羊飼いの憂鬱 | ナノ
「貴様らは……そんなにも──……」


低い唸り声はまるで獣のようだった。
血涙が、あとからあとから零れていく。
黒いコートの男とケイネスさんを見据えたまま、オディナさんは酷く掠れた声で喋り始めた。


溜まり溜まった憎しみを吐き出すように。


「そんなにも勝ちたいか?!そうまでして聖杯が欲しいか?!この俺が……たったひとつの懐いた祈りさえ、踏みにじって……貴様らはッ、何ひとつ恥じることもないのか?!」


騎士として振る舞うことも出来ず、主君に殺される末路。好敵手と認めた相手も謀殺に一枚噛んでいるとなれば、彼が憎悪に駆られる理由としては充分だろう。
自らが臨んだ願いと正反対の終わり方は、彼を変えてしまった。


「赦さん……断じて貴様らを赦さんッ!名利に憑かれ、騎士の誇りを貶めた亡者ども……その夢を我が血で穢すがいい!」


少しずつ体が塵のように崩れていくのも気にせず、彼は叫び続ける。


「聖杯に呪いあれ!
その願望に災いあれ!
いつか地獄の釜に落ちながら、このディルムッドの怒りを思い出せ!」


彼が呪詛を撒き散らす間、誰も一言も発することはなかった。

セイバーさんの愕然とした顔と、怯えたようなセイバーさんのマスター。目の焦点が定まっていないケイネスさん。これを仕組んだ黒コートの男が……何を考え、どんな表情を浮かべているのか。私には知ることが出来なかった。


そうしてディルムッド・オディナは消えてしまった。鬼神のようなその姿には、美丈夫の面影など見えやしない。そこには誇り高い英霊ではなく、誇りを穢され、信念を真っ二つに折られた怨霊が一人いた。


彼が消滅すると共に、セイバーや他のマスター、建物も紙吹雪が散るように少しずつ崩壊していく。彼の話は本当に、本当にこれで終わりなのだろう。
何もかも全てが消えていき、暗闇へと取り込まれる。あとは、私一人だけが残った。
てっきり再び茨に拘束されるのではないかとばかり考えていた私は、静かに息を吐く。


「……………」


同じ道を貫こうと約束した好敵手と、忠誠を誓ったマスターとの共謀。

セイバーさんと剣と槍を交えるその裏で、何が起きていたかなど知る由もない彼の目にはそう映ったのだ。


ああ、こうしてオディナさんは傷付いたのか。


経緯は分かった。何がどうしてああなってしまったのか、納得もした。



──納得はしたが、これを一体どうやって私に解決しろと。

はっきり言おう。無理だ。こんな問題、私には荷が重過ぎる。聖杯くんには「私の出来る範囲のことなら少しくらいやってもいい」と言ったが、私が何か行動を起こして解決出来る範囲を軽く超えている。超えちゃいけないライン考えろよ、と言っても聖杯くんはサイコなクレイジー野郎なので聞く耳など持たないだろう。


何より、聖杯くんの生死は不明である。これが一番の問題だ。彼がいないだけで、此処から出る術も分からないのだから。


「…くそっ」


何もかも手詰まりな状態に、思わず悪態が口から漏れる。オディナさんのことをどうするかは、今の段階で何も策がないので後で考えることにして。

私はまず此処から脱出することから始めなければならない。


……駄目元で令呪でも何でも、一度使ってみれば事態は変わるだろうか。良い方に転ぶか、悪い方に転ぶかは別として。「私を現実世界に帰せ」とでも願ってみよう。百歩譲ってもし此処が聖杯の記憶ではなく、ディルムッド・オディナの記憶の世界であるなら、少なからず変化が起こる──…と思いたい。此処が何処であるのか知れるだけでも、脱出への第一歩と言えるだろう。

聖杯くんの手による世界のままなのか。それともオディナさんの記憶の断片に存在する世界なのか。出来るだけ前者であることを願いたい。

赤い刻印の浮かぶ左手を顔の高さまで持っていく。どうにかこうにか魔術回路を繋げないか四苦八苦していれば、後ろから突然軽い衝撃が走った。特に力も入れていなかった体は、急な衝撃に踏ん張ることも出来ず、前に倒れ込む。咄嗟に両腕を突き出して地面とキスする事態は避けられたものの、視線は一点へと注がれた。





────……あれ?



「……ぁ……」





あれ。


何これ。


どうして。


何があったんだろう。


先程までは、何ともなかった。


それなのに、どうして、私……あれ?



「……っ…?」




“赤色”が、じんわりと服に滲んでいる。震える手で確かめると、それは確かに私の血だった。



左胸から、“刃物の先端”が“生えていた”。



冷たい異物の感覚が体に通っている。息苦しさに口を開けば、今までに見たことがない程の、夥しい量の血が吐き出された。


急に体を支える力が消えて、その場に崩れ落ちる。再度真っ黒な地面とキスすることはなかったが、その代わり血の海に顔をダイブさせる羽目になった。



血だ。大量の、血。さっきの、オディナさんみたいに。真っ赤だ。服が赤い。顔も、きっと赤い。左胸が冷たい。寒気がする。血も寒気も、瞬く間に広がって、どうしようもない。止めようがない。



