羊飼いの憂鬱 | ナノ


「───ふふっ……ふふ、ははは…ははははははっ!!」


一面に広がる暗闇の中に、笑い声が響く。その声は、笑い声である筈なのに、恐ろしく冷たい。
私に覆い被さっていたディルムッド・オディナは、そんな私の言葉を聞くと赤黒い目を丸くした後、半身を起こし腹を抱えて笑い始めた。戯言を、とでも言うように、馬鹿にしている態度で笑う。私はその光景をただ見つめた。

完全に、舐められている。

それもそうだ。人間に、化け物じみた力を持つサーヴァントが敵うわけがない。ましてや魔術回路を持つだけの──しかも魔術を扱うことさえ出来ていない──人間なら、尚更だ。


だが、それはマスターの証である左手の令呪がなければの話である。

これが在る限り、私はディルムッド・オディナに対して絶対服従の命令を命ずることが出来る。令呪の効果は、先程の記憶でオディナさんが自分の意志に関係なく自害をした場面を見たので、これにどれだけの強制力があるかは概ね理解している。
──尤も、聖杯くんによる令呪の使用縛りがされておらず、且つ目の前にいるオディナさんであって彼ではないディルムッド・オディナにまで令呪での拘束が可能かが問題なのだが。


「どうしてそんなに強気な発言が出来るんだ?貴女は!…この俺に何かをしようなど…残念ながら、その令呪で俺をどうにかするなど出来ないというのに…愚かな……ふふっ、ああ、主よ…主である貴女を笑ってしまうなんて、とんだ無礼を……


謝罪と言っては何ですが、死を差し上げます」 


左手から冷たい物が引き抜かれたと思ったその瞬間、首に鋭い痛みが走った。それと同時に生温かい物が飛び散る感覚。一瞬にして視界がぼやけ、意識が遠のく。頸動脈がやられたのだということを理解するのに、少し時間がかかった。だが、それも少しだけ時間が経てば戻るのだ。…こんなに出血量が激しいのに、私の体内の血液は確実に減っている筈だというのに、一体どうやって修復しているのだろうか。
…また話が逸れた。それは、今は置いておこう。すぐに答えを見付けるべきことではない。
今は、聖杯くんからこいつ──ディルムッド・オディナへ支配権が渡ってしまったらしい訳の分からない世界から脱出を図ることを考えなければいけない。
生温かな血がどくどくと流れていくその感覚が、頭の中をクリアにしていく。今まで遠ざかっていた意識も、ぼやけていた視界も徐々に回復してきた。

また、死んだのだ。


「…三十八回目。どうですか、主。生きて死んで、死んで生きるのは。どうかこのディルムッドに、どのような気分なのかお聴かせ頂けますか」

「……………」


「話せないですか。いや、別に構いません。俺は、もう貴女と話すことは何もないのだから。存分に殺させて頂き、存分に死んで頂くだけです。まあ、俺としては──………」

べらべらと喋り続けている奴を見つめながら、左手を動かす。
槍が抜かれたことによって自由になったそれを微かに動かせば、何故かそこは未だに完治していなかった。穴が空いたままで、血が出続けている。ずきずきと、痛みもあった。

おかしい。今までの傷はどこも全て治っている筈だ。爪を引っ剥がされたのだって、もう全て生え揃っている。どうしてこの傷だけ、完治はしないのだろう。


「…っ、ぐ………うえっ…げほ、げほっ………はぁ、あ……ぐえ………。……っ?」

息が苦しくなり、咳き込むと血も出てくる。咳き込む度に、首の傷が痛み、そこからも血が止まらなかった。そこそこ勢いもいい。再び意識がぼんやりとするくらいだ。このままでは、また出血多量で死ぬことは免れない。

……どちらもあの黄色い槍でやられた傷だ。あの槍には、何か魔力でも込められているのか?でも、それならあの剣にやられた時だって何かしら私の身に起きている筈だ。…いや、こいつはあの時「宝具を解放していれば、体は真っ二つだった」と言っていた。つまり、宝具は解放することでその武器の能力が色々と使用出来るのだろうか……?何故あの時私は能力が解放されていない剣で刺されたのだろう。何故、今は、抵抗の意を示した私の首を能力が解放されている槍で切ったのか。


殺され続けてからの何十分か、数時間か。うっすらと頭にあった疑問、と言うべきか。奴が、無意識にとった行動を踏まえた上での推測が、少しばかり──紙に水で薄まったインクが数滴滲んだ程度だが──色濃くなった。槍を使ったのは単なる気紛れ、という可能性も大いに有り得るが。



