羊飼いの憂鬱 | ナノ
いつの間にやら時は過ぎ去り、聖杯グランプリ開催前夜。衛宮邸はどこかぴりぴりとした雰囲気で、いつもとは違いかなり居心地が悪くなっていた。居間のテーブルに全員が集結していても、誰も話そうとはしない。この原因は半分以上が凛から凄まじいプレッシャーが放たれているからだ。遠坂家当主として、何が何でも聖杯を、と言った凛はここ一週間ゲームセンターに通い詰めてはカーレースのゲームをやり込んでいたが、果たしてそれは明日のカーレースに役立てることが出来るのかと言われれば些か答え難い。対する士郎は幸いなことに、セイバーが騎乗スキルを保有している為にこれといった対策はしておらず、毎日やっている鍛練程度のことしかやっていない。ライダーもセイバーと同等のスキルを持っていた為にいつも通り読書に勤しんでいた。あとのサーヴァントとマスターがこの一週間何をしていたかは士郎には全くもって不明瞭ではあったが、それとなく対策や細工などに励んでいたのだろうと思うことにした。
お茶を飲んで一息ついた凛は「衛宮君」と士郎の姓を呼ぶ。その顔は仏頂面で、その表情は般若を連想してしまう程だ。あの大河ですらも小さく縮こまってお茶と茶菓子を食う始末である。桜とライダーはいつも通りその場で寛いでいたが。

「な、何だ…遠坂…」
「あの金ぴかには言ってないでしょうね」
「なっ!言うわけないだろ、言ったら失格なんだから!そういう遠坂こそうっかり漏らしたりしてないだろうな?!」
「当たり前でしょー?!言うわけないじゃない!」
「衛宮士郎が心配する気持ちは多少理解できるな──おい、っ、私をっ、叩くのはっ、やめろっ!」
「ギルガメッシュが参加したら正直ぶっちぎりで一位とっちゃいそうだよな………念のためギルガメッシュが今何してるかきいてみようか?」
「…?どうやって?」

アーチャーを叩く手を止めて疑問符を浮かべる凛に、アーチャーがぼそぼそと名前のアパートにギルガメッシュが居座っていることを耳打ちをする。そうすれば一瞬驚いたものの、すぐに仏頂面に戻った凛はこの場にいない名前に同情を送った。

「電話…は怪しまれるな。急用な時だけしか使ってないし…」
「衛宮士郎、それなら私がかけよう」
「……アンタが?」

士郎はアーチャーを少し睨むが、至って彼は涼しい顔でそれを受け流す。
少し前に(大変、本当に仕方なく、不本意で)名前の携帯番号を教えたけれども。こいつにをあまり名前に関わらせたくないな、ともやもやする気持ちを士郎は持っていた。

「私には急用の場合にしか電話はしてはいけないという縛りもないから怪しまれないと思うが。何か個人的な問題でもあるのかね?」
「…………いや…じゃあかけてくれ」

アーチャーはふっと笑って懐からスマートフォンを取り出すと、電話帳から名前の名前を探し、電話をかける。少しの間コール音が続いていたが、ぷつりと切れて名前の声がアーチャーの鼓膜を擽った。アーチャーにとっては冬木にいる数少ない常識人であり、そして日頃理不尽な要求を叩き付けられている者同士気も合うので名前の声が聞くと自然に笑みが零れる。

「久しぶりだな、私だ。……ああ、……君も元気そうで何よりだ」

ごくりと誰かが唾を飲む音が聞こえる。いつの間にか凛と士郎の会話に入っていなかった人間までもがアーチャーの声に聴き入っていた。

「…急にすまないのだが…もし君さえ予定が合うなら今週か来週辺りに珈琲でも飲みにでも行くのはどうだろうと思ってね…ああ、この間の…そうだ。…ああ」

「…長いな」
「我慢しなさいよ」

目の前で繰り広げられる名前との約束の取り付けに成功しているアーチャーを見て士郎は苛々と小さな声で文句を垂らすのに対して、凛は白い目でそんな彼を窘める。

「……ああ、では来週の水曜、昼に君を迎えに行こう。…こちらこそよろしく頼む……む、そういえば英雄王とはどんな調子だ?君をこき使っていないか心配なのだが」

さりげない話題のすり替えに「こいつ、出来る…!」と思わず感心する士郎と「やるわねアーチャー!」と己のサーヴァントを褒める凛の姿に多少やれやれと少し呆れた笑みを零すアーチャーは、名前の言葉に数回相槌を打ってまた二言三言話をすると会話を切り上げた。

