羊飼いの憂鬱 | ナノ
聖杯くんが指を鳴らす。


それは、このまがい物の心象風景世界の崩壊を行う行為だったらしい。私達が片手に持ったジョッキ以外の物や建物、人はすべて一瞬のうちに消え失せてしまった。後に残ったのは、私とにこにこと愛想よい笑顔を貼り付けた聖杯くんの二人だけ。目覚めた当初と同じく、ただただ暗闇が存在している。あんなにも騒がしかったのに、今は無音がそこかしこに転がっていた。



……随分と、寂しい世界になってしまった。


そんな、無限に孤独が広がる世界を欠片も気にしていない隣の人でなしは、一度ジョッキを煽ってから私に微笑みかけてくる。


「じゃあ、いこっか。ディルムッド・オディナの過去を知りたいんだろ?」
「………ええ、まあ」
「名前ちゃんの為に、超COOLな場所創ってやったんだぜ。さぁ、こっちこっち!」

ジョッキを持っていない手を引かれ、明かりのない暗闇を歩く。聖杯くんの手は冷たくもなければ温かくもない。ある筈の体温がなかった。やはり、人間に似せても完全なものになることは出来ないらしい。なんだか弾力性のあるゴムに捕まれた感覚だ。当然、彼の手を振り払って入口も出口も存在しない空間を走る気もないので、転ばないように小走りで彼の歩幅に合わせることにした。

何も見えない道を進む。聖杯くんはどこかで聞いたことがあるような鼻歌を歌いながら、迷わずどんどん進んでいく。彼は恐怖なんていう感情を何処かに置いてきてしまったらしい。


「もうちょいしたら見えて来る、筈……あ、ほらあそこ」

聖杯くんが、すっと無駄な肉の付いていない人差し指を左へ指した。つられてその方向に顔を向ければ、ぼんやりとした紫色の光が微かに見える。こんなにも黒に染まっていたなら、あんな遠くにある明かりでも、すぐに気付く筈だ。やはりこの世界はおかしい。左に進路変更し、紫の明かりを目指して再び歩き始める。


そういえば…今は、何時だろうか。
ギルガメッシュさんはラーメンを食べた後、どうしたのだろう。ゲームでもやってたりして。…あの人は私とオディナさんの諍いなんて、小さな石ころと同価値だと思っているだろうから、オディナさんに声を掛けている…なんて可能性は零に等しい。期待もしてないし、もし仮にギルガメッシュさんが私とオディナさんの仲を取り持とうとしていたならば、それは間違いなく天変地異の前触れだ。世界の崩壊が近い。


「…おい…おーい?…名前ちゃんだいじょぶー?ちょっと休憩しよっか?ジュースでも飲んでさ」
「あ、いえ…大丈夫です」

「そう?ならいいけど」






今までずっと歩いていたのに未だ息切れはしていない。
遠い道のりだと思っていた距離は、考えていたよりも短かったようだ。距離感が掴めないのは少し歯痒さを感じる。

どんどん近付くにつれて見えてきた紫色の明かりは、電灯だった。それと深緑の古臭い扉。縦に長い銅色の取っ手は、扉同様古臭い。ところどころ錆びついていて、もの悲しささえ感じられる。


「ハイ、とうちゃーく。お疲れー!」


繋がっていた手を離した聖杯くんは、私に自分のジョッキを寄越すとその扉を何の躊躇もなく、勢いよく開いた。聖杯くんの背中越しから中を見つめれば、若干薄暗いものの、レッドワインの床、モノクロームの壁が広がっているのが見える。ようやく黒以外のものが見えたことに、思わず溜息が漏れた。…聖杯くんもカラフルな色合いの髪色と服装ではあったが、これは私を不安にさせる不安材料でしかない。

そこそこ規模のある室内は、やはり無人だ。先程のようにがやがやと騒ぐ人もおらず、受付、レジ、飲食物の販売コーナーらしきものが点々と存在するのみである。
ゴーストタウンに行ったらこんな感じなのだろうな、とぼんやり思った。


