羊飼いの憂鬱 | ナノ
衛宮邸に戻ると、この家の主人であり己のマスターである士郎がいつもの笑顔でセイバーを迎え入れた。少し頬を紅潮させながら挨拶をする彼女の後ろには巨大な風呂敷が、そしてその手には見たことのある小さな手提げ鞄がぶら下がっている。あれは名前が小さい頃使っていた物だ、と数年名前と寝食を共にしていた士郎は気付く。セイバーは士郎の尋ねたい雰囲気を感じ取ったのか、鞄を士郎の目の前に突き出し、「ピラフを分けてもらいました」と幸せそうな顔で言った。成る程と納得し、心の中で名前にお礼を言い、とりあえずは朝ご飯でも食べようかと言えばセイバーは目にも留まらぬスピードで靴を脱ぎ、居間に駆けて行った。



***



「……ご馳走様でした。早速ですが報告です、シロウ」

今日は自分以外に人がいなくて良かった、と思いながら箸を茶碗の上に置いてこちらを見つめるセイバーを見つめ返す。
桜は部活の為学校へ、大河もその部活の顧問であるので同じく学校、凛は所用があるからと出かけて行き、真面目な雰囲気をぶち壊そうと目論む人間は誰一人としていない。

ごくりと固唾を飲み込み、セイバーの言葉を待つ。何もなければいいと願っていたが、この表情から読み取るにどうにも不穏な状況のようだ。眉間に皺が寄るのを感じながら、話をするよう促してやる。

セイバーはこくりと頷いて、名前の所へ行ってからのことを全て話し始めた。ゲームまでの下りは許容範囲なのか名前とギルガメッシュがわいわいとゲーム一つではしゃぐ姿を想像し、少しばかり和む士郎だったが、一つの寝室で寝ていることを知るやいなやその顔は不機嫌、とはまた違った何とも表現しがたいそれになる。困ったような、焦ったような、怒ったような、それを全て混ぜた表情を浮かばせ、士郎は溜息をつく。

「……そんな気はしてたんだ…」
「とりあえず英雄王には鉄拳を加えて私とナマエで一晩共に過ごしました」

セイバーと一夜を過ごした名前を少し羨ましく思い、名前は危機感がないわけじゃないんだけどな…と頬を掻く。元々警戒心が薄いわけではない。むしろ高い方だ。だがそれは自分の──衛宮士郎に関わることとなれば若干薄くなってしまう。
自分を信用してくれているのは分かるから嬉しいけれど、と昔の彼女を振り返り、今ではある特定の時にしか浮かばせないあの暗い表情と冷たい目を記憶から掘り出して再度溜息をつく。ギルガメッシュがセイバーに付き纏っているというのも後押ししてしまっているのだろう。自分に興味なんてさらさら湧くなんてことは有り得ないと。しっかりしてくれよ名前、相手はあのギルガメッシュなんだぞ。今ここにいない名前に心の中で泣き言を言ってみるが、頭の中に浮かぶ名前は無表情でそっぽを向くだけだ。想像の中でも面倒臭そうな態度をとる名前に士郎は思わず涙目になる。

「………そして…ここからが問題なのです」
「……問題?」
「ギルガメッシュはナマエに虎聖杯を与えようとしているようです」
「ギルガメッシュが…?」
「建前としては臣下として報いてやらねばならないと言っていましたが、本音としてはどうだか。彼女が混沌に巻き込まれる様を見ていたいだけに決まっています。やはりあいつは信用出来ません」

きっぱりと断言するセイバーに同調して士郎は考える。

もし名前が聖杯に願いを託すならば、それは何だろうか。

何にも執着心がない名前が唯一追い求めるものといったら。それは間違いなく自分達の面倒を見てくれた男に違いない。今はもう死んでしまった男を思い、士郎は拳をきつく握る。
自分の憧れである彼──衛宮切嗣は数年という短い月日ではあったが、名前と自分を可愛がり、愛情を込めてくれて育ててくれた。今はもう昔の話ではあるが、名前にとっては──勿論士郎にとってもだが──かけがえのない日々だった。切嗣が死んだ後の名前は士郎以上に気を沈め、中学に上がると同時に藤村組を頼りに今のアパートに行き、所用や切嗣の月命日以外には衛宮邸には寄り付かなくなった。自分のことを「士郎」ではなく「衛宮」と呼ぶようになり、「名前」と呼ぶと僅かに眉間に皺を寄せるから士郎も「苗字」と呼ばざるを得なくなり。切嗣がいなくなってから名前はどこか雰囲気が変わってしまったのは勘違いではない、と士郎は考える。