「で、どうなの?」
「ゲームに熱中しているようだ。この調子だと気付いてはいないみたいだな」
「…よし。……でも名前には観客席の方で応援してもらいたかったわねぇ」
「ですがナマエに言えばどこかでギルガメッシュに漏れてしまう虞があります……一緒に暮らしてますし」

セイバーの言葉に一同うんうんと頷く中、「な、何だってー?!」と驚く声が一つ。振り返ればわなわなと震えた大河が白い顔でこちらを見ているではないか。桜とライダーも知らなかったようで──まあこれは仕方ないことではあるが──大河程ではないが驚いて目を瞬かせている。

「名前がっ、ギルっちとっ、どどど同棲っ?!」

「あー…藤ねえだけには知られたくなかったのに…恨むぞセイバー」
「アーチャーの気遣いが徒労に終わったわね」
「す、すいません…つい…」

「こらぁーっ!何をこそこそ話しておるかーっ!!士郎がセイバーちゃんにとられちゃったのはまあ今は許してるけどっ!名前をギルっちがとるのは許してねーぞっ!!?っつーか何で一緒に暮らしてるんだ!っ!!私にはっ!分からんっ!!」
「…名前は藤ねえのものじゃないぞ…」
「うるせーっ!名前は私のもんだーっっ!!断じてギルっちのもんじゃねぇー!!」

とか言ってる割には結構避けられてるじゃんか、アンタ。
そう言うも彼女の耳には届いてないらしく、ごろごろと床を転がり始めた。ぎゃーぎゃーと喚く大河に桜が落ち着いて下さいと懇願するも大河は涙を流して名前の名を呼ぶだけだ。子供の鏡になるべき教師がこれでは生徒には確実に悪影響が及ぶだろうが、学校ではしっかりと教師という職を全うしているのだから何か言うことなど出来ないに等しい。
体は大人でも心が子供ではろくでもない人間になるということを、この不様な光景を見ている将来に生きるべき士郎と凛、そして桜にとっては良い教訓になっているのかもしれない。
三人白い目で大河を見下ろし、それから誰からともなく視線を合わせる。


どうしたらいいかな遠坂。

そんなこと私にきかないでよ、士郎。

このまま放っておけば泣き止むんじゃないですか、先輩。

……それが最善策だな。


無言で視線を交えて同時に頷くと、「明日は頑張るぞー!」「明日の為に早く寝なきゃだわ」「レースクイーンのお仕事頑張らなくちゃ」などとわざとらしい声音を出しながらすごすごと退散していく。それを見ていた三人の英霊も軽く目を合わせると黙って居間を出て行った。
一人残された大河は泣き腫らした目をごしごしと擦り、ずびずびと鼻を鳴らす。一度「うわーん」と喚いてみるが効果はあらず。誰も相手にしてくれないことを悟った大河は、自分も明日は生徒らと同じく大仕事があったことを思い出すとティッシュで鼻をかんでから体を引きずるように玄関へと続く廊下へと歩いて行く。

先程言っていたセイバーの言葉を頭で反響させ、自分にはあまり懐くことのなかった少女を頭に浮かべた。切嗣が健在の頃はよく彼の後を追いかけていたのが印象的で、自分が切嗣と話しているとじっと私のことを見つめていたっけと、遠き日々を思い出し、少し笑い声を漏らす。もしかしたら切嗣がとられてしまうのかもしれないとどこかで警戒していたんだろう。幼い子供がよくやる行動だ。
話し掛けても人見知りが激しいのかあまり話してはくれず、今では昔と比べれば話すようにはなったものの、極端な接触は避けているのか、中学の頃に肩代わりしてもらっていたアパートの家賃代を払いにくる時と、大河の祖父であり藤村組の初代組長の藤村雷画が顔を見たいと言わない限り姿を見せることはない。そんな名前があの金ぴかと同棲なんて一体全体どういうことだろうか。あの金ぴかはなかなか性格が強情であるから、何か名前は弱みを握られているのかも……。
幼い頃から見守っている身として、姉として、ギルガメッシュとの同棲生活によって名前が苦しんでいるか否か確かめる必要がある。
とりあえずは明日のカーレースの司会、実況を片付けてからだ、とどこから出したのか分からないが、竹刀を手にした大河は玄関を出て、それの先を月に向けると「待ってろよ、名前!ギルっちぃ!」と叫ぶ。
その数分後部屋から出てきた士郎に近所迷惑だと叱られるのは言うまでもなかった。