「…げほっ……ディル…ムッド… オディ、ナ」
「お呼びですか」




血を吐き出しながら名前を呼ぶ私に対し、彼は面白おかしそうに顔を歪ませる。ぐぐ、と首に片手を掛け力を込めながら「何でしょう」と首を傾げるこいつは、私を嬲り殺すことしか頭にないらしい。
私は気を抜けば飛んでしまいそうな意識の中、首を掴む奴の手を必死に掻きむしりながら、真っ赤に塗れている口を開いた。 

「…令呪を、もって──ッぐ、う…!あっ、が……ひ…いたッ、い…ぃ…!!…ぎ…う、っぐ……」
「本当に聞き苦しい声ですが、今の俺には聞き心地のよい声です。主よ」

手に、再度槍が突き刺さる。死ぬには足りない痛みが掌を貫いた。刺したまま、ぐりぐりと動かされては声を堪えることも出来ず、必死に唇を噛み締めるも、口端からは聞くに堪えない声が漏れ出ていく。歯が食い込んで裂けた唇の痛みなんて、気にならないくらいの痛み。痛みから逃れようと
藻掻く私を品の悪い笑顔で見下ろす奴は、私にのし掛かると同時にそのまま私の顔を両手で掴むと───





「……人間は脆い生き物だ。こんなにもあっさりと死んでしまうというのに、命令に従わねばならないのか。まったく、理解しかねる」
「………………」


……………顔が、本来有り得ない方向へと曲がっているということが、自分でもよく分かる。それでも早速治り戻り始める首の骨の歪な音を耳にしながら、奴の行動を振り返った。

ああ。きっと、そうだ。こいつは、





「……はは…」
「……………何がおかしい」


自然と漏れ出た笑い声に、ディルムッド・オディナはぴくりと反応し、眉をつり上げた。赤黒く濁った瞳の中に、殺意の色が色濃く染まり始める。それでも乾いた笑い声を抑えることは出来なかった。笑う度に首が痛くて仕方が無かったし、顔の位置だって完全に戻り切っていない。今までの人生を振り返った中で、切嗣さんにはとてもじゃないが見せられない姿ナンバーワンである。

ゆるゆると右手を顔に添え、力を込めて、本来在るべき位置に戻せば、正に剣をこちらへと振り下ろそうとする奴の姿が視界に映った。抵抗する暇もなく、その剣は私の体を貫く。貫く。貫く。貫く。貫く。貫いて、串刺しにして、穴開けにして、殺す。
息を吐く暇もなく、命が奪われ、命を消され、命を蹂躙される。


「……四十八回目。何故笑う。いい加減、気でも違ったか」



気が違ってるのはお前だろ、と心の中で返し、真っ赤でぼやける視界の中で彼を見据えた。
煽り耐性がまるでない残念な男に嘲りと蔑みの視線を送り、何となしに令呪へと視線を移せば、勢いよく槍が掌を貫通する。



「…ぐ…ッ!!……っ…く、う………そんなに、怖いんだ…………令呪で、命令……されるのが…?」
「何を──」
「はじめに、令呪を使おうとした時も……私の動きを、封じるために…令呪のある左手を串刺しにした時だって……さっきも、こうして…令呪を使おうとした時に、限って……っ…お前は、その槍を使う」
「………………」
「俺に、令呪は通用しない…とは言ったのは…私に“令呪は使っても無駄”という刷り込みをしただけで…実際は、本当に通用するか…否かは自分でも、分かってない」
「黙れ」
「…私はこんな所で、お前の殺し遊びに付き合ってる時間は、ない………ッ、ぐ…!ぅ……


令呪をもって命ずる───」


槍が刺さったままの左手を勢いよく手前へと引き戻せば、ぶちぶちと嫌な音を立てながらではあったが、自由を得ることが出来た。突然の行動に奴の行動が一瞬遅れる。
手はぼろぼろなのは分かっていたが、確認する間が惜しい。


駄目元で、私が出来る範囲で、ただ一つの抵抗をすべきなのは、今だ。




魔術回路を、開く。あんなにも四苦八苦していた筈なのに、体の全身に、何かが巡る。令呪は使わせまいと、左胸を冷たい鉄が通っていく感覚を振り払うように、口を開いた。


「──ッ、私を、此処からッ……出せ。ディルムッド・オディナっ!!」