羊飼いの憂鬱 | ナノ
瞼を開くと、そこは暗闇だった。



「────……………」



その暗闇は完璧だった。誰かが至極丁寧に、床も、天井も、視界に入るもの全てを塗り潰してしまったのかと思ってしまうくらいに、黒で覆われていた。ふつう、夜道だって視界は良くはないが、道路なり付近の建物なり見える筈だ。それなのに、「此処」は本当に黒しか存在しない。

──黒以外の色を忘れてしまったとでも言うように。

……などとこの場の様子を詩人めいた言葉で表す余裕がまだ私にはあったらしい。きっとギルガメッシュさんによる突拍子な行動に幾分か耐性が付いてしまったに違いない。ゆっくりと立ち上がり、辺りの様子を確かめる。


何処だ、此処。


私が倒れ込んだベッドは。枕は。アパートは。冬木市は。

オディナさん。ギルガメッシュさんは。


一体、どこに消えてしまったのだろう。


…いや、私が消えたといった方が状況的に正解か。三百六十度見回せど黒以外に何も見えない光景に、切嗣さんを思い出す。一度も染めたことがないらしい髪に、深淵を感じさせる黒の瞳。切嗣さんならこの状況に遭遇した時、どういった行動をとるだろう。やはり見知らぬ場所なのだから暫くは何か変化がないか様子見するだろうか。それとも魔術でもばーんと使って──



「慌ててるかと思えば案外普通だね、名前ちゃん?」

「ひっ…!」


両肩に生温かい何かが置かれ、耳元で吐息混じりに囁かれる。その艶やかな声に反射的に後ろを振り返れば、私に声を掛けた正体がこちらを見て口角を歪めた。


「…なーに見とれてんの?そんなにイケてる感じに見える?」


「…………」



異性だから、魅力的に見えたから見とれたのではない。




その男は異様だった。


肌は病的なまでに白く、センターで分けられた短髪の髪色も白い。瞳も白かと思いきや、瞳の色は赤かった。ギルガメッシュさんや教会にいるランサーさんのような赤ではなく、真紅より少し薄い。今の季節を出歩くにはあと一、二枚は必要だと思わせる薄いジャケットにジーパンの格好も、言わずもがな白だ。ファッションセンスなど皆無である。どこぞのファッション評論家が見たら卒倒しそうな程の着こなし…というか、カラーリングの悪さと言った方が近い気がする。
唯一救いがあるとするならば、顔が整っていたということだろうか。女受けするであろう軽薄そうな顔は、今はにっこりとした笑顔でこちらを見下ろしていた。

人間……なのだろう、多分。この世には青い髪や赤目の人間がいるのだから。だが彼は今まで見てきた奇抜な人間の中でもかなり奇異な位置に立っていた。
黒の空間にほぼ全身を白で覆いつくした人間は、洋皮紙に垂れた一滴のインクのように場違いの存在に思える。


「どうよ?これなら名前ちゃんも怖くないっしょ!」
「………どちら様ですか」


やけに馴れ馴れしいなこいつ。
不審者を見る視線に、心外だとばかりに男は両手を広げて暗闇に染まる天を仰ぎ見る。


「オレはこんなにもアンタの為にしてやってるってのに…なあ神様、こんな酷いことがあっていいのかよォ……っつーか、マジで覚えてねーわけ?」

んなギルガメッシュさんでもやらないような全身白でコーディネートした男なんか知り合いにいねーよ。

静かに頷けば、男は不満そうにこちらを見てから、ゆっくり口を開いた。それからごぽりと音を立てて「何か」を吐き出す。


「……っ?!」

突然のその行動に、思わず数歩後退すれば、男は口から「何か」を吐き出し続けながらこちらに向かってきた。そして一歩一歩足を進めるごとに顔が、服が、足が、半分だけ徐々に溶けていく。白から腐敗したような紫に変わったそれは、男の吐き出す「何か」……「泥」となって、男の半身と同化していった。


「……ッ!」


その半身には、嫌なほど覚えがある。


逃げようと足を動かそうとすれば、何故か動かなかった。金縛りにあったかのように、地面についたまま離れない。

……この金縛りにも、腹が痛くなるほど覚えがあった。


「ねえ、この顔見ても分からない?何ならもう一度頭痛でも腹痛でも味わってもらおうかな。ショック療法ってやつだね」

男の声と、いつぞやに聞いた不快指数が急上昇してしまう高い声が重なり、喋る。私の表情を見て男──聖杯くんはまたにっこりと笑顔をつくった。

とめどなく口元から泥が溢れている為、とてつもなく汚く残念な笑顔だった。


「……聖杯」
「くんを付けてよ無気力人間。前にデパートのベンチで言ってたじゃない。ボクのこの姿は不気味極まりない、ってさ。だからこうしてヒトの形をしてあげたのに…」
「……ヒトの形してるのはいいですけど人間離れしてますよ、それ」


