羊飼いの憂鬱 | ナノ
無心で仕事をこなしていた最中、それは起こった。店長に指示された通り、裏で黙々と入荷した日本酒やらワインやらの搬入作業を行っている途中一緒に作業を行っていたネコさんの「ん、エミやん?」という言葉にぐるりと首を後ろに向ければ制服姿の衛宮が少しむっとした顔で私を見下ろしているではないか。

………何でここにいるんだよ。

素早く時計を見ればまだ一時半を過ぎたばかりだ。学校はどうした。そう言いたげにしていたのが伝わったのか、衛宮は「今日は職員会議で午前授業だったんだよ」と簡潔に答える。ああ、成る程……なら帰って宿題やれよ。衛宮の少し刺々した視線を無視して作業に戻ることにする。逃げたいが今は勤務中だ。徹底的に無視するに限る。真面目に仕事に取り組んでいる姿を見れば衛宮も邪魔する気など失せるだろう。私みたいなのに構ってないで勉強しろ。


そう思っていたのに。


この衛宮士郎という男、何とまあネコさんに「すいません、少しの間名前を借りても?」などと言いだしたではないか。思わず「はぁ?」と声を出してしまったが、ネコさんは「構わないよ」なんてさらりと答える。…いやいやいや。

「ネコさん私まだ勤務中です。休憩も終わりました」
「エミやんの顔つきから見てから名前ちゃんに大事な話があるみたいじゃない。エミやん、どうなの?」
「はい、そんな感じです」
「家族水入らずでそんなに話す機会もあまりないようだし、今日そんなに忙しくないし、話すなら話しておいで」
「いや、家族じゃないですし、家族だったとしても私事を仕事より優先するのは許せないというか…」

「ネコさんが良いって言ったんだ、行くぞ」

思い切り右手を引っ張られ、倉庫からカウンター、そして店の外まで引きずり出される。鍛練のお陰で腕力のある衛宮相手では仕事柄一般女性より力のある私でもその手を振りほどくことはできなかった。店から出た途端に緩んだ手を振り払うと不機嫌な顔の衛宮が振り返る。

「何で離すんだよ」
「何で繋いでなきゃならないの」
「昔よく切嗣と三人で繋いだろ」
「…今ここに切嗣さんはいないでしょ」
「………此処で話すのもなんだし、少し歩いた所に喫茶店があるんだ。そこに行こう」
「………アーネンエルベ?」

私の言葉に衛宮は意外といった表情で「そうだけど何で分かったんだ?」と尋ねてくる。…そこでアーチャーさんとお互いの苦労を分かち合ったんだよーなどと言ったら衛宮のことだから、苦労?やっぱりギルガメッシュに振り回されて疲れてるんだなよし俺が追い出してやる云々かんぬんと不要な正義感を振り回してややこしいことになるに決まっている。そういえば今週だったな、アーチャーさんとのお茶会。今日中にでも一度連絡を入れておかなければ…。

「…仕事抜けて珈琲飲むのは勘弁して欲しいんだけど。人目が気になるなら路地裏まわろう」

衛宮の問い掛けを無視すれば、彼は少し納得していないようだったが、素直に店と店の間にある狭い通路へと歩き出す。此処で店に戻っても引き戻され、時間の無駄になるだけだ。私はここで衛宮のお説教か、はたまたギルガメッシュさんについての質問の嵐に巻き込まれるかの二択の内どちらかに時間を浪費しなければならないらしい。面倒臭い。非常に面倒臭い。それならギルガメッシュさんのゲーム自慢話を聞いていた方がマシだ。自慢話を半分耳に入れながらの家計簿はなかなか捗るのである。

お互い無言の状態で路地裏へとまわり、私は壁に寄り掛かる。衛宮は少し離れて私の前に立った。お節介の塊は真剣そうな眼差しで私を見つめていたが、ふとそれは私のある一点に注がれる。令呪のある部分は包帯を巻いて隠しているのだが、やはり包帯は目立ち過ぎるみたいだ。衛宮は真剣な顔つきから一転し、心配そうな顔つきに変わる。さっきから忙しい奴だ。

「怪我したのか?」
「んん、まあ…そんな感じ…」
「まさか、ギルガメッシュに暴力振るわれたとかそんなんじゃないだろうな?!」
「それはない」


……殺されそうにはなったけど。


「そんな包帯まで巻いて…」
「あー、天ぷら揚げた時に油はねただけだから。で、話は?」
「………何で名前は…聖杯戦争に参加しようと思ったんだ…?」


直球だった。
そしていつの間にか戻っている名前呼びに自然と眉間に皺が寄るも、衛宮は真剣な表情を崩さない。


「何でと言われても…ほとんど無理矢理ギルガメッシュさんに参加させられただけだけど」
「…そうじゃない」
「……ギルガメッシュさんが日頃の私の苦労を報いてくれるっていうから成り行きで」


「……これは俺の憶測だけど。…名前はさ、」



衛宮士郎は言う。突然話し始める。私とギルガメッシュさんの会話を隣で聞いていたかのように、的確に。



…名前は、切嗣を生き返らせたかったんじゃないのか?



