羊飼いの憂鬱 | ナノ
ディルムッド・オディナの過去編一幕が終了したところで明るくなった場内は、相変わらず不気味なほど静かだ。

聖杯くんがオディナさんの記憶を纏めている間、私は彼から新たに貰ったお茶を啜りながらひたすら待つことしかすることがなかった。これから見ることになるオディナさんの「ランサー」としての最期について考えたところで気が遠くなるだけなので、朝ごはんはどうしようだとか、ギルガメッシュさんのご機嫌のとり方は何がいいかとか。普通の、ありふれたことを考えることに必死になっていた。
現実逃避に努めている私の隣で、聖杯くんは一定のリズムでこつこつとこめかみをつつきながら、鼻歌を歌っている。端からみればリラックスしているようにしか見えず、本当に記憶を纏めているのかどうかはじめのうちは疑わしかったが……彼のもう片方の手にいつの間にか握られていたフィルム──映写機に入れるやつだ──の量が少しずつ増えていることに気付いてからは、彼に対する苛立ちは幾分か消え失せ、待つ時間をひたすら思考に費やすこととなったのだった。聖杯くんの力であれば一瞬で終わらせることが出来るような感じはするが、突っ込んだところで「こういうのは過程が大事」とか言ってきそうだ。今の聖杯くんの体の持ち主だった人は、そういう演出とか芸術的な観点に対してうるさい人だったのかもしれない。実際のところは知らないが。



「そうそう、名前ちゃん」

「…っ……何でしょう」

突然声を掛けられたものだから、危うくお茶が気管に入るどころだった。


「今回見せる記録は見せらんないシーンがごろごろ転がってるわけ。だから人物に黒靄かかってたり声変わってたりするかもしんないけど、そこらへんは大目に見てよね」

「一応規制はかけたけど、パッと見しかしてないからさ…さっき言った通りオレが直接名前ちゃんのフィルターになるかも」と聖杯くんは続けた。今まで私を待たせていた時間は規制をかける為に編集作業をしていたものだったのだと気付く。…事前にやっておけよという文句はさておき。


「…見たいと言っても見せてはくれないんですよね」
「そりゃあ、見せたくないから隠したのに見せるわけないじゃん。さっ!時間もかなり押してるし、ちゃっちゃと最後まで見てもらわないと折角のオレの努力がパーになっちゃうから」



聖杯くんはそうまくし立てると指を鳴らして再び場内の明かりを消し去った。時間が押しているのは間違いなくお前の自業自得である、と思ったが、時間が削がれたお陰でオディナさんの過去の一部が見れずに終わってしまうのは避けたかったので黙っておくことにする。

彼が持っていたフィルムは、いつの間にか姿を消しており。


「真実はとことん隠すに限るよね」と独り言つ聖杯くんの言葉は、男の怒声とティーカップが床に叩き落とされる音で私に聞こえることはなかった。




***




「──えーと、すいません状況整理の時間をとっても構いませんか?」
「ああ、いーよ。多分わかんないとこあると思うし」
「この金髪の人…」
「ケイネス・エルメロイ・アーチボルトくん」
「ケイネス…さん、が誰かに何かを盗まれて、召喚したい英霊を呼べなかったから…その英霊の代わりとしてオディナさんは召喚された、っていう流れでいいんですか?」
「そう!ケイネスせんせーは英霊召喚に使う大事な大事な聖遺物を生徒に盗まれたんだ。だから急遽代用の聖遺物を用意して、ディルムッド・オディナを召喚した」



……召喚された理由からして既に同情せざるを得ない状況である。

沢山の本に囲まれた一室の中、ケイネスとかいう気難しそうな男はオディナさんを忌ま忌ましそうに見つめていた。何故召喚したてのサーヴァントを親の仇とでもいうかのように憎々しげに見ているのかは、魔術のことなどさっぱりぽんな私でも分かる。


「…この女の人はケイネスさんの恋人ですか」
「ああ、この脂肪多そうな感じの女は婚約者。ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ」
「…婚約者………」


そのソラ何とかさんは、先程見たグラニアさんと同じ目でオディナさんを見つめ、そして事あるごとに話し掛けていた。オディナさんは居心地が悪そうに受け答えしては、時折ケイネスに申し訳なさそうな視線を向けている。


