羊飼いの憂鬱 | ナノ
ずるずると、茨の蠢く音が鼓膜を伝わる。
目を瞑って五感のうちの一つを使っていない為か、やけに大きく聞こえた。


ちくちくと地味な痛みに体中が晒され、どのくらいの時間が経ったのだろう。目玉が棘に刺さっては堪らないと、目を瞑り始めて感覚的には三十分を経過したところだ。実際のところは十分や十五分程度かもしれないが、今の私には知ることが出来ない。


「………」


私は何処かへ連れて行かれでもしているのだろうか。こうも状況に変化がなく、ひたすら茨の棘が刺さる痛みに耐え続けなければならないなんて、とんだ嫌がらせだ。陰湿過ぎる。女子か。

この状況の大本である槍使いを思い浮かべ、溜息が漏れた。公園で話した時から静かにお怒りになっていたのだ。憎しみに憎しみを重ねた彼は、何もかも壊して殺して、破壊の限りを尽くしたい衝動に囚われているのだろう……多分。召喚時に嫌だけど早く消えたいから従うわ〜なんて言ったあの言葉なんて、とうに忘れているに違いないし、そもそも従う気なんてはじめから欠片もなかったのかもしれない。


「っ!…痛ッ…」


左目近くにぶすりと棘が突き刺さり、思わず声を上げると同時に感じる解放感。

──と、勢いよく投げ出される感覚。



「うっ!…ぐッ……けほ、げほっ」


受け身を取る程の時間も余裕もなかった。

正面から床に叩き付けられ、肋骨を打った所為か息が詰まる。苦しい。苦しいが、体は多分何ともない。棘の傷がじわじわ痛むものの、別段命に別状はない。もし仮に百メートル先に切嗣さんが手を振っていたとしたら、クラウチングスタートで百メートルを全力疾走する気力はある。大丈夫だ。
痛みを訴える体を丸め、浅く息を繰り返しながら薄目で辺りを確かめた。床はコンクリートで造られている所為かひんやりしている。上を見上げれば、ちょうど真上に通気口があった。おそらく此処からぺいっと茨に吐き出されたのだろう。


呼吸が落ち着いてきたところで、のろのろと体を起こす。物音を立てないように気をつけながら探索を始めることにした。


建物の中のようだが、窓は割れているしドアは無い。壁も所々崩れている。作業場のような場所がちらほら見られるところから、廃工場と言ったところか。廃墟と化して結構年数が経っているのだろう。


廃墟に、ほんの僅かに白み始めている空。


先程見ていた彼の記憶が、まさにそんな場面を映していた。


つまり、此処は。


「……………」

──いや、結論を言うのはまだ早い。もしかしたら聖杯くんの記憶の中かもしれない。むしろそうであって欲しい。もし私の推測が当たってしまっていたなら、逃げ場はない。

痛む左目周辺を触れば、少し血がこびりついていた。
…この傷は現実の私の体にも反映されているのだろうか。詳しくは知らないが、人間という生き物は思い込みで怪我をするらしいし、死にもするらしい。…もしかしたら全身棘傷だらけになっているかもしれない。ギルガメッシュさんが床に就く際、何気なく私を見たら軽くスプラッタ状態になってて吃驚仰天、みたいな展開になっていたりしないだろうか。そのまま力ずくで起こしてくれたらこんな空間からおさらば出来る(かもしれない)というのに、ギルガメッシュさんのことだ。スープの残ったラーメンのどんぶりなんてそのままに夜な夜なゲームに明け暮れているに違いない…。

もういっそ庶民王よりニート王とか引きこもり王を自称した方がいいんじゃないかな、などと考えていれば、外から人の声が聞こえた。男女の声が、二人。耳を澄ませながら、話の内容が聞こえる場所までそろそろと移動する。誰だろう。いや、うっすらと分かりはするが、分かりたくない。

だが、分からなければこの状況は変わらない。




「既に夜明けも程近いが……残り少ないこの夜を逃せば、我ら二人が心置きなく雌雄を決する好機が、次にいつまた訪れるか知れたものではない。今を逃す手はないと私は思う。──どうだ? ランサーよ」

「セイバーよ……この胸の内に涼風を呼び込んでくれるのは、今はもう、おまえの曇りなき闘志のみだ」




…ああ。やっぱり、声の正体はセイバーさんとオディナさんだった。物陰からは、黄金に輝く剣を握る女と、その女に赤槍を向ける男の姿が見える。女の後ろには、人間離れした見目麗しい容姿をもつマスターが二人の行く末を見守っていた。
オディナさんのマスターであるケイネスさんは、廃墟の中だった筈だ。車椅子では、このようなバリアフリーのなっていない場での移動は難しい。

