羊飼いの憂鬱 | ナノ
野原から城下街までえんやこらと歩かされ、辿り着いたのは真昼間だというのに酒を飲み、ぎゃあぎゃあと騒がしい酒場だった。映画でしか見たことがない程、外人で溢れている。よそ者が立ち寄る雰囲気ではなかった為に自然と入口前で立ち止まる私だったが、聖杯くんは「大丈夫だから」と強い押しと笑っていない笑みで促され、そのままカウンターへ行くよう顎で指図してくる。不本意だが、今の私には彼が全てだった。こんなところで置いてきぼりにされたら、どうなるか分かったものではないからだ。



「ふう………まあ、心象風景っつってもね、ぶっちゃけるとこれ本物じゃねーの」
「…?」

「ディルムッド・オディナの記憶を情報源としてオレが創った即席の心象風景…に似たようなものなんだよ。すげーっしょ!オレ!超COOL!!」
「………『聖杯』と名が付くだけありますね」


満席に近いテーブル席に比べ、カウンター席にはあまり人がいなかった。席に着くなり、聖杯くんは拳を振るいながら笑顔で話し掛けてくる。どうやら座って話せる場所が欲しかったようだ。野原ででも話せただろ。何でこんな落ち着かない場所を選んだんだ、聖杯くん。

彼は私の近くに寄ってきた店主らしき彫りの深い男ににっこりピースすると、男は私達をじろじろ眺めることも、異国の者だと奇異な視線を向けることもなく、ただ一度頷いて奥に引っ込んで行っただけだった。一体何をしたのだと疑問の含んだ目で聖杯くんを見ても、当の本人は「名前ちゃんは心象風景って何か分かる?どうせ分かんねーよな!そんなんでこの先生きていけんのー?」と腹が立つ話し方で話を振ってくる。「心象風景」の意味自体は概ね理解できるが、きっと魔術の世界で使われている「心象風景」の意味を尋ねているのだろう。そんなもの知るわけないだろ……。後でギルガメッシュさんにでも訊こう。答えてくれるか分かんないけど。


そうこうしている内に、奥から戻ってきた男は二つの木彫りのジョッキ──一つは小さく、もう一つは大きい──を持ってきた。彼は無言で私に小さい方を、聖杯くんに大きなジョッキを置くと、目の前で皿を洗い始める。
……ああ、さっきの聖杯くんのピースサインは注文か。てっきり「俺達異国人でーす!イェー!COOOOL!!」とでも主張しているのかと思った。今の命知らずな聖杯くんのテンションならやりかねない。
恐る恐る彼が注いだであろうジョッキの中身を見れば、赤黒い液体がたんまりと注がれていた。何かの血液をそのまま採ってきたのかと思うくらい、赤黒い。なんかぷつぷつ浮かんでるし。



「なに、どうかした?」
「いえ…」


……果たして口を付けても大丈夫なんだろうか。

かなりグロテスクなそれに、だいぶ気分削がれてしまった。これはいけない。

静かに、そっと。目の前にあるジョッキを自分から引き離してから、別のことを考えることにした。気分転換というやつだ。まあ、転換出来るほど幸せな話題も嬉しい話題も持っていないのだけど。


…城下街に入ってからずっと疑問に思っていたが──……店主や周りで酒をがぶ飲みしている民間人は、私と聖杯くんを異国の人間だと気付かないんだろうか。客は酒場に入ってきた私達の侵入をがん無視したまま酒盛りを続いていたが、店主は私と聖杯くんの前にそれぞれ飲み物を置いた。何故だ。気付かれていないのに気付かれているなんて、ちぐはぐだ。この空間を生み出したのは聖杯くんだから、彼の都合の良い創りになっているのかもしれない。

ご都合主義の世界というやつだ。言わば、この世界の神は聖杯くんということになる。

なんてとんでもない世界に来てしまったのだろう。話をする為の場所なんて、別段どうでもいい。あの暗闇の空間で要点だけ聴いてとっとと帰ってしまいたかった。


危険度がレッドを通り越しているブラック飲料水に目を落としながら、適当に無難な相槌を打っていると、聖杯くんからやや不満げな声が上がった。ちらりと視線を向ければ、ジョッキを片手にむくれ顔の青年が私を睨んでいる。


