羊飼いの憂鬱 | ナノ
真っ暗闇の中、赤い海が広がっていた。


「うっぐ………あッ…あ"あ"あ"あ"あ"あ"ぁっ!!」
「主、これでご自分が何回死んだか分かりますか?」


慈愛が含まれた柔らかな亡者の声が、頭上から聞こえる。


左胸に感じる、鋭く光る冷たい無機物が私の心臓を貫いたのは何度目だったか。


もう、どのくらい時間が経ったのかも、私が何回死んだのかも分からない。



「………はぁッ……はぁッ…」
「…分からないのであれば教えて差し上げます。三十七回ですよ」
「……ぅ…ん"ぐ……うぇ…っ!」



勢いよく剣が抜き取られる。

激痛がじわじわと緩和されていく中、黄槍の先が左手の甲を貫通し地面に刺さっているのを眺めながら咳込んだ。当然の如く口からは血がびちゃびちゃと溢れ出て、そして赤い海の一部となっていく。


そうだった。
この赤い海は全て私の血だった。忘れていた。
こんなに全身血まみれで、トマト祭にでも参加してきたのかのような風貌なのに、気にすらせずに忘れるなんてどうかしている。


「血の海」なんて言葉があるけど、本当に存在するとは思わなかったし、まさかそれが自分一人の血で再現されるとは考えたこともなかった。


普通なら多量出血で死んでるレベルだ。


ディルムッド・オディナは剣に付いている血を指で拭い、舌で舐めとると軽く溜息をついた。他人の血を舐めるなんて、感染症が怖くないのだろうかとぼんやり考える。



「貴女は、つまらない御方だ。こうも何度も殺されてるというのに、死に際が単調過ぎる。これからあと何回殺すか、俺ですら分からないというのに──…終わりが見えないことは、貴女にとって恐怖に値するものではないというのか?」
「…っ、けほ………別、に…そんな……」



怖くないわけないだろう。
刺されたり、首に手をかけられれば当然恐怖が全身を支配する。こればかりは、何度やられても慣れてはくれない。

逃げようにも、左手はこんな串刺し状態だし、走る気力も体力も尽きている。逃げたところで、行き場もなく、相手は身体能力が並外れているサーヴァントだ。すぐに追い付かれる。

追い付かれて、笑いながら殺される。

逃げ惑って恐怖の色に染まりながら死んでいくことこそ、こいつの思い描く殺し方なのだ。相手の思い通りになるなんて、私は御免被る。

刺されれば死ぬほど──死んだけど──痛いし、首を絞められたら死ぬほど──死んだけど──苦しいが、何度死んでも生き続ける命に助けを乞う行為に意味など見い出せない。どうせ命乞いをしたところで、ディルムッド・オディナはこの行為をやめないだろう。というか、乞う言葉を述べた時点で行為がヒートアップすること間違いなしだ。


「……単調過ぎる遊戯は、お互い刺激に欠ける。主、ここは趣向を変えましょう」
「……?」



手から剣を消した怨霊は、伸びている私の前で跪くと私の右手を取った。そのまま手の甲を唇に近付ければ、音を立てて口付けられる。


「…ッ…?!」



その瞬間、ぞくりと立つ鳥肌。



「このようなことをされるのは初めてですか?反応が……生娘そのものですよ、ナマエ様」



にたりと笑うディルムッド・オディナは、反応があったことを喜んでいる。


違う。そうじゃない。そこじゃない。馬鹿かこいつは。


切嗣さん以外の人間に手の甲へキスされたという事実も充分鳥肌モノだが、そんなことよりも──…


彼の唇が、氷のように冷たかったのだ。
あれは死人だ。比較するのもおこがましいが、火葬される直前まで握っていた切嗣さんの手みたいに、冷たかった。

これは、死人が持つ体温だ。


私の手をとるその手も、グローブ越しなので確証は持てないが、心なしか冷たい気がする。グローブを外せば、ぞっとする程冷たいのだろう。


柳洞寺で引き寄せられた時、彼の体温は確かにそこに在った。
今の状態にフォルムチェンジしたことでこんな様になってしまったのだろうか。




「───ひ、うっ!!…痛、ぁ…ッ…!!」


意識が思考の方へと沈んでいたのが、一気に引き戻される。というのも、指に感じたことのない──刺されるよりも何倍もの──激痛が走ったからで、指先を見れば人差し指が朱に塗れていた。


よく見れば、爪がなかった。



「……う、あ…!…ぅ…くっ」
「こちらの方が反応が良いですね。殺されるよりも爪を剥がされる方が反応が良いなんて、変わった人間もいるものだ。……加護の影響か?まあいい」


