羊飼いの憂鬱 | ナノ
明かりの消された一室で、ランサーのクラスを受け持つディルムッド・オディナは、ただただ沈黙を口にしたまま座り込み、そして考えていた。それは言うまでもなくこのアパートの一室を借りている苗字名前と、寄生虫の如くその場に居座る英雄王・ギルガメッシュのことである。

このような事態を起こした元凶と呼ぶべき聖杯くんが気配を消した後、不機嫌になったギルガメッシュを嗜めながら「疲れてるなら寝ましょう」と就寝を促したのは名前だった。旅行から休む間もなく聖杯グランプリ、新都で買い物、聖杯くんと英霊といえどもこうも立て続けに事が起きれば多少なりとも疲労は溜まるだろう。ギルガメッシュは名前の提案に異を唱えることもなく、早々と寝室へと向かった。名前はディルムッドにも寝ることを勧めたが、いかんせん名前の使うベッドとギルガメッシュの使っている布団しか寝具はない。どうしたものかと悩む彼女に、睡眠はとらずとも大丈夫だという旨を伝えた。先程ギルガメッシュから説明されたことを思い出したのか少しばつの悪そうな顔をして、一言の謝罪と就寝に対する挨拶、居間は自由に使っても構わない旨を伝えるとギルガメッシュのいる部屋へ入っていった。数時間も前の話である。数時間も前から、ディルムッドは繰り返し思考に時間を費やしていた。


苗字名前とギルガメッシュは並々ならぬ関係であることは確かだ。先程の説明でも理解していたが、何より……同じ床についているということは、つまりそういうことなのだろう──と、ディルムッドは思わず歯を食いしばる。

またこれだ、と。
自分の運の悪さは、自らを嘲笑してしまうくらいに、酷い。

何故俺は毎回それなりに関係を築いている男女の間の下で召喚されるのだろうか?
これもまた呪いの一環なのか?

誰に問い掛けたところで答えなど返ってくることはない。
名前はギルガメッシュから貰ったらしい装飾品のお陰で今はまだディルムッドの呪いにはかからずにいるが、もし何か彼女に危害が加わりその装飾品を外すことになったら。そしてその状態のまま自分を見てしまったら──…間違いなく名前はディルムッドに魅了されてしまう。
魅了されてしまったら最後、ギルガメッシュからの宝具解放が待っているのは必然となるだろう。ディルムッドの視線から見ても黄金に光り輝く彼はいたく名前を気に入っているように見えた。そして召喚された自分に対してひどく嫌悪感を抱いていることは考えずとも分かる。
名前から無理矢理装飾品を奪い取り、魅了させて、怒り狂ったギルガメッシュに引導を渡らせてもらうという手もあるが、果たして聖杯くんが自分を英霊の座へと戻してくれるかが分からない今、そのような無謀なことは出来そうになかった。
名前を殺せば多少なりとも事は上手く運べる可能性もありそうではあるが──…と、考えたところで、思考が停止する。


「…………?」


今、自分は何を考えたのだろう。彼女は仮にも自分の主である。そんな人間の息の根を止める手を平然と考えた自分の歪んだ思考回路に、一瞬息が止まった。
自分の考えたことが信じられなかったのだ。主を謀殺するなど、自分が望んだ願いではない。それなのに、名前を殺すという手が浮かぶなんて、自分ではない何かがさも自分に摩り替わったような。自分らしからぬ考えに、ディルムッドは思わず手で口を押さえる。激しい動悸を落ち着かせるように、軽く深呼吸を何度か繰り返し、目を閉じた。



「────……、」


今の自分は、少しおかしかった。きっとこの状況に、自分でも気付かない内に気が動転していたのだ。冷静さを失えば自分らしからぬ思考に走ってしまうものだ、と言い聞かせる。
幾らか気分を変える為に、ディルムッドは窓辺に近寄ると閉め切られていないカーテンから見える月を眺めた。
自分の生前から変わらずにある月は、相も変わらず美しい。

暫くそれを眺め、自身の輝かしくも苦い記憶を思い出し、少し落ち着きを取り戻したところで思考を再開させることにする。
長年培ってきた観察眼から安易に読み取ったことだが、どうも名前が前の主のように聖杯戦争に異常な執念を持っていないように見えた。だからこそ、聖杯くんと名乗る、聖杯とはまた少し違うモノが令呪とサーヴァントを与える理由が謎だった。いや、理由としては充分に色々と聞かされているが、それが真の目的といえるかはまだ断言出来ない。

それに「家政婦」として、苗字名前の家事手伝いをしながら彼女を聖杯戦争の勝者へ導けという聖杯くんからの命。

これは苗字名前をこちらの道へと誘い込む為の餌だと見て違いないだろう。違いないだろうが…とディルムッドは美しく整った顔を歪ませる。自分は主君に対する忠誠を誓い、忠義を立てる為、戦う為にサーヴァントとなり召喚されることを承諾したのだ。断じて主人の召使いになった覚えはない。ただ騎士としての誇りをかけて戦うつもりで聖杯戦争に参加する決意を固めていたのに、そんな簡単なことでもどうやらこの聖杯戦争という戦争の中では、騎士として戦うことは難しい道らしい。


