羊飼いの憂鬱 | ナノ
「……じゃあ…行ってきます」
「うむ。今日も一日励めよ!…我の為にな!」
「あー…はいはい。…あ、ランサーさんにご飯のこと言っておいてくださいよ。食べたらギルガメッシュさんが何と言おうと麻婆豆腐作りますから」
「御託はいいからさっさと行け」
「行ってきます」
「行ってこい」

また一つ大きな欠伸をしながら、どうでもよさそうに、むしろ追い払うように手を振るギルガメッシュを白い目で見る名前は軽く溜息をつくと、扉を開けて仕事場であるコペンハーゲンへ向かって歩を進め始めた。扉が閉まると同時に鍵を右に捻ったギルガメッシュは両手を腰にあてて、仁王立ちで一人得意げに笑う。どうやら「鍵を締める」という一仕事を終えたことに対する達成感を味わっているようだった。名前や士郎、ギルガメッシュ以外の人間から言わせれば「それのどこが仕事だ」と総ツッコミをくらいそうである。ギルガメッシュは暫く玄関に立っていたが、そういえば、と思い出したように口を開いた。その顔は先程の得意げなそれでなく、面倒そうな、鬱陶しいと言わんばかりに機嫌を損ねている。

「名前が言っていたのは聞いておっただろう?何を考えて霊体になってるかは知らんが今後我に面倒そうなことを押し付けさせるような真似はするなよ」


「…………」


そう言って振り向き、睨んだ先には名前が出勤前まで気にしていたディルムッド・オディナが無表情で立っていた。ディルムッドの目はギルガメッシュを捉えていたが、果たして彼自身がギルガメッシュを見ているかは分からない。十年前、自害する直前までのあの燃えるような闘志も、輝いていた瞳も失ってしまった男は「貴様は俺が邪魔みたいだからな」と抑揚のない口調で言葉を吐き出した。それを聞いて英雄王は嘲笑を漏らし、玄関からゆっくりとした足どりで居間に戻ると彼のお気に入りであるソファーに寝転ぶ。

「分かっているではないか。確かに貴様は邪魔だ。どれだけ邪魔かというとぷよぷよでいうおじゃまぷよだな。ああ、あとサイレントヒル4でウォルターとかいう男からもらう古びた人形くらいに邪魔だ。初見の時うっかり拾ってしまってな…クリアには少々手こずった」
「……?」

聖杯から現代の知識は授かっているものの、一本のゲームソフトのシステムや名称、ましてやシナリオなんて授かっているわけもないのだが、ギルガメッシュはべらべらとディルムッドの邪魔なレベルをゲームで例え始めた。ゲーム機になど触れたことすらないディルムッドは案の定眉間に皺を寄せ、視点を定めると改めてギルガメッシュを見つめた。その目は彼のマスターとなっている名前がギルガメッシュに見送られた時のように白い目だ。

「──と、このくらい貴様は邪魔なのだが、それは先程までの話だ」

半分聞き流していたが、何やら話が進むらしい。耳を傾けると、にやにやと品の悪い笑顔のギルガメッシュは傷一つついていない指をびしりとディルムッドに突き立てる。

「貴様には名前がいないの間の世話係になってもらう」
「なっ…!」
「我的には女の方がよいが庶民は我慢をすることが多いからな。それに倣って我も我慢するとしよう。英雄王であり庶民王である我に仕えることができること、感謝するのだな。雑種」
「…俺はあの女に付き従うと誓った。断じて貴様のような英霊としての誇りを忘れ、享楽に耽るような者に従うなど──」

ギルガメッシュの鋭い眼光が彼の曇った目を射抜き、並々ならない殺気が全身を舐めるように彼を覆ったことによって彼の言葉が最後まで紡がれることはなかった。ギルガメッシュは寝転がりながら笑ったままだ。笑いながら殺気を撒き散らす様子は狂気にでも触れてしまったかのような危険な匂いが溢れている。

「おいおい、上辺だけにしても忠誠を誓った人間に対して『あの女』呼ばわりか?貴様の忠義も底が知れるなぁ」
「……っ」

どうやらディルムッドが名前に半ば偽りの忠誠を誓うところを、この男は聞いていたらしい。冷たい殺気の中、槍使いは歯を食いしばり、ありったけの殺気をこめて睨みつけたが朱い瞳の男は「聞こえてきただけだ」と言って話を続ける。