にこにこ笑うこいつは、躊躇なんて言葉は知らないようだった。
歯を食い縛り、必死に痛みに耐える。先程まで四捨五入すれば四十になるくらい殺されていたのだ。爪の一枚や二枚くらい、殺されることと比べたらどうってことない。


そう思っていたのに。








「…もう……ひっ、…ぐッ、嫌だ!…いぃ、痛い、痛いッ!!」
「まだ三枚目ですよ?ほら、あと七枚──…足を入れれば十枚残ってます。これはほんの序の口ですよ、主」


暴れれば暴れるほど、左手に刺さっている槍が傷口を刔り死ぬほど痛いし、かと言って暴れることは自制出来ない。涙で霞む視界の中、目の前に剥がした爪を翳してくる槍兵の表情は、やはりこの場にそぐわない。



「…ひっ…あ…ぃ、あ…が…あ"あ"あ"あ"ぁ"ぁ"あ"あ"ッ!!!」
「……四枚目。…致命傷、即死に至る怪我のダメージのみ半分若しくは三分の一に抑え込まれているのか?無意識下に痛覚の遮断を行っているようだ。碌に魔術も使えないのに、こういうところだけ器用とは……流石俺の…愛しい主」
「……ふっ、う……はぁっ…はぁっ……はあ…う、ぐ…ぅ……──っ!?っん、ぅ」


気付くとディルムッド・オディナの紅い双眼が目の前にあった。口は氷の唇によって塞がれ、口内には異物が入り込む。蹂躙するかのように蠢く舌すらもひどく冷たく、死んでいた。
反射的に舌を噛もうとするも、分かっていたのか空いている手でがっちりと顎を掴まれる。


「…っ、…!…っく…」
「…んっ、う……はぁ……ある、じ、……ッ、ん…」


舌は歯列を確かめるようにゆっくりと沿っていき、逃げ場もなく奥に引っ込もうとする私の舌を捕らえると絡み付いてきた。奴の唾液が私の血液混じりのそれと混ざり合う。

頭に靄がかかってきて、上手く考えることが出来ない。

でも、今されているこれは、気持ち悪いことだというぐらいは、判断がつく。

力の入らない手で奴の胸板を押せども、意味はなかった。爪の剥がされた指からは、じわりと血が滲む。


「…っ…!…ん、ぐ……は……」


ディルムッド・オディナはもう片方の手で頭をがっちり固定すると、更に奥へと舌を押し進めてきた。微かに唇を離すその一瞬の内に酸素を取り入れることは出来たが、満足に呼吸もままならない状態で暫くの間舌を絡められる。どちらのものなのか分からなくなった唾液は、溢れてだらしなく私の顎を伝っていった。


「──…っ、う…」
「……ふ、こんなもので息切れとは、先が思いやられる」


ようやく私を解放した男は、口元を拭いながら再び血溜まりに倒れる私を見て嘲笑を浮かべる。
多少飲んでしまった唾液を吐き出そうと咳込めば、血と唾液の混じる、泡立ったピンク色の唾液が出てきた。汚い。


「…うぇっ………げほっ…げほ…」
「……好きでもなく…むしろ嫌悪する相手にこんなことをされる御気分は如何です?」
「………」


最悪だよくそったれ。

本当にこいつは、人の嫌がることしかやらない。とんだ性根の腐ったくそ野郎だ。
無言で睨む私がどんなことを考えているのか大体伝わったのか、奴は好青年のような笑みを私に向ける。


「御安心下さい、主。直ぐに俺と触れ合うことが堪らなく嬉しいと感じるようになりますから。

──むしろ、貴女自身が自ら触れ合いたいと思うでしょう」
「…!」



その言葉で、次にこいつが一体何をしようとしているのかが分かった。
反射的に、力の入らない手で首元を飾る装飾品を握り締める。
そんな私を見て、ディルムッド・オディナは笑った。意味のない抵抗に、無駄な足掻きに、徒労に終わる行為に、笑いを飛ばす。


「さぞかし気に入っている様子。大丈夫ですよ、それが壊れた時点で、貴女はそんなものに見向きせず…身も心も俺のことしか考えられなくなる。凌辱されることに喜びを感じることになるでしょう」


血が付くことなど気にもせずに覆い被さってきた彼は、私の首筋を冷たい舌でなぞっていく。
噛み付かれるのだろうかと息を飲む私を喉の奥で笑えば、そのまま唇を押し当てて吸い付いてきた。ちくりと痛痒さが繰り返され、冷えた吐息が首筋にかかる。指は、一発目にやられた傷をなぞるかのように、体を這っていく。