「…名前ちゃんは映画館何度か来たことある?」
「…数回ならありますけど。此処は──」
「そっ!映画館!映画館なら特大画面であんな記憶こんな思い出、全部見れるからさあ。当時の記録を映画館で振り返るとかCOOLじゃねえ?」


今の聖杯くんはCOOLかCOOLじゃないかで動いているらしい。どんな判断基準だ。


「映画館といえば無駄に高い食い物だよなぁ?ってわけで、オレちょっと何かテキトーに買ってくっからさぁ、名前ちゃんは先にシアタールームん中入っててよ」
「……えっと、」


見渡せど、巨大スクリーンがありそうな場所も部屋も見当たらないのだが。

困惑の表情を浮かべた私に、聖杯くんは「あ、やっべ」と言いそうな顔をした後、少し薄汚い靴の爪先を二度床にトントンと軽く慣らすような動作をした。すると受付の奥に見える壁が一瞬にして消え去り、奥へ奥へと続く長い廊下がぼんやり見える。


「えーっと……二番!二番シアターだから!間違っても他のとこ入っちゃダメだよー?」
「はぁ…」


何故無駄にほいほい入らない部屋までおっ建てたのか…。部屋一つしかねーとかCOOLじゃねーだろ!とか、彼にとっては死ぬほど重要な、だが私にとっては死ぬほどくだらない理由かもしれない。
わざわざ尋ねるのも面倒なので、私は指定されたシアタールームへ向かうことにした。新しく出来た廊下に足を踏み入れ、二番シアターとやらを探す。受付のあった部屋と同じくレッドワインの床、モノクロームの壁が続いているそこにはちらほら扉が存在していた。各扉には、小さく番号が書かれている。なるほど、これがシアタールームの番号か。表示するならもう少し見やすく表示して欲しい。あまり目によろしくない構造だ。


「…………」


両手は私と聖杯くんのジョッキで埋まっているので、背中で扉を押して入ることにする。軋む音もなく開いた扉の中はとても薄暗い。まあ、映画館なんて大概こんなものか。

しんとした場内に私の足音だけが響く。巨大スクリーンが、私を静かに迎え入れてくれた。こんなたかだか一時の為だけに創り出されたスクリーンに軽く同情しつつ、赤いシートに覆われた座席が並ぶ通路を歩く。映画が一番見やすい場所はやはり最後尾中央だろう、と奥まで進み、大体真ん中の席を陣取る。ドリンクホルダーは丁度ジョッキの置けるサイズだったので、とりあえずそこに置くことにした。席の確保は出来た。あとは聖杯くんの到着を待つのみである。




「…………」




………私はどうしてこの状況に馴染んでいるのだろうか。
無意識に手すりへ頬杖をつき、聖杯くんの帰りをリラックスしながら待っている自分に今更ながら気付く。本当に今更だ。環境の変化に直ぐさま適応することが出来るのは、それだけ生き残れる力があるということだ。だが、慣れ過ぎるというのも如何なものだろう。摩訶不思議な環境での慣れは、人としてどうなんだ。


私の知ってる世界に、今の私は存在していないのだ。私の肉体と精神は、聖杯くんの創り出した世界に存在している。有り得ないことなど有り得ない世界で、さして驚くこともなく存在している。思考はきちんと追い付いているし、聖杯くんの話にもいつも通りに受け答えしていた。いつもの私だ。いつもの通りの自分。
これが大河さん……いや、大河さんは普通の人間じゃないから無し。遠坂さん…は魔術師だった。パス。……セイバーさんは言わずもがなだ。…………魔術の「ま」の字も知らずに生きている、友達も恋人もいて毎日が楽しく過ごしているごく普通の女子高生が、今の私の状況下に突然置かれたとしたなら。知り合いもいない、暗闇の中で一人きりなんて。きっと驚いて慌てふためき、これは夢なのだと思い込むか、最悪発狂してしまうかもしれない。聖杯くんが現れるまで馬鹿みたいな心のポエムを綴っていた私は、普通のカテゴリーに入るには些か異常に走り過ぎたのかもしれない。神経が図太いと見方を変えればまた結論も変わってくるだろうか。