名前を呼んだ途端、金縛りが解かれたので視線を下に向ける。その行動が不思議に思われたのか、顔を覗き込まれた。聖杯くんを見たことがあったからどん引くだけで済んだものの、魔術と一切縁のない生活をしている一般人が対面したらSAN値が一気にマイナスに振り切れるだろう。


今の顔見てみろ。半分溶けてるから超グロテスクだぞ。


「………気持ち悪いです。半分だけどろどろとか、全身真っ白とか」
「……ああ…聖杯の器だったモノの影響かも。ちょっと待っててね…」


聖杯くんは片手を頬にあて、するりと撫でる。すると瞬く間にいつものどろどろは身を潜め、手に触れた部分からじわじわと赤みがさし、髪も白から橙色へと変わっていった。瞳は真紅から灰色寄りの黒へ。真っ白な服も上着は紫、下は紺に染まる。…上着の下は白のままだったが、この配色では特に悪い箇所は見当たらない。


「これで文句なし?」


声も男のそれに戻っている。どこからどう見ても普通の人間だ。
無言の返答を肯定と見なした聖杯くんは、大きく伸びをしながら「ヒトの形ってのも悪くねーなぁ」と呟いたあと首の後ろに手をやる。それから「そういやさぁ、」と何の表情も浮かばない顔で私と視線を交わらせた。


「オレがアンタを呼んだ理由、分かってる?」
「……オディナさんの件ですよね」
「そ。大正解!ディルムッド・オディナのことなんだけどぁ……思いの外上手い具合に話が進んでくれてこっちとしては有難いっつーか?」
「……どういうことですか」
「オレが理由もなくあんな欠陥品をサーヴァントとして召喚させると思った?」


欠陥品、って…そんな言い方はないだろう。仮にも人間なんだから。完璧な人間がいないのと同じく、欠陥のある人間なんていない筈だ。
言いたいことが何となく読み取れたのか、聖杯くんは目を細めて喉奧で笑う。


「言い方悪かった?ゴメンゴメン!人間は無限の可能性を秘めてるよ。その綺麗でみずみずしい赤い血反吐を吐きながらも何かに追い縋る姿とか、マジすっげーって思うし」
「………オディナさんを欠陥品と呼ぶ理由は」


「まあまあ、こんなシケた所で長話も味気ねーじゃん。場所変えよっか」


聖杯くんは両手を二度叩くと──



その瞬間、私は反射的に片手で両目を覆っていた。奴に何かされたのかと思ったが、「まぶしっ!」と慌てたような男の声が聞こえたのでどうやらそうでもないらしい。
原因は環境の変化にあった。

目が落ち着きを取り戻す頃合いを待って、恐る恐る瞼を開く。


すると目の前には野原が広がっていた。雲一つない青空、太陽は燦燦と光を世界へ注いでいる。蝶のつがいは呑気にその辺を飛び回り、遠くには森が際限なく続いているのが見えた。
それから……その森の前には大きな城が建っていた。日本で見られるような、屋根には瓦が使われている城ではない。指輪を巡り様々な種族が戦いに身を馳せ参じる映画や、悪の魔法使いの手から難を逃れた少年が魔法使いになる映画に出てくるような城。外国…ヨーロッパ辺りで見られそうな、洋風の城だ。城の周りには幾つもの小さな家が見えるが、いずれも日本の面影を感じる家の造りには見えなかった。わりと距離があるので細部までは確認出来なかったが。

ちゅんちゅんと何処からか聞こえてくる小鳥の囀りをBGMに立ち尽くしていると、無邪気な笑顔をつくった聖杯くんが顔を覗き込んできた。


「あんな場所よりこっちの方がいいだろ?あったけーし、明るいし」
「……聖杯くん、此処は…」
「考えてる通り、名前ちゃんの知る日本じゃないよ。



此処はねぇ…」


灰色の入った黒の瞳にほんの少しだけ赤みがかかり、ワインレッドに染まる。



「ディルムッド・オディナの心象風景。今のオレ達は、ヤツの心の中にいるわけ」


夏が近いのか、太陽が容赦なく私を照り付ける。
じんわりと滲んだ汗が、ゆっくりと頬をつたっていく。


私が踏み出した世界は、いつの間にか人間としての領域を大きく踏み外してしまっていた。