何故、どうして、俺は──……


冷蔵庫の鈍い機械音が聞こえる中、ディルムッドは唇を噛み締めた。彼女を誘い込む為にの餌だっただけだと思っても、彼には騎士を召使い紛いの存在として扱われるのは堪え難い行為だったのだ。


………どうしていつもこうなるんだ…。



***




「……おはようございます…我が主」
「っ!…お、おはようございます…」

大きな欠伸をしながら居間に入ってきたマスターに挨拶をすれば、瞬時に手で口を覆い隠して挨拶を返される。ディルムッドは苦い表情で洗面所に行く名前の後ろ姿をまじまじと見つめた。その瞳に温度はこめられてなどおらず、無機物(モノ)を眺めるようなその目は冷酷ささえ感じさせる。



ディルムッドが一人孤独に思考の海へと飛び込んでから、月は沈み、太陽がゆっくりと顔を覗かせた頃。思考の波に全身を委ねたその後──…彼は諦めに似た感情を持ち始めていた。彼は思考の限界を超えた一種の悟りの境地へと辿り着き、若干憔悴しきった顔で、最早これは自分に課せられた運命なのではないかと思った。そう思わなければやってられないと、半ば自暴自棄の気持ちも少なからず含まれている。実際、本来なら記録されて消える筈の記憶が昨日のことのように鮮明に残っていれば、ディルムッドのような常に冷静沈着で慎重に物事を見極める騎士であってもあまり余裕を持つことが出来ないのは当然のことといえる。

聖杯くんに契約の破棄を禁止とされた以上、それなりに尽くせばならないだろう。騎士として、そして……不本意ではあるが、家政婦として。

騎士道を重んじ、それから元来彼の性格や気質から、彼は命じられたことに対しては真摯に従おうという気持ちを彼は無意識に持ってしまっていた。それ故にこうして潔い…とはあまり言い難いが、一つの決断を自らに下すことにする。
眠気眼で冷蔵庫を漁る名前に近付き、「……主、」と呼びかける。そうすれば、名前は少し遅れてディルムッドの方を振り返った。


「…主って私のことでいいんですよね?」
「はい。……一晩考えさせていただいたのですが、お話しても?」
「あ、はい。どうぞ」

いそいそと寝癖を撫で付けながらディルムッドの前に正座をし、見上げるその顔にはまだ眠気が残っていた。

「聖杯に契約の破棄を認められないこの状況、どう足掻いても私は暫く貴女と時を過ごさなければならない運命の下にあります」
「…はぁ」
「英雄王はお気に召さないらしいが、貴女が聖杯戦争への戦いの目的を見出だすまでの間…私が此処に身を置いても許していただけますでしょうか」
「……仮に私が拒否したとしてもどうしようもないと思うんですが」
「…それは、」
「此処にいるのは全然構わないですよ。こればっかりは私にはどうしようも出来ないですし…テキトーな理由つけて聖杯戦争に参加して聖杯掴めたらいいんでしょうがそれは聖杯くんが許してくれなさそうだし…」


でも聖杯に叶えてもらいたいだけの願いとかないんですよね。

名前が聖杯を求めていないという推測は間違っていなかったようだ。名前は、硬い表情のままのディルムッドの顔を見上げると「ランサーさんには申し訳ないですが、暫くは冬木に滞在させてしまうことになりますね」と申し訳なさそうに話す。こうなってしまっては最早腹を括るしかないだろう。

「……騎士たる者、試練だと思えばどうということはない」
「…そうですか」
「あの化け物に命じられた通り、この身は貴女に聖杯を手にしてもらう為に、そして貴女の生活を手助けする『家政婦』として…このランサー、貴女と共にあり続けることを誓おう」


それは美しかった。
この世のものとは思えない程の美麗な顔を持つ男が胸に手を当て、恭しく頭を下げ忠誠を誓う様子は美術館で飾られている絵画のような、一枚の絵としてそこに存在していた。それを見た名前は少し居心地悪そうに身じろぐと「あの、」と口を開く。

「何でしょう、我が主よ」
「そんなに畏まらなくても…」
「…ですが、」
「暫く同じ屋根の下で暮らすのに、そこまで硬くなられたら困るといいますか…」
「………」
「…とりあえず今は、この話はここまでにして…今日仕事なんで準備してきていいですか?」
「っ! 貴重な時間をとらせてしまい、申し訳ありません」

頭を下げるディルムッドに適当に返事をした名前は駆け足で居間を出ていった。槍兵はその様子を無表情で見つめる。名前が忠誠の言葉に大した反応を返さなかったことに対して、ディルムッドは何とも思っていなかった。前の主が自身を騎士として見てはくれなかったことで、今回もそうなる可能性があると、覚悟はしていた。

前回の聖杯戦争の場で騎士という誇りをナイフでずたずたに切り裂かれたそれが心的外傷となってしまったことにより、彼は心から主君に忠誠を誓おうなど元より欠片とも思っていなかったのだ。

「…………」

名前が忠誠の言葉に大した反応を返さなかったことに対して、ディルムッドは何とも思っていなかった。──いや、「思っていない」のだと「思い込んでいた」。微かに、怒りと憎しみ以外の感情には希薄になってしまった心は、その二つ以外の感情によって悲鳴を上げていたのだ。

「………」

ディルムッドは唇を真一文字に結ぶと、そのまま空気と溶け合うようにその場から姿を消した。