衛宮士郎は、言う。私の考えること全てを予測していたかのように。



「……聖杯はどんな願いでも叶えることができる。だからお前はギルガメッシュの口車に乗って、切嗣を生き返らせようと思った。でも切嗣に悪いと思って急遽違う願いを叶えるよう言った…違うか?」


違う。
そう言おうとしたが、衛宮は言葉を続ける。


「お前、本当は…昔に戻りたいんじゃ──」
「…衛宮はそんなこと言う為に仕事邪魔したわけ?」
「違う。名前、俺は…」

これ以上衛宮の下らない話を聞いているのは時間の無駄だ。貴重な労働時間が今もこうしてじわじわ減っているのだ。何か言いたそうにしている衛宮をそのままに店を戻ろうと寄り掛かっていた壁から離れ、衛宮の横を通る。通ろうとした。


「……っ?! ちょっと…」
「なぁ、名前…切嗣は死んだ。今ここに切嗣はいない。でもあの家は今でも俺達の家としてここに在るんだよ。今はセイバーや、遠坂もいるけど…良い奴らばっかりでさ…。それに、あの家はお前の家であることに変わりはないんだ。だから…アパートは引き払って家に戻ってきてくれよ……俺、ただお前に戻ってきて欲しくて…」

堰を切ったように衛宮は次々と言葉を私に浴びせる。海の底にいるかのような感覚だった。衛宮の腕の中で聞く話は、まるで絵空事のようだとぼんやり思う。肩に衛宮の頭が乗っかっている為に、服越しから彼の生温かい息があたっていた。小学生の頃とは違い、筋肉の付いた太い腕を視界に入れながら、衛宮が離してくれるのを待つことにして、私は目の前の少し小汚いコンクリートの壁を見つめる。衛宮がどんな顔をして今のことを喋っていたかなんて、私には分からない。


「…………」
「…なぁどうして何も言ってくれないんだよ…俺達、二人だけの家族なんだぞ」



……家族。家族か。





「………衛宮、覚えてる? 切嗣さんの葬式が終わって少し経ってからの話」
「……」

衛宮は無言だった。その代わりに、私にまわされている腕の力が多少緩む。少し無理矢理ではあったが体を衛宮の方へ向け、彼の顔を見上げた。多分こんなに近い距離で見るのは小学生ぶりだ。衛宮は若干怯みつつも私の顔を見返す。その顔には微かに焦りと後悔の色が入り混じっているような気がした。でもそれは私の勝手な思い込みかもしれない。


「衛宮言ってたじゃん。『名前は衛宮じゃないくせに』」
「ッ…!あれはっ…!」

「『衛宮じゃないお前が爺さんのことを訊くな』」


五年前に言われた言葉をそっくりそのまま返した途端、衛宮の目が見開き、それから焦ったようにしどろもどろに喋り始める。

「…あれは…違う、周りの人が、俺に爺さんのことばっかり訊いてきてたんだ…それで、あんなこと…言うつもりなんて…」
「私が切嗣さんのことを訊いたのがきっかけで堪忍袋の緒が切れた。だから思いがけずあんなことを言ったとか、そういう感じでしょ?…そんなんだろうとは思ってたけど…でもさ、士郎」

名前を呼んでやれば、傷付いたような表情の衛宮士郎が私を見つめ返した。軽く彼の胸に手をやり、少し力を込めて押してやれば彼は簡単によろめいてしまう。今の衛宮は枯木のように脆かった。


「我を失った時に出ちゃう言葉ってさ、深層心理の奥底で少なからず思ってることなんだよ」
「………」
「…いい加減認めてもいい頃合いなんじゃないの。…衛宮士郎の家族は衛宮切嗣ただ一人しかいない」
「…名前…」
「苗字名前にとっての衛宮士郎は友人以上家族未満で、衛宮士郎にとっての苗字名前も友人以上家族未満だったってこと」
「違う…」

弱々しい衛宮の否定の言葉をそのままに衛宮が高校に通い出してから思っていたことを一つ告げることにする。

「…それに、あの家で暮らそうとは到底思えない」
「! …何でだよ…?」
「…今あの家にはいっぱい人が住んでるじゃん。私と衛宮と切嗣さんが暮らしてた頃よりだいぶ物も増えたし、騒がしくなったでしょ。私はあの頃の衛宮の家が好きだったから、今あの家に住んでも懐かしむことは出来るかもしれないけど、きっと嫌いになる」
「…切嗣の部屋も名前の部屋も何一つ変わってなんかいないんだ…いつでもお前が帰ってくるようにって…」
「…ごめん。切嗣さんの月命日と所用以外には行きたくない」


……月命日の時セイバーさんや遠坂さんの席を外させてくれてる衛宮の優しさには感謝してるよ。

そう言えば衛宮は顔を歪ませ、そして項垂れた。泣きたいのを我慢する子供みたいに。泣かせようとしている気は全くないが、それに似ていることをしている自覚は少しだけあった。口ではああ言ったものの、確かに衛宮は私をずっと待ってくれている。決して戻るつもりなんてない私を、待ってくれている。今度は本当の家族として迎え入れる準備を、彼はしてくれていた。

「──この話はもうやめにしよう。ネコさんだけに仕事やらせるわけにはいかないから戻るよ」
「…………」
「四時半からは頼んだ。…………衛宮」



ごめんね。



顔を上げた衛宮の目からぽろりと出てきた透明の滴が、綺麗に頬を伝った。