「名前、駄目じゃないか。大河ちゃんと約束していたんだろう?」
大好きな人の咎める声が後ろから聞こえる。
この時の私の心情を擬音で表すならば、「ぎくり」だろう。もしくは「ぎくっ」。「ぎくり」も「ぎくっ」も変わらないが、まあ何と言うか、後ろめたい気持ちがあったことを分かってくれたなら嬉しい。
これから始まるであろうお説教への憂鬱さと、好きな人が誰かを庇う言葉を聞かなければならないという苦しみが、心を青色に染めていく。
この人が私の名前を呼べば瞬時に反応し駆け寄っていたが、今日は呼ばれた理由が理由なだけに動くことが出来なかった。
「一緒に文房具を買いに行く、と聞いていたよ。それなのに一人で行ったのかい?新都の方は交通量が多いから、一人で行くのは駄目って約束しただろう」
縁側に座る私の隣に腰掛けた切嗣さんは、困った顔で、でも笑みをこぼしながら、私の頭を撫でる。
──そうだ、私は約束をしていた。
大河さんが、私が学校で使っている鉛筆や消しゴムを見て「新しい物を買いに行こう」と声を掛けてくれたのだ。
私もそろそろ買い時だと思っていたし、大河さんなら掘り出し物を知っているだろうと首を縦に振ったのは言うまでもなかった。だが、大学生の彼女と、小学生である私が一緒に動ける時間はなかなか見当たらなかった。
私はともかく、彼女は勉強で忙しい。
上手い具合にお互いの予定が合う日など早々なく、大河さんと私が二人で出掛ける約束は、誘われた日から三週間後──つまり今日だ──へと引き延ばされる日々が続いた。
まあ、そんな約束は私が一人黙って新都へ向かったお陰で果たされなかったわけだが。
私だって、約束を破るつもりなんてなかった。
約束を破ることは、いけないことだと理解はしている。理解はしていても、人間の心というものは、科学の力でなんて理論に基づいたものでは証明出来ないくらい複雑窮まりないのである。
私の下校を待つ大河さんが、楽しそうに切嗣さんと話している姿を見るまで、私は確かに約束を守る気でいたのだ。
大河さんは、衛宮家に突然転がり込むことになった私に優しくしてくれた。小さくなって着なくなった可愛い服を幾つかくれた。姉がいたら、きっとこんな感じなのだろう、と考えたことが何度もある。
大河さんは、私より年上で、大人の人だ。
私が知らないことも、たくさん知っているし、私が持っていないものもたくさん持っている。
明るくて、優しくて、素敵な大人の女性だ。
そんな人が切嗣さんと並んでいるのを見て、私は何故だか裏切られたような、置いていかれたような気分に陥った。
私が切嗣さんの隣に並んで話をしたとしても、あんな雰囲気にはならない。静かで、穏やかで、落ち着いていて。大河さんと切嗣さんがいる空間と、私と切嗣さんがいる空間は、まったく空気が違う。
仮に、二人は恋人の関係なのだと言われても、きっと納得してしまう。そんな空間が、そこにはあった。
大河さんは切嗣さんと同じ「大人の人」だから、切嗣といたら「親子」に見られる私とは違うのだ。
大河さんが羨ましくて、そう思うとその明るく優しいところすら鬱陶しく思えてしまった。
今なら分かる。
あれは──俗に言う、嫉妬だ。
当時はそのぐちゃぐちゃとした気持ちが何なのか分からなくて、じわりじわりと押し寄せる不快感が嫌で。きっと話し掛けでもしたらますます嫌になるだろうと思った私は、縁側にいる二人に気付かれないように忍び足で家に入った。
そうして一人新都に繰り出したのだ。
「どうして黙って行ったのか、僕に教えてくれないかい?」
「………」
「…だんまりか。困ったなぁ……どうしても言いたくない?」
自分でもこの気持ちがよく分からないのに、切嗣さんに説明なんて出来るわけがなかった。
頷く私を見た切嗣さんは、やっぱり眉を八の字にして暫く考え込んでいたけど、「じゃあ聞くのはやめるよ」と言った。それから「でも、」と言葉を続ける。
「約束は──……例えばそれが何気ないものだとしても、約束したからには守らなきゃいけないってことは分かるね?……ね、名前?」
「……はい」
「『はい』じゃなくて?」
「…うん」
「そうそう。流石は僕の娘だ」
「………」
「明日、大河ちゃんに謝りに行こう。僕もついて行ってあげるから」
「…うん」
「大河ちゃん、すごく心配してたんだぞ?…そうだ、帰って来たって電話しないと。おいで、名前」
ぎゅっと切嗣さんの腕に抱きしめられる中、心の中で彼に話し掛ける。
───切嗣さん。
今度から、約束はちゃんと守るよ。切嗣さんとの言い付けも、他の誰かとの約束だって、絶対守る。
だから。
私を。
私を、貴方の娘になんかしないで。
娘とは違う形で、私を───……