止めたとしても、私は死ぬ。

加護がナントカと、聖杯くんは言っていたけれど、こんな重傷は、流石に難しいだろう。

前に一度、料理をしていた時に包丁で指を切ってしまったことがあった。水で血を流している内に傷は消えてしまったので、加護がどういったものかは経験している。

だけれど、こんな、こんなに寒気がして、血も出てるのに。死なないなんてこと、そんな馬鹿なこと、あるわけないだろう。


死ぬ。
意識が消えて、呼吸もなくなり、心臓が止まって、そのうち体が冷たくなっていくこと。

死ぬということは、こんなにも呆気ないものだったのだ。

切嗣さんみたいにゆっくりと息を引き取るんじゃなくて、こんな辺境で、誰にも看取られることなく、死ぬ。


死。





「──宝具を解放していれば、今頃胴体は真っ二つでした。真っ二つより一思いに刺される方が良いでしょう?我が主」


後ろから甘い声が響き渡る。

どこか氷のような冷たさが含まれた声の主を、私は知っていた。



「……ああ、心の臓を貫いても死ねませんか。普通は即死だというのに。やはり、貴女には聖杯の加護があるのでしょう。厄介窮まりない……それは俺にも言えることですが」
「……ディ、ル………?」
「ああ…名前、覚えて下さっていたのですね。このディルムッド、とても嬉しく思います、主よ」


霞む視界を懸命に凝らして、背後に立つ彼を見上げた。

剣を持たない手を胸に置き、軽く頭を垂れる姿は紛れも無く私の知るオディナさんだ。だが、過去の記録に見たような目の輝きはなく、瞳の色も琥珀からどす黒い赤へと変わっている。髪は灰を被ったような濃い鼠色。肌も変に青白いし、服だって全身黒タイツだ。…タイツなのは以前と変わっていないが、外見的には私の知らないオディナさんが立っていた。


「まあ、覚えていようがいまいが俺には関係のないこと。あの聖杯もどきが消えた時から貴女はこの世界から出ることなど出来やしない」
「……っ……はぁ……げほ、げほっ、ん、ぐ…」
「苦しいですか?」


次の瞬間、呼吸が止まる。聖杯くんに与えられた痛みとは比べものにならない程の激痛。左胸に刺さっていた得物が抜き取られたのだと気付いたのは、髪の毛を鷲掴みにされながら立たされ、彼と向き合った時だった。彼の手には見たことのない剣が握られている。剣先は、私の血で染まっていた。

私の視線に気付いたオディナさんは、大事そうに剣を持ち上げると口を開く。


「俺は生来から二本の槍と二本の剣を持っていたのですよ。ランサーとして召喚されたので、剣の方は消えて使えませんでしたが」
「………どう、して…」
「『どうして、使えない筈の剣を持っているのか?』それは簡単ですよ。俺が望んだから。ただそれだけのこと」


はっ、はっ、と浅く短く呼吸を繰り返す私を見て歪んだ笑みを零すオディナさんに、最早騎士の面影は見えない。

私の前にいるこいつは、ただの憎しみに身を委ねた亡者だ。


「聖杯が俺の懐に侵入したことは、記憶に触れられた時から分かっていました。聖杯は気付かれないとでも思ったのか……触れられた痕跡を辿れば、此方側からの侵入など容易い。隙を窺い、参らせて頂きました。聖杯を殺した今、奴の創り上げた世界の主導権は俺にある。ともすれば武器の一つや二つ生み出すことなど容易なこと」


朦朧とした頭で考える。つまり。此処は、聖杯くんの世界ではあるけれど、オディナさんに乗っ取られたってことか。セキュリティ管理くらいちゃんとしとけよ聖杯くん…。


「…はぁ……はぁ…」


幾許か呼吸も落ち着き、寒気も薄れてきた。口の中は血の味で気持ち悪いことこの上ないが、仕方がない。今はただ、思い切り髪の毛が引っ張られている痛みだけで、それ以外は特に痛みはなかった。あんなに死を実感していたというのに、今はその実感すら湧かないのだ。
そっと手を左胸に手を這わせれば、ある筈の傷に触れることはなかった。


「……?!」


──さっきまで、此処に剣先があったのに。あれは夢なんかじゃない。確かに刺さっていた筈だ。だって、こんなにも服が血まみれで、口周りにだって血がこびりついたままだ。それなのに。


聖杯くんの加護とやらは、こんなにも凄まじいものだったのか。


それにしても──



傷の完治による動揺が顔に出ていたのか、オディナさんは私の胸に視線を落として「もう治ってしまわれたのですか」とつまらなそうに呟いた。そこには悪びれた雰囲気など、どこにも感じられない。ギルガメッシュさんが我儘の塊であるなら、オディナさんは悪意の塊といったところか。初めて会った時の真面目な彼とは、別人と考えた方が良さそうだった。


「──さて、邪魔するモノは一人…いや、二人か。二人いるがどちらも俺の邪魔など出来やしないだろう」
「…ッ……ぐっ…!」


髪を掴む手が離れ、地面に倒れるかと思いきや、首根っこから伝わる圧迫感。ようやく落ち着いた呼吸も再び行うことが出来ず、私は水を求める魚のようにぱくぱくと口を閉開することしか出来ない。


「…はッ、はぁ……く…っ!…」
「………どうやら俺が此処を出て表の世界に出るには時間がかかりそうです。…貴女は何度殺そうとも死なない。その刻がくるまで、少しばかりお相手いただけますか。──主よ」


貴女は、刺殺、絞殺、斬殺、撲殺…どれがお好みですか?



そう言ってディルムッド・オディナは、誰もが見惚れるような微笑みをこぼしながら手に力を込めてくる。

多分、きっと。


天使の顔をした悪魔とは、こういう奴のことを言うのだろう。


白くぼやける視界と意識の中──ごきり、と、首元から音が聞こえた。