで惨い仕打ちを受けていれば、あの迷惑極まりない暴君でも些か恋しくなるものがある。
あの人は叩く、足蹴にする、パシリにすることはあれど、聖杯グランプリの時以外は私に刃を向けることなんて一度もなかったのだ。ただご飯を作り、ゲームをし、時々出掛けて、セイバーが我に惚れただの、あーでもないこーでもないと言葉を交わし睨まれ叩かれていた日々。勿論理不尽な物言いに苛立つことは多々あったが。精神的苦痛も伴ったが。この状況と比べると、平和的で、日常過ぎる時間だった。


今日買ったばかりのペンギン茶碗を使ったまともなご飯提供がまだ出来ていないし、テレビを見ながら「来週はチーズ……フォンナントカを出せ」と腕組み足組みどや顔で申していたあの人は、チーズフォンデュの美味しさを知らない。




「………………帰りたい……」



全てはギルガメッシュさんが私の部屋に転がり込んだことから始まってしまったことだ。
私がこうなった元凶は、ギルガメッシュさんであるのに。どうしてか“ギルガメッシュさんが居る”アパートの一室に帰りたくて堪らなかった。


私の何気ないぼやきに、男は僅かに頬を緩ませ目尻を下げて首を振った。



「…貴女は未来永劫、此処に留まり続ける。喰らえ、必滅の───っ………ぐっ!」
「…!」

来たる攻撃と衝撃を覚悟していたものの、それは予想していなかった展開で免れた。
これまでに無い程の強い殺気と共に宝具が解放される──と思いきや、彼に絡み付いている中で飛びきり太い茨が槍へと巻き付いた刹那、小枝をへし折るが如く、真っ二つにしてしまったのだ。
硝子を靴で踏み歩いたような乾いた音と共に、黄色の槍はさながら魔法でも溶けたように欠片となって散らばり消えていく。得物を一つ失った彼は、こうなるとは想像していなかったのか目を見開くと忌々しげな表情で大きく舌打ちをかました。


「くそッ!…………魔力量は貴様の方が上か、何故そこまで───………………そうか、通りで…!」




何がそうなのか。一人憤る彼を余所に、太い茨は標的を消えた槍から私に変えたのか、既に何重もの茨に巻き付かれているその上から更に私に巻き付くと勢いよく地面に引きずり込んでいく。

それからは早かった。
地面の中へ沈み込んだ瞬間、茨は泡沫のように消えていき、私は真っ逆さまに何処かへ落ちていた。まるで崖から突き落とされたみたいだ。だが、ディルムッド・オディナにこのままいたぶられるくらいなら、このままの勢いで地面に激突し、一度死んで逃れる方がよっぽど安上がりに思える。
着地地点が見えない奥底から、ふと顔を捻り上を見上げた。


完全に逃げの姿勢に入った無防備な私を、彼が放っておくのだろうか。
 
彼を拘束する為に残された茨がうねうねと鈍く蠢き、白薔薇が咲き誇る所から、彼はひょっこりと顔を出していた。
回復しつつある視界に映るディルムッド・オディナは、憎々しげな目で私を見ることもなく、ただただ無表情だった。つまらないものを見るような目で、落ちていくだけの私を見下ろしている。その四肢は茨にぎちぎちと巻き付かれているからか、身動き一つしない。宝具が破壊されたことを受け、抵抗するだけ無駄なのだと悟ったのか、こちらを覗き込むことだけで精一杯だったのか。何にしろ、襲ってくる気配はなかった。


落下速度が思っていたよりも速く、瞬く間に彼の体は小さくなっていき、離れていく。



だが、しかし。





「───逃れられると、思うなよ」


蛇のようにしつこく絡み付くような低い声が、生温かな吐息と共に耳元で響いた。