羊飼いの憂鬱 | ナノ
「何かあったら連絡だぞ!」と釘を強く打ち続ける衛宮と、その横で神妙な表情を浮かべる少女に軽く手を振り、見飽きた通りをゆっくり歩くことにする。


魔術師、サーヴァント、マスター、聖杯戦争。


一面夕暮れに染まった空と、もう暫くすれば沈んでしまう半円になった真っ赤な太陽に目を細めながら、先程の話を改めて振り返ってみる。どれも現実感に欠けて信じられないものばかりだ。衛宮が幼少の頃──といっても小学生からだが──からの知り合いでなければ、こんな話に耳を傾けることはなかっただろう。衛宮が義父である切嗣さんに魔術の修行をつけてもらっているのを近くで見せてもらっていなければ──………いや、でもあれだけ馬鹿正直な衛宮が言う話なのだから、見ていなくとも信じていたかもしれない。

少し寂れたアパートの階段を上がり、懐から取り出した鍵を鍵穴へと差し込んで右に九十度回す。かちゃりと小気味の良い音が鳴った。


「遅かったではないか、贋作者の話は終わったのか?」


……………。


「王である我の問いに答えぬとは無礼極まりない雑種よ。本来ならば打ち首どころの騒ぎでは収まらんが……今は赦そう。何故なら今の我は庶民王だからな!庶民は雑種どもを死に至らしめる程の罰など与えん」
「……教会に戻ったんじゃないんですか」
「暫く戻らんと伝えに行っただけだが?」
「えっ、ってことはすぐに戻って此処にいたんですか」
「此処は今日から我が寝食を行う場所だぞ?己が腰を落ち着けるべき場所で寛がぬ者が何処にいるのだ」


まぁ、こんな家畜の小屋など寛ごうとも寛げんがな。


そう付け加えた不法侵入者は見下すように鼻で笑った。

じゃあ帰れよ!っていうか、此処で寝るのかよ!自分の家(教会)で寝ろ!そっちの方が断然居心地良いだろ!!
そう思ったが言い争うのも不毛──というか、面倒極まりない。私がああだこうだ反論を述べても返ってくるのは理不尽な言葉だろうというのは、目に見えている。
ソファーに足を組みながら偉そうにしている古来の王を横目に、懐に仕舞っていた財布をテーブルに置いて椅子へと腰掛ける。

温かいコーヒーを淹れて一息つきたいところだが、金色の人がそれを許す筈もなく口を開いた。


「しかし、貴様変わっているな」
「……?」
「初対面ともあろう我を二つ返事でと招き入れるとは思わなんだ。もう少し喚き立てると思っていただけに拍子抜け過ぎだ。下らん戯言を聞かされる手間が省けたのは我としては都合がよかったがな」


理不尽な宣言から即刻異議申し立てされるとは内心思っていたらしい。


「ああ……衛宮の知り合いだっていうし…なんか、面倒だったんで」
「……面倒だと?」
「怒って喚いてもどうにもならなそうだし。追い出すことに躍起になって余計な体力使うのも疲れるので」


衛宮に述べた理由も、言えば彼が納得しやすいものを選んだ思い付きだ。
「どうでもいい」と言えば、衛宮はきっと私の気持ちに関係なくこのサーヴァントを追い出そうと躍起になることは何となく分かっていた。
「正義の味方になりたい」と豪語する彼にとっては当然のことだろうが、それが迷惑というか、無理矢理干渉されるのが嫌で仕方がない。
あそこは衛宮にとっての長所であり、短所だろうと思う。

「どうでもいい、面倒臭い、とかなりの堕落を満喫している……はっ、小賢しいほどに怠惰を貪り食っておるな、貴様は」
「厄介事が嫌なだけです」
「心底日和見者のようだ。ただの傍観しか出来ぬ哀れな雑種よ。…そういえば貴様の名を聞いていなかったな。名は何という」
「……苗字名前」
「とりあえず頭の隅に置いておいてやるとしよう。十年前の言峰程ではないが、少し貴様には興味が湧いた」


興味なんか湧かんでいい!
思っていたことが顔に出ていたらしく、目の前にいる金髪は幾らか口元を崩して私を嘲笑う。

あー、だめだ。ここで反応すれば奴のペースに乗せられるだけだ。


「……えーと…とりあえず何てお呼びしたらいいですか。庶民王?」

そう尋ねると、今まで人を見下す顔から少し思案するような顔付きに変わる。
どうやらそんなことを尋ねられるとは思ってなかったらしく、彼は長くて汚れを知らないような指を口元に当てると少しの間唸りはじめた。

「ふむ……そうだな。本来ならば英雄王たる我には敬意と畏怖を込めた敬称を用いるべきだが、今の我は庶民王だ。それ相応の庶民的な称を付けろ」
「……ギルガメッシュさんでいいですか」
「……まあ、それでよい」

ギルガメッシュさんは何故か得意げな顔──どや顔を浮かべる。

「庶民は庶民でも我は庶民王だからな。此処では我のいうルールに従ってもらうぞ」
「……はぁ…」
「朝昼晩の飯は作れ。それと、庶民が耽る享楽の心得を教えろ。……麻婆豆腐は作ってくれるな」
「えっ」
「何だ、不満不平は聞かんぞ」
「…今日の晩飯、麻婆豆腐にしようと思ってたんですけど」
「………」
「………」


沈黙。



「………ならんっ!ならんからな!!もうお腹を痛くするのは嫌だ!」
「…あっ、はい」

急に若干涙目になり駄々っ子の如く嫌だ嫌だを繰り返すギルガメッシュさんに、私は頷くことしか出来なかった。
今まで踏ん反り返ってばかりだった彼が「麻婆豆腐」という単語だけでこのような有様になってしまったのだ。余程のことがあったんだろう…そっとしておくことにする。


──こうして。偶然、それともこうなることは必然だったのか。はたまた運命だったのかは分かりもしないが。
私とギルガメッシュさんの庶民王の庶民王による庶民的な同居生活が幕を開けたのだった。