羊飼いの憂鬱 | ナノ
覚醒に数時間かかるかと思いきや、人間でありつつも人間の領域を大幅飛びで飛び越えてしまった大河さんは二、三十分という短時間で「五十、八十喜んで!」と叫びながら飛び起きた。大河さんが起きるまでやっていた夕食の準備をやめて、ランサーさんが彼女の額にのせたタオルを拾いながら大丈夫かと問えば「何が?」と尋ね返される。

…いや、「何が?」じゃなくて。


「思い切り扉にぶつかったでしょう。記憶吹っ飛んだんですか」
「ああ、アレね?あんなの私にかかれば何ともないから!ヘーキヘーキ!」

鼻血垂らして気絶もしたのにか。

いい加減自分の年齢ぐらい考えればいいのに…何年経っても変わることのない彼女の明るい姿勢には内心尊敬するものがある。

真似ようとは思えないが。


「えーと…とりあえず今ビニールに氷詰めますからそれで顔冷やして下さい。おでこに瘤できてますから。…何か飲みます?」
「名前の注いだお茶ー」
「……茶葉ないって言ったでしょ…」
「えー…じゃあジュース」
「午後ティーでいいですか」
「うん」

大河さんが頷くのを確認し冷蔵庫へ向かおうとした瞬間、突如閉まっていた居間の扉が開き、あれだけ出てくるなと念押ししていた人物がどかどかと足音を響かせながら私と大河さんの前に現れた。

「ちょっと待て!その午後ティーは我のだ!」
「! あっ!!」
「あ、ギルっちだー」
「…?!」
「道化。目覚めたか」
「んー、なんか眠っちゃってたみたいですぅ」
「………」
「どうした名前。…ああ、道化に午後ティーはやるなよ」
「何よう〜ギルっちのケーチー」

大河さんがギルガメッシュさんのスウェット姿を視界に入れた瞬間、このアパートは世紀末の世界に生まれ変わるのだとばかり思って私はこの場にギルガメッシュさんがいることを当然のこととして処理している大河さんを思わず凝視した。ギルガメッシュさんは食卓テーブルに腰掛けると、先程ランサーさんが持っていた買物袋をがさごそと漁り始める。

…あ、そうだ。私も氷詰めないと…。

冷凍庫の氷を適当に取り出した袋に詰めていると、にやにやと何か面白がっている大河さんが少しよろめきながら近付いてきた。

「何でそんなショック受けた顔してるのよ〜ギルっちが名前と暮らしてることはお姉ちゃん前から知ってたわよ?」
「え、」
「セイバーちゃんが言ってたもの」
「…そうですか」

衛宮ならともかく、セイバーさんなら仕方ないだろう。まあ、考えてみれば元々このギルガメッシュさんとの同居生活のことは誰にも言うなと釘を刺すことはしていなかったのだ。遅かれ早かれ大河さんにはバレていた筈だ。

「はい、痛いところに当てておいてください」
「ありがとう〜…って、つめてっ!でも気持ち良いかも…」
「…午後ティー出せないんで水だしますね。…で、ここにきた用っていうのは?」
「まあ用があるといえばあるし、ないっていえばないんだけどぉー」
「何ですか」

冷凍庫から封の開けていないペットボトルを大河さんの前に置くと、彼女は「市販の水をだされるなんて…」「名前には優しさがない」だの「そうやって冷たくしてもお姉ちゃん分かってるんだからねっ」などと仔犬のように喚き始めた。喧しい。本当にこの人私よりも年上なんだろうか。


「喧しいぞ、道化。こやつに用があるならさっさと申せ。そして帰るがよい。我は腹が減った」
「…うう……」

鶴の一声といったところか。買物袋を漁るのはやめて、どこから取り出したのかDSをいじりだしたギルガメッシュさんは煩そうに声を上げた為に大河さんはしょんぼりと口を噤む。流石ギルガメッシュさんだ。
先程からギルガメッシュさんの何気ないナイスプレーに少しばかり感心しながら、どこか拗ねたような表情を浮かべた大河さんの言葉を待つことにする。