「いいか?よく聞け。名前は我の臣下なのだ。そして貴様は名前の臣下も同然…主従関係が成り立っているな。我に仕える道理は通っているであろうが!」

勝ち誇ったように言うギルガメッシュにディルムッドは少し震える手を握り締めながら、ああこいつは馬鹿なのか、と一人納得した。馬鹿、我が儘、暴君には何を言っても無駄だということを理解した。…そしてこれ以上無駄口を叩けば彼の宝具解放が待っているということも。彼の殺気がそう物語っているのだ。
仮にディルムッドが彼の宝具解放によって息が絶えることになろうとも、聖杯くんが彼に下した命令の一つである「名前と結託し聖杯を手に入れること」を果たせていない。令呪の消費も聖杯くんの許可なしにすることが出来ないのだから、ディルムッドが窮地に陥ろうとも全ての元凶である聖杯くんが介入し、その消滅を阻止するに違いない。

「聖杯くんの言葉を借りるなら貴様に『拒否権はない』、だ!」
「…………はぁ」

思わず出てしまった溜息ではなあったが、ギルガメッシュは感嘆の溜息と受け取ったのか高笑いを繰り返すばかりだ。ディルムッドは魔術師としての心得もなく、非力な一般人である名前が何故人類最古であり最強を誇るサーヴァントに対してああもいい加減な態度をとって恐怖心はないのかと少し疑問に思っていたのだが、これで一つ疑問を解決することができた。ギルガメッシュは相手の行動や言い分を自分の良いように受け取る節があるらしい。

「おい雑種…いや、臣下その二!今から我はゲームをやる!至急ジュースと菓子を持って参れ!」
「…………」
「返事はどうした」
「…………了解した、庶民王」

根っからの従者魂、とも言うべきか、長年上の立場の者に従ってきたディルムッドは内心ギルガメッシュに対する呪詛と悪態を唱えながらも頷いた。

「………果汁飲料水と甘味はどこにある」
「買ってこい。金なら…そら」

ギルガメッシュは懐から諭吉を数枚取り出すと、それを宙に放った。ひらひらと舞い落ちるそれを尻目に「アパートを出て東に七百メートル歩いて十字路を西に、二十メートル歩いた所に数字の『7』と書かれた店がある」とコンビニへの道順を説明する。

「午後ティーは『ミルクティー』でな。ああ、アルフォートは必ず買ってこい。後は適当に貴様のチョイスに任せる」
「………英雄王」
「何だ、駄々は聞かんぞ」
「この格好で買いに行っても怪しまれないのか」

この格好、とは今ディルムッドが着ている戦闘服のことだ。この時代においてこの格好は一般的でないということを理解していたディルムッドだったが、ギルガメッシュは大丈夫だと言いた気に綺麗とは言い難い笑みをこぼす。

「なぁーに、今の冬木は虎聖杯で良い具合に狂っている。冬木に住む一般人が騒ぐことなどあるまい。サーヴァント共も普通に戦闘服で出歩いておるぞ」
「…………」

聖杯戦争という魔術師の競い合いは隠れて行うべきのものである筈だ。サーヴァントも隠密行動が相応しいというのに。現在召喚されているサーヴァントどもは隠れもせず、堂々と闊歩しているなんて、一体どういう神経の持ち主なのだろう。皆が皆バーサーカーのように理性でもなくしているのか。はたまた聖杯戦争より、この世界で悠々と遊んでいるのが性に合っていると思っているのか。後者ならば、こちらとしては平和ボケしているサーヴァントを討ち取ることが出来、聖杯戦争に勝利ならびに聖杯くんの命令も果たすことが出来て一石二鳥だ。もしかすると英霊の座に戻ることが出来るかもしれない。だが苗字名前の家政婦としての責務を果たせていない。このような場合はどうなるのだろう。

「金も渡したし道順も教えた。行くならさっさと行ってこい!」

意識を思考に沈めていたが、ギルガメッシュの声により一気に呼び戻される。ディルムッドは床に落ちた一万円札三枚を拾うと玄関の方へ向かった。霊体になりたいところだが、実体化してなければこの紙幣を掴んでいることは出来ない。鍵を開けてドアノブを回す途中、ふと一言言っておかなければと思ったディルムッドは、顔だけを居間の方に向けて「英雄王」と呼びかけた。

「……何だ」
「…恨むなら俺の前に現れたそいつらが女であったことか、それか俺の出生を恨むことだ」
「…は?貴様、何を──」

ギルガメッシュの言葉を最後まで聞く気などなかった。扉を開き、直ぐさま閉めた美丈夫は外の世界をぐるりと見渡す。十年前に一度だけ来たことのある世界ではあるが、この辺りに見覚えはない。十年も月日が流れていればそこそこ町並みも変わるかもしれない。

憎くて仕方がなかった冬木の地は、時折魔力の気配を感じるものの、平和で溢れ返っている。


「…………」


一度苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたが、直ぐさま無表情に切り替えたディルムッドは札を握り締めると、ゆっくりと階段を下りはじめた。