──私は、これからどうなるんだろう。
立ち上がる力はない。走る力もない。ただただディルムッド・オディナに弄ばれ続け。
彼は、自分がこの世界を出るにはもう少し時間がかかると言っていた。それは何故だろう。
他にも引っ掛かる言動行動が幾つかあったが…確信が持てず、確かめることも出来ない今、考えない方がいい。


彼が、この世界を出た後、私はどうなるのか。そもそも本当に私の体は現実にあるのか。本当の本当に精神だけこちらの世界に連れて来られているのか。聖杯くんももっとはっきり説明してくれれば、こんなことにはならなかったのに──…などと、今更聖杯くんに責任や文句を押し付けたところでどうにもならないんだけど。


考えても埒の明かない問題に内心意気消沈していれば、ぷつりと皮膚が切れる感覚。


「………痛っ…」
「…ああ。本当に、血に染まる貴女は可愛いらしい。俺の付けた傷が癒えてしまうのが惜しく感じます」
「…っ、…はぁ…」


甘噛みと言うには痛すぎるそれに、思わず顔が歪んだ。
私の顔を見て満足げな表情のディルムッド・オディナは、装飾品が握られた私の手を掴むと一本ずつゆっくりゆっくり指を開いていく。


「主と俺に壁をつくるような物は、全て壊してしまわなければ」


それを拒む程の力を、私は持っていない。


手中に隠れていた赤色を見た途端、彼の顔は歓喜に歪んだ。宝物を見付けて喜ぶ子供のような純粋な笑み。彼は、間違いなく狂気に支配されていた。


「……………」


多分、優勝祝いとして。そして、洒落っ気ゼロな私を見兼ね特注で作ってくれた…赤色に輝く、ギルガメッシュさんがくれたアクセサリー。
ちょっとやそっとじゃ壊れないと言っていたけど、幾ら頑丈でも外されたら意味なんて成さないだろうに。
…ギルガメッシュさんって、時々ちょっと抜けてるところあるよな。あの人は、単細胞(バカ)だ。外されそうになった場合のこととか、考えてたんだろうか。


…多分、考えてなかったんだろうな。


私のこと馬鹿馬鹿言うくせに、人のこと言えないじゃないか。


あの日の帰り道、私の首元で輝く自らの財を眺め、満足そうな顔で口を開くギルガメッシュさんが頭に過ぎる。




──『勝手に外すなよ』




「………」





……ああ。





そうだった。




あの人は、そう言っていた。常時付けろ、肌身離さず付けていろと言っていた。一方的な命令だったし、微妙な返事ではあったが、私は確かに返事をした。私は常にこれを付けている、とあの人と『約束』をした。
『約束』は『約束』だ。



『約束』は、例え何気ないものだとしても、約束したからには守らなければならない。


私は、守らなければならない。ギルガメッシュさんとの約束を、守らなければ。
そうしなければ──“彼”との約束を「再び」破ってしまうことになる。



こんな散々殺されまくった後に今更思い出すなんて、馬鹿呼ばわりされても仕方ないかもしれない。

きっと、最近色んなことがあり過ぎて疲れているのだ。働き過ぎ、振り回され過ぎなのも重なって、余計に参っているに違いない。休息が必要だということは分かる。以前から散々ネコさんに有給休暇をとるように言われてもいたのだ。



ゆっくり休もう。
美味しいものを食べて、心ゆくまでいっぱい寝よう。



「……肉」

「………は?」


私の言葉に、アクセサリーを弄んでいたオディナさんの手が止まる。


「…ギルガメッシュさんの御機嫌取りの為に……ビーフシチュー作ろうと思ってたのに…お茶の帰りに買いに行くの、忘れてたし…結局ラーメン作ってた」
「…何を──」
「戯れはもう充分ですか?そろそろこんな薄気味悪い所から出してくれないと困るんですよ」


アクセサリーを持つその手を止めるように握り締め、自分を睨み付けてくる血塗れの人間の姿は、さぞ滑稽に映ったことだろう。
だが、しかし。
この時、初めてディルムッド・オディナの顔は顰められた。嫌悪か、煩わしさによるものか。なんにしろ、一瞬でも私を面倒だとか、厄介なモノだと思ったのならば、それで良い。

態度的にも──物理的にも──舐めてかかられては、何も出来ずに終わってしまう。



ゆっくり休もう。
これらを全部、終わらせて。