二人は暫し見つめ合うと、次の瞬間得物がぶつかり合っていた。攻撃が最大の防御とでもいうかのように、苛烈で重みのありそうな一撃が繰り返される。人の目では追いきれないそのスピードに、私はぼんやりとその光景を眺めた。私では一太刀すら捉えることすら敵わない。

思えば、サーヴァント同士の戦いなんて見たことはなかった。精々アーチャーさんが剣や矢を撃ったり放ったりするところを見たくらいだ。第五次聖杯戦争も、私をはじめとした普通の人間が知らないところで、人の領域を超越した戦いが何度も行われていたのだろうか。


暫く鬩ぎ合いが続いた後、二人は距離を空けて再度対峙する。


「セイバー、お前は──」


オディナさんが口を開き、何かを言いかけた。一体どうしたのかと身を乗り出すと共に、後ろから物音が一つする。慌てて振り返れば、オディナさんのマスターであるケイネスさんが、眉間に皺を寄せながら私を見ているではないか。


「…ッ!」


──見付かった。
一気に動悸が激しく鳴り始める。どうしよう。どうしたらいい。
この場合、どうすればこの場を切り抜けられる?


再び剣と槍のぶつかり合う音が後ろから聞こえ始めた。どう足掻いても、私以外に私を助けてくれるヒトなどいやしない。


…駄目だ、考えても「逃げる」以外の策が浮かんでこない。次にケイネスさんがとる行動で判断しよう、と走り出せる姿勢をとれば、彼は舌打ちをして歯軋りをし始めた。


「は……?」


思わず出てしまった声にも反応せず、彼は、
「何故だ…どうして、何故勝てない…!」
そう言って頭を掻きむしる。私のことなど見えていないかのように。


…そうだ。見えていないのだ。これは聖杯くんの記録の中、もしくは……オディナさんの記憶……の世界であるわけだから、私は過去の出来事を実際にリアルタイムで見ているだけで、これは現在進行形で起きている出来事ではない。過去のこの場に私はい ないのだから、ケイネスさんは私が見えないのである。ケイネスさんは私を見ていたのではなく、向こう側にいるオディナさんを見ていたのだ。よく考えれば分かることだったのかもしれない。とんだ気苦労だったと、思わず安堵の息が漏れる。


「……?」


その時、彼の足元に一枚の小さな紙がひらひらと風に乗ってやって来た。何気なく紙が運ばれてきた方向に視線を向ける。そこには、女の人が倒れていた。月明かりに頼りながら目を細め、誰なのか確認する。



あの人は確か──……



ぴくりとも動かないその姿は、間違いなくオディナさんに甘い視線を送っていた彼女だ。ケイネスさんも、彼女──ソラウさんも、ランサー側で戦う人間は皆ボロボロだった。そこには躊躇も慈悲も存在せず、彼らに対する殺意だけが在った。

…聖杯くんは、彼女は戦闘員ではなかったと話していた。彼女を満身創痍の状態にまで追い詰めた人間はそれを知っていたのだろうか。知った上で実行するなんて、よほど精神が破綻しているか、過去に何人何十人と人を殺してきたに違いない。聖杯くんとはまた毛色の違ったクレイジー野郎であることは確かである。



「……ッ!」


ケイネスさんの方をちらりと見れば、彼は今にも叫び出しそうな顔で婚約者を凝視していた。顔色を真っ青にするその様子に、先程オディナさんをけちょんけちょんにした時のような余裕は消えている。
文字通り、彼は絶望の淵に立っていた。


それにしても、どうして駆け寄らないんだろう。
見た所、車輪の障害になりそうな物は見当たらない。この距離ならばすぐに傍に寄って安否の確認なり手当てなり出来る筈だ。

飛んできた紙に一体何が書かれていたのかなど知らない私は、ケイネスさんの不可解な行動に首を傾げることしか出来ない。

そんな私の些細な疑問は、新たな登場人物によって解消されることとなる。



「…!…うわ…」



ゆっくりと現れたそいつは、一言で言えば奇妙だった。黒のコートを纏った人物は銃を片手に立っている。銃口はソラウさんの頭に向けられていた。少なくとも、ケイネスさん方の仲間ではない。きっと、ソラウさんをこんな目に合わせた張本人だ。
そこまでは理解出来た。


だが、しかし。これは一体どういうことだろう。



コートの人物の顔の部分が、白のクレヨンに塗り潰されたかのようにぐちゃぐちゃと、モザイク加工が施されていたのだ。小さな子供が意味もなくぐるぐると何度も輪を書くようなあれ。