……今回は婚約者を魅了してしまったようだった。



「見て見てこの三角関係。醜い。COOLじゃねー…」
「ああ、こういうのはお嫌いですか」
「この体の持ち主がね、こういうドロドロは好きじゃなかったっぽい」


オディナさんは何故過去に学ぼうとしないのか。
繰り返される愛憎劇に呆れた目でスクリーンを眺めていれば、「無知ってとんでもないくらい罪だよね」と聖杯くんが口を開く。


「どういう意味ですか」
「そのまんまの意味。名前ちゃん、ディルムッド・オディナの持つ魔貌は確かにオソロシイものではあるけど、完全に効くわけじゃないんだよ。今のアンタがそう」

彼は私の首元で小さくも大きく存在感を示す宝石を指でつついた。

「英雄王から貰ったその可愛い可愛いアクセサリーのお陰で呪いは通じてねえ。道具で呪いを防ぐ方法がそれね。その他にもう一つ呪いを防ぐ方法がある。わかる?」
「いえ…」
「自身の魔力で呪いに対する──……何て言ったら分かりやすいかな。……んっと、そう、防壁を張るんだよ。そうすりゃ呪いはかからない。あと、これは蛇足だけど…サーヴァントはそれぞれ一定のステータスってのを持ってるわけ。んで、そのうちのセイバー・ランサー・アーチャー・ライダーが対魔力スキルを保有してて──」
「あー、ちょっと待って下さい話がややこしくなってきた」


私の制止の声に対し、聖杯くんは呆れたような、虫けらを見るような、明らかに人間に対して向けるべきではない視線を寄越す。そんな目で見られても、スキルがどうだのとサーヴァントの話をされても舞い込んでくる情報量が膨大なお陰で整理がつかない。
今私が知りたいのはオディナさんが放つ魅了の防ぎ方の方法であり、サーヴァントのステータスとやらは、今は知らなくてもいい。


「聖杯戦争やサーヴァントとマスターについてのあれこれはギルガメッシュさんかオディナさんに詳しく話していただきます。それでいいでしょう?」
「……まあ、そんなに時間もないからいいか。ちゃーんと話聞いといてよ?
…とにかく、ある程度魔力を持ってりゃ女であれ呪いは防げる。ソフィアリ家は幾つも代を重ねて魔術師として優秀な能力を継承してる。まあ、この子は後継ぎの関係でそんな高等な魔術を使うまでには至らなかったわけだけど」
「じゃあこの人は自分から魅了されにいったってことですか?…婚約者がいるのに?」

抵抗する間もなく魅了され、婚約者を二の次にしてしまうなら分かる。呪いを防ぐ術を持たないのであれば、魅了されてしまっても仕方のないことだと渋々納得するしかない。
だが、自ら進んで魅了されに行くのなら話は別問題だ。婚約者であるケイネスが不機嫌になるのは当然で、オディナさんの存在が気にくわないと感じるのは当然の流れである。


「ディルムッドは忠義の道を歩む為にサーヴァントになったってのにさ、初っ端からこうも三角関係の仲にまで発展しちゃうだなんて思いもしなかったと思うよ」

「いやぁ、偶然が重なるって嫌だよね!」とにやにや笑いながら自らの体を抱き締める聖杯くんは、舞台の語り手としてならさぞ観客の興奮を引き立てたことだろう。他人の不幸が濃いものになる度に口角が吊り上がる聖杯くんに、私はただただ白い目で見詰めることしか出来ない。


「三人のギスギスした関係が分かったところで、それじゃあ次は聖杯戦争の内容に移ろうか」


彼は両手で指を弾く。小気味の良い音が辺りに響いた。


スクリーン越しのオディナさんは、この時はまだ──生前と同じ程とは言えないが──ちゃんと目には正気が宿っている。“まだ”私の知っているオディナさんではなかった。
召喚当時、多少雰囲気は悪くとも彼は傷付いてはいなかったのだ。

次に映るオディナさんも、目の輝きは失っていないといい。スクリーンに夢中になっている私は、劇場が少しずつ茨に侵蝕され始めていることなんて、これっぽっちも気付くことが出来なかった。