先程の衛宮やネコさんのようなデジャヴュを感じたことはこの際無視することにした。


「…名前はギルっちと暮らしてて楽しい?」
「ハッ、何を言うかと思えば…当然であろうが!この我と生活を共に過ごすこと程光栄なことなどあるまい」
「……──別に、普通です」
「何ッ?!」


心外だとばかりに目を見開いて私を見るギルガメッシュさんは放っておこう。


「ギルガメッシュさん、何もしてくれないですし、ゲームばっかりで見てて疲れますけど…まあ、それなりに…」
「…そっか。名前はこの生活が好きなのね」
「好きってわけじゃ…」


好きというわけではない。

ギルガメッシュさんのお陰で電気代と食費が洒落にならなくなってきている。好きか嫌いかどちらかを選ぶとしたら間違いなく私は嫌いを選ぶだろう。…それに…昨日からまた一人この部屋で生活を共にする者が増えたのでそろそろ私は生活苦を理由に人生に幕引きをしてもいい頃合いなのだ。
私の返事を聞いた大河さんは先程とは違いさっぱりとした顔で、納得したように何度か頷き頭を掻きながら「そっかー」「うーん」と暫くぼやいていたが、氷の入った袋をぶん投げて立ち上がるなり「分かった!」と叫んだ。

私は折角患部を冷やすようにと渡した袋を投げて人の気持ちを踏みにじる行為をする大河さんが分からなかった。

「名前が言うなら仕方ない!ここは引くとするぜ!」
「……?」
「んん、セイバーちゃんから聞いた時にね、名前ギルっちに虐められてないか心配だったの。でも名前疲れてはいるけどそんな嫌そうじゃないし、ギルっちもこの部屋お気に入りっぽいし、そういうことならお姉さんは反対しませ〜ん」
「………それを訊く為だけに来たんですか?」

「ん?うん。どうして?」

何か衛宮が大河さんに色々吹き込んだのかと勘繰っていたのだが、どうやら違うらしい。首を傾げる大河さんに「何でもないですよ」と首を振り、一瞬脳裏に過ぎった衛宮の泣き顔も掻き消してから時計を確認する。

「そろそろ夕飯準備の続きしたいんで、申し訳ないですが帰っていただいても?」
「え〜」
「帰れ、道化」
「ちぇっちぇっ!名前もギルっちも冬木の虎をないがしろにして!どうなっても知らないんだからね!あ、この水持って帰っていい?」
「…どーぞ」
「わーい!ありがとっ!じゃあお姉ちゃんは帰ります!」

姉でも何でもないんだけどな。
ぶん投げた氷もそのままに、鼻歌を歌いながら玄関まで軽くスキップで歩く大河さんの後ろをだらだらついていき、靴を履く彼女の背中を見つめる。知り合った当時からほとんど変わることのない堂々としたそれは、私には持ち得ることのないものを幾つも背負っていた。


「………何かあったら私じゃなくてもいいから、誰かに言いなさいよー」
「…さっきも言われました。似たようなこと」
「名前のこと心配してるのよ、皆」
「……それじゃあ、さよなら」
「うん、またね」

赤く腫れた瘤に顔をしかめることもなく私に笑い、手を振った大河さんはそのままアパートを出て行った。騒がしくなくなったことによる安堵からか、無意識に軽い溜息がこぼれる。あの人といると活力が奪い取られている気がする。元気の塊だ。あの歳であのテンションを維持出来るのだから、きっとあと十、十五年くらいはあのままだろう。藤村大河は人間の皮を被った虎なんじゃないだろうかと言ったランサーさんの気持ちも分からないでもない。

夕飯準備の続きに戻ろう。

そう思い振り返れば目の前に私を見下ろすランサーさんが立っていた。声は上げなかったものの、思わず何歩か後退すればそれに気付いた彼は「驚かせてしまい申し訳ありません」と小さく謝罪の言葉をこぼす。