『今回見せる記録は見せらんないシーンがごろごろ転がってるわけ。だから人物に黒靄かかってたり声変わってたりするかもしんないけど、そこらへんは大目に見てよね』


不意に彼が言っていたことを思い出す。
聖杯くんが言ってたのはこのことか。何の理由でこの人の顔を拝むことが出来ないのかは分からないし、訊きたくとも彼はいない。
聖杯くんが言っていたことが反映されたままの状態なら、此処は聖杯の記録の世界、でいいのだろうか。


うんうんと悩む私を余所に、話は進んでいく。
気付くと、ケイネスさんの手元には羊皮紙が握られていた。近付いて内容を確かめたが、英文でどのようなことが書かれているかはさっぱりだ。だが、この人にとってはとてつもなく重要な紙であることは間違いない。この人は瀕死に近い婚約者にも近寄らず、大声も出さず、銃を持ったコートの人物の手前、こうして文書を繰り返し読んでいる。

多分これは、取引を行っているのだと判断しても構わないだろう。むしろ取引ではないのなら何をしていると言うのか。お手紙交換というには、些か状況が殺伐とし過ぎている。

必死にその紙に視線を走らせる彼の形相には、焦りと同時に必死さが溢れており、まるで懸命に蜘蛛の糸を昇って極楽を目指す陀多のようだった。一筋の希望に縋るような。これさえ読めば救われるとでもいうかのように。

今のケイネスさんに、戦える力がないのは私ですら分かる。戦場で戦えないのならば、残される道は「死」ただ一つである。生き残れる道を提示されたのなら、普通の人間なら誰だってそれを選ぶことだろう。きっとケイネスさんは、その生き残れる為の道標を「とある条件」と引き換えに与えられたのだ。ソラウさんは、まだ死んでいないから銃口を向けられている。ソラウさんを助ける気持ちがあるのならば、彼はその羊皮紙の内容を飲むしか選択肢はない。取引を持ち掛けられた時点で、彼には敗北が決定されていた。



ケイネスさんはどこかくたびれた顔で、生気の消えてしまった目で右手に浮かぶ令呪を見詰めていた。人によって令呪のデザインは変わるらしい。自分のそれと見比べていれば、彼の令呪は一瞬赤色の光を帯びると消えてしまった。へえ、令呪って使うとあんな風に消えていくんだ、などと考え、そして我に返る。
令呪を使うということは、何らかの命令がオディナさんに下された、ということだ。確か令呪を全て失うことでマスターはサーヴァントを操る権限も失ってしまう筈で。ということは、オディナさんはケイネスさんに従う理由がなくなってしまったというわけであり。主君に忠義を掲げる従者として聖杯戦争に臨んだ彼からすると堪え難いことだろう。契約が破棄されたオディナさんは、主君に聖杯を献上することなく英霊の座と戻っていくのか。呆気ない終わりだ。
羊皮紙には「サーヴァントとの契約を解消し、聖杯戦争から手を引くこと」とか、そんな内容が書かれていたのだろうと予想する。令呪が使われたことを確認したコートの人物──背丈からして男だ──が、銃を下ろすとソラウさんを抱きかかえて外へと出ていった。それに続いてケイネスさんも車椅子を動かして始めた。何処へ、何をしに行くのだろう。撤退の準備でも始めるのか。

本当に、呆気ない終わりだ。これでオディナさんの魂に疵が付いたのだとすれば、彼は一体どれだけ繊細な心をお持ちなのだろうか。



「……………」



本当に、これで終わりなのだろうか。



こんな呆気なく、比較的綺麗な終わり方で、オディナさんの聖杯戦争は幕を閉じたのだろうか。



これでは──…



これでは、あまりにも“呆気なさ過ぎ”やしないか。




「……………」



…いや、聖杯くんや、オディナさんが言っていたセイバーさんの件がまだ残っている。セイバーさんには、裏切る気なんてなかったと聖杯くんは言っていた。現段階においてオディナさんが死んだ目をしながら「殺し合うしかない」と言わしめるに至ったセイバーさんの行動を、私はまだ把握出来ていないのだ。


…オディナさんの最期を見に行こう。まだ、消えてしまっていなければの話だけど。


ケイネスさんの後を追うように外を出て、オディナさんとセイバーさんが戦っていた場所に向かう。既に剣と槍がぶつかり合う音は消えており、廃墟特有の不気味な静寂を取り戻していた。



「──っ?!」



どうして。何があって、こんなことになったのか。
目に飛び込んできた光景は、あまりにも信じ難く、そしてあまりにも残酷なものだった。



そこには血涙を流しながら己の左胸に槍を突き刺しているオディナさんが、呆然とした顔で血に染まる地面を見詰めていた。