「テンションひっく!アンタは今有り得ない世界に存在してるんだぜ?こんな奇跡、並の人間じゃ味わえねーよ?もっと楽しもうって、この瞬間をさぁ!」
「…いや……」
「え?なに?」
「………キャラが違うもんで反応しづらいんですよ」


初めて会った時はもっとこう…なんか…ふざけた感じの雰囲気を漂わせつつも不気味さと尊大なオーラを持っていた筈だ。それが人間形態へとフォルムチェンジしてからは、はっちゃけ具合が凄まじい。この不真面目な姿が真の姿とでもいうのか。


「んなわけないっしょ。この体は第四次聖杯戦争に参加してたマスターの体を借りてるだけ。体借りたらそいつの性格や口調っつー情報が取り込まれるから、こうなっちゃってるわけ。オーケー?」
「………オーケー」
「…そういや、さっきからそれ飲んでないみたいだけど、見た目と違って良いらしいよ、味は。えーっと……ここらへんで生えてるベリー系のフルーツをミックスしたやつだから結構甘い…と思う。情報では美味いって評判っぽい。血みたいにキレーでいいだろ?」
「……私ヘマトフィリアじゃないです」
「よくそんな言葉知ってんね…まぁ、今のオレの体を持ってたこの人間も、そこまでの性癖は持ってなかったっぽいけどさ」


そう言って聖杯くんはジョッキを呷る。
………「ものは試し」という言葉もあるし、一口くらいは飲んでおこうか。この世のものとは思えない味がしたなら聖杯くんにいちゃもんでも付けてやればいい。そっとジョッキに口をつけ、微量の果汁を舌で確かめてみる。



……………。



「……どーよ?美味い?」
「………科学調味料なしでここまで甘く出来るもんなんですね」
「近代はどばどば体に悪いもん使ってるって言うしねぇ…美味いと言えば美味いけどやっぱ違うんだよ。自分が人を殺すのと人を殺すのを見てるぐらい違う」
「生憎殺人罪を犯したことはないのでその例えは分かりません」


なんなんだ、さっきから血だの殺すだの物騒なことばかり言いやがって。この聖杯くんの体の持ち主はとんでもなくいかれた野郎のようだ。何故そんな危険人物の体を借りたのか。


「初めて飲んだけど案外美味いね。……ほんじゃ、そろそろ本題いく?」
「!」


手の甲で口を拭った聖杯くんは遂に私を呼び出した本来の話を持ち出した。やっとか。


「…ディルムッド・オディナも言ってた通り、アイツは前回の第四次聖杯戦争でマスターや同じ信念を貫く好敵手だった敵サーヴァント、そのマスターに傷付けられたみたいでさぁ…魂に付く筈のない疵が付いちゃったワケ。ったく、参るよ。どんだけメンタルよえーんだって話じゃん?」
「………」
「んで、オレはソイツの魂がそのままの状態で『英霊の座』にいられることにちょーっとばかし困ってた。十年前からずーっとね。何百年から続けられてきた、今のお巫山戯な聖杯戦争とは大違いの正式な殺し合いによる聖杯戦争──第六次聖杯戦争はもう出来そうにねーから、どうしようもないし…」


饒舌なほど、今まで溜めてきた鬱憤を晴らすように聖杯くんはべらべらと話し続ける。もしかしなくとも、聖杯くんに友達と呼べるものはいないのだろう。


「んで、虎聖杯をかけた擬似的な聖杯戦争が行われている中での話。虎聖杯に培われた力によって──…大部分があのバカみてーな結界による作用だと思うけど……あのオレの力が及ばない範囲内で、本物の聖杯が現れた。前回の聖杯戦争の監督役がすぐに回収したからおとなしく傍観側にまわってさ、見てたよ。レース。そしたら──」


男にしては細くて長い指で、すっと私を指差す聖杯くんは話を続けた。


「──ただの人間にしては愚かな願望を抱きながらも、それを封じ込めて、自分の幸福を犠牲にして周りを救う自己犠牲型で日和見者の、聖杯戦争の参加者と数多くの接点を持つアンタが現れた。その時こう思ったよ。コイツを聖杯戦争に参加させれば面白いものが見れるんじゃねーかって。その時ついでにディルムッド・オディナを召喚させれば、あの壊れかけの魂をどうにかすることが出来るんじゃね?ってさ」
「………第五次聖杯戦争では無理だったんですか?」
「あー……うん。ほとんどのマスターが触媒使ってきたからねー。唯一触媒なしで召喚してきた人間もいたけど、あんな不幸な女の元にいさせると悪化するとしか考えらんなくて」
「……」