ややこしいことになったら面倒だからと大河さんが帰るまで姿を隠してくれていたランサーさんは閉められた扉をじっと見つめ始めた。

「……どうかしたんですか」
「…………この世界には私の魅了が通じぬ女もいるのだなと思っただけです」

世界中の男を敵にまわすような発言をしたように聞こえるが、それ程なまでに彼のもつ魅了の呪いは凄まじい威力を持っているということだ。仕事帰りに見たあの人だかりを見て改めてランサーさんの魅了の凄さを知った気がする。


「……助けてもらった礼を忘れていた」
「……今度大河さんの家に用あって行くんでその時にでも一緒に来ます?」
「………主が良ければ」
「別にいいですよ、それくらい」
「…感謝します」

そっと顔をこちらに向けたランサーさんと視線がかち合う。魅了の呪いをもつ黒子の存在がなくとも、ランサーさんはとてつもなく美しい顔を持っている。ギルガメッシュさんと同じか、人によってはギルガメッシュさんより美しいと言う人間も出てくるだろう。彼の美貌や槍術のセンス(実力がどんなものかは未知の世界だが、きっとその名を轟かすレベルなのだからさぞ凄いのだろう)に「天は二物を与えず」と言う諺は嘘っぱちなのだなと思わずにはいられない。


「…あ、そういえば…ランサーさんって──」
「おい、名前。飯」

本当の名前は何て言うんですか?
言い終える前に居間の方からギルガメッシュさんの夕飯を催促する声が飛んできた。くそ、ニート王め。

「……朝ご飯、食べてないですよね?」
「………ええ」
「夕飯食べますか?」
「…貴女と私の間には食事も睡眠も不要な程ちゃんとしたパスが存在している。貴女は私に何も気を配る必要はないのです。聖杯を手に入れる時や……家事手伝いの時に私を使役して下されば、私はそれで構わない。…人間扱いは不要です、我が主」
「……どう見ても人間以外のものには見えないものをただの物扱いしろと言われても」
「……それは、」



「おい、何を揉めているのだ。下らん諍いよりも我の腹を満たすことが最重要案件だろうが」

腹が減ってるならランサーさんが買ってきたもんでも食ってろ。
DSをやめたらしいギルガメッシュさんは背筋を伸ばして欠伸を垂れ流しながら私とランサーさんの間に割って入ると、彼の魔貌を見るなり何かを思い出したように彼に声を掛けた。

「貴様、明日は名前と共に柳洞寺へ行って来い」


突然の命令にランサーさんは意味が分からないというように眉間に皺を寄せ、私に視線を向ける。私も分からない。

「…どうして柳洞寺に?」
「こいつの黒子には女を魅了させる呪いがかかっているのはお前も知っているだろう?このままだとこの先こいつを使いに出せば今日のようにこいつに魅了された雑種共がついてまわって面倒になるわけだ。そしてそれは我が午後ティーを飲みたい時に飲めないことを意味する…我にはこいつの魅了が邪魔なのだ」
「私情挟みまくりじゃないですか」
「名前、お前もランサーに何か用事を頼んで外出を許可する度にアパートの周辺を雑種の巣窟にされるのは嫌であろう?」
「ああ、確かに」

今日は大河さんがいなかったら思うように動けなかった筈だ。ランサーさんも部屋に篭りきりとあっては色々ストレスも溜まるだろう。現状で既にかなり溜まっていそうだし。外出くらいはさせてあげたいが、毎回こうも女の人の大群を連れて来られるのはこの地域一帯の人にも迷惑をかけてしまう。それは避けたい。

「だからだ。貴様ら二人は柳洞寺にいるあいつの元に行け」
「…ランサーさんの呪いを何とかできる人でもいるんですか?」

そう尋ねるとギルガメッシュさんは腕組みをして最早恒例になっているどや顔を披露してくれた。

「お前にしては察しが良いではないか。柳洞寺を拠点にしている魔女がいる。そやつに──」


魅了の呪いを封じる道具を作らせるのだ。