「────………」


いや…聖杯くんに魔術回路を埋め込まれ、聖杯くんの加護とかいう得体の知れないものに守られ少しの怪我では死なない体になった時点から、私は異常のど真ん中に立っていた筈だ。


左手の甲に浮かぶ赤色の刻印を見つめる。

……こんなもの、呪いをかけられてしまったも同然だ。



どうして私なのだろう。



自堕落に、何となく生きていた所為か。切嗣さんが死んでも尚、生を望み続けている所為か。目的を見出だすことも出来ずに毎日汗水垂らして働き生きている人もこの世にはゴミのように溢れているだろうし、死んだ人間が甦ってくれはしないかと願う人間だって、世界に何千何万とだっているだろう。恋人であれ家族であれ友人であれ、当人にとって大切な人であったなら、そのような願望を持つのは当然のことといっていい。普通の人と同じ感情と思考を持っている筈の私が、どうしてこんなところにいて、正体不明なまがい物の人間を待っているのだろう。


答えの見付からない問いに脳を回転させていれば、橙色の頭がゆっくりした足どりでこちらに向かって来ていることに気が付いた。両手にはポテトやホットドッグ、ポップコーンがのせられたトレーが。最後尾までやって来た聖杯くんは、トレーを私に押し付けて隣へ座った。ポップコーンを一つ二つ摘みながら私を小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。


「なーに考えてたの?どうせ名前ちゃんのことだからくだらねーことでしょ。何で自分が此処にいるんだとか、さっさと帰りたいとか」
「まあ…そんなところです」
「言われなくても用が終わったら帰すって!場合によっちゃオレが帰す前に迎えが来るかもしれねーしさ。気楽に、COOLにいこうよ、名前ちゃん。さ、熱々のホットドッグでも食って!」
「……迎えってどういう──」


私が尋ねる前に、場内の明かりが全て消え失せた。突然舞い戻る暗闇の中、聖杯くんは「ほら、始まるみてーだから。静かにしようぜ」と人差し指を自身の鼻先に当てる。今のタイミングは絶対にわざとだ。答えるのがただ単に面倒臭かったからはぐらかしたのか、私が知ると厄介なことになると踏んだからはぐらかしたのか。どちらにしろ聖杯くんは答えることをしなかった。静かにしてディルムッド・オディナの過去を知るべきだと。そういうことか。


「……あ、多少グロテスクな表現と個人的に名前ちゃんが精神ダメージ喰らいそうなシーンは…どうしよっかな…オレが直接アンタに手のフィルター施すとか副音声にしたりとかするからよろしくー」
「……はぁ」


……聖杯戦争中の出来事なら、きっと血飛沫や体の一部がぱっくり開いているシーンが流れても仕方ない、だろう。そこは何となく理解している。だが、人の腹に触手のようなでろでろを突っ込むような奴に配慮されても今更感が漂うだけだ。当の本人はポップコーンを音を立てながら食っていた。


「……あの、聖杯くん」
「ん?」
「見てる最中…ポップコーンだけは食べるのやめてくれませんか。鬱陶しいので」
「えー?いいじゃんかよ、別にィ…」


……言い方を間違えた。


「COOLな行為には思えないのでやめてください」
「ったく、仕方ねーなぁ!
……じゃあ、はじめよっか」


最後に一粒だけポップコーンを摘んだ彼は、両手を叩いた。今宵しか使われることのない巨大スクリーンが、嫌なほど見覚えのある美丈夫を映し出す。

最大観客動員数は二人のみの、はじめでさいごの上映会が幕を明けた。