詳しい話を聞いてみれば、魂の疵を「直す」ことは出来るが、聖杯くんの力をもってしても完璧に「治す」ことは出来ないらしい。…精神的なものによるものだからかもしれない。体の傷は時間が経過すれば治るが、心の傷は長い年月を経過しても治らないものもある。

見た目に反してオディナさんは超が付くほどの紙メンタルだったらしい。



「要約すると名前も顔も知らない誰かの尻拭いを私がしろってことですか。私に何か利益があるんですか」
「わっかんねーかなぁ?だーかーらぁー、名前ちゃんの初恋のヒト、生き返らせればいいじゃん。きっとあの調子でいけば聖杯はまた出現する。アンタは初恋のヒトを生き返らせることが出来る。その代償にちょーっとオレの頼みごとを聞くだけだからさ。聖杯は万能だから、生き返らせる以外にも幾つかオプション付けても簡単に叶えてくれるって!」
「死者を生き返らせたらそれこそギルガメッシュさんに殺されます」


聖杯グランプリ後の時だって、「死んだ人にもう一度生を与えるなんて真似、出来るわけないよね」という意見の一致で私は今こうして五体満足で生きているのだ。今更そんな真似したらあの人のお怒りメーターは爆発する。


そう言っても聖杯くんは「そんな小さいこと気にしてんの?」とジョッキを口に付けながら言う。何が小さなことだ。こっちは生きるか死ぬかの二通りしかないというのに。


「大丈夫だって!今アンタとディルムッド・オディナの体にはオレの加護があるからちょっとやそっとじゃ死なねーもん!」
「もん、じゃないです。………まあ、オディナさんには色々迷惑かけてしまったし…私が出来る範囲のことなら少しくらいやっても──」

「マジ?そう言ってくれると思ってたぜ、名前ちゃん!別に聖杯への願いは死人を蘇らせる以外でも全然構わねーしさ。考えとけばっつー感じでよろしく!



……きっと聖杯は監督役に回収されるから、前言った通り嫌でも戦争に参加しなきゃならなくなると思うけど、さ」


完全に私が利を得るには、あくまで今後行われるであろう聖杯戦争に勝利するしかない旨を一言付け加えた聖杯くんはニタリと嫌な笑みをつくった。
ずる賢い野郎だ。こいつは冬木のマスコットをやめて悪徳商法の道にでも走った方がやっていけるのではないだろうか。

まあ、なんにせよだ。オディナさんが「英霊の座」に戻るには、今ある魂の修繕が行われ、本物の聖杯を懸けた聖杯戦争が終結しない限り無理そうなのは話を聞いて薄々分かっていた。どっちみち聖杯くんのお望み通りに動くことは最早必然といったところだ。つまり聖杯くんが私を呼び出した理由は、オディナさんの現状報告と私に聖杯戦争への参加を釘打つ為、と見て間違いなさそうだった。


「……聖杯くん、一つ質問が」
「何?」
「オディナさんの疵はどうやったら治すことが出来るんですか?あと、何がどうなって疵が出来たのか…具体的な説明が聴きたいんですけど……」
「!…良い質問だね。オレも言おうと思ってたとこ。今のディルムッド・オディナがディルムッド・オディナでないことを含めてね」

「…………」


突拍子過ぎる彼の言葉に、頭で言葉を理解するのに時間がかかった。


「そんなに驚くことじゃねーと思うけど。名前ちゃんだって思い当たる点があんじゃねえ?召喚されてから今の今まで、何かしら変化があったでしょ。気性が荒くなっていったとか、言うことを聞かなくなったとか」
「……確かに心当たりは多少なりともありますけど…あれが素じゃないんですか?」
「……この説明をするにはまずディルムッド・オディナがどんなヒトだったか知らないとね、名前ちゃん」


ジョッキを持てと促され、言われた通りに持ったと同時に、聖杯くんは飄々とした表情で指を鳴らした。