聖杯は万物の願いを叶えてくれる。男一人の命を再びこの世に蘇らせることなど容易なことだろう。


もし、名前が願いを託すなら。
それは衛宮切嗣の復活以外に考えられない。


「もし仮に名前が切嗣の復活を願うとしても聖杯はあの虎聖杯だからなぁ…」
「タイガが黒幕とはいえ油断は出来ません。一度この冬木市が災厄と混沌の渦に巻き込まれる寸前の事態になったことですし」

マーボー大好き外道神父によって冬木が混沌の世界に生まれ変わるところを阻止したことはそう前の話ではない。あの時は色々大変だったなと苦虫を潰した表情を浮かべる。前は小さな願いを叶えることしか出来なかった虎聖杯が今や一つの市街地を危機的状況に追いやることが可能になっているのかと、そのこと自体が不思議でたまらないと士郎は思う。

「虎聖杯自体が進化してるってことか…?」
「でしょうね…まあ、タイガですから」


『まあ、タイガですから』
虎聖杯の謎全てが片付けられる魔法の呪文の一つだ。流石藤ねえ、常人じゃねえな。思わずげっそりとした顔になる士郎の耳に玄関の方から「ただいまー」と聞き慣れた声が届いた。


この話はひとまず終わりにしよう。


無言でお互いに頷き、セイバーは注がれたお茶を口にする。
士郎は「お帰り」と大きく声を出しながら玄関に行けば、靴を脱いでいた凛が迎え出た士郎に「はい」と封のされた手紙を渡してくる。反射的に受け取り、宛名を見るが自分の名前が記されているのみで送り主の名前は何も書かれていない。

「誰からだ?」
「綺礼からよ。こんな朝っぱらから呼び出されたから何かと思えばこんな紙切れ寄越して追い出すんだから、何考えてんのかしら」
「まあまあ遠坂…手紙の内容は見たのか?」
「家に帰ってから読むように言われたの。だからまだよ」
「へぇ…」

靴を脱いだ凛はコートから若干くしゃくしゃになった手紙を取り出すと、勢いよく封を開ける。その手つきから腹の虫の居所が良くないことが窺えた。飛び火がこないように士郎は黙って封を開け、そして簡素に書かれた手紙の内容を読んで目を丸くする。

「『第五次聖杯グランプリ』…?」
「…えーと…なになに…『聖杯を求めし七人のサーヴァント、マスターよ、再び集結すべし。これまでの聖杯戦争の結果や過程を踏まえ、今までにない平和な聖杯戦争を行いたく、第五次聖杯戦争を生き残った諸君らにはカーレースで勝敗を決めてもらう所存である』……何だこりゃ」
「聖杯戦争への招待状、ってことかしらね」

カーレースって。何でさ。
殺しもなく平和的なのは正義の味方を目指すこちらの身としては有り難いのだが。しかし何故にカーレース。これには凛も疑問に思ったのか「何でカーレースなのよ」と唇をへの字に変えて文句を零す。

「もっとマシな競技があったでしょうに…ま、聖杯を手に入れられる機会が出来た以上やるしかないわね」
「っていうか…またやるのか聖杯戦争…いいのか、こんな短期間でぞろぞろと…」
「虎聖杯の所為で色々狂ってんのよ、多分………あら?何かここに小さく書いてあるわ」
「ん、どこだ?」
「ほら、ここよ、ここ」

凛の指差す箇所を確かめ、士郎は自分の持っていた手紙の右端に小さく書かれた文章に顔を近付かせて読み上げる。

「…『ギルガメッシュには黙っておくこと。告げ口をすれば即失格』。まあ理由は言わなくても分かるな」
「…そうね」

ルールの「ル」の字も知らぬ存じぬで通す暴君には秘密裏に事を進めたいらしい。ギルガメッシュが介入すれば目茶苦茶な事態になることは彼と関わったことのある人間ならば分かるだろう。
そもそもカーレースという時点で騒ぎを聞きつけた彼が途中参加してきそうな気はするのだが。そこの辺りは言峰が何とか画策しているのかもしれない。

「開催日は…一週間後か」
「…一週間。充分ね」
「何がだ?」
「何、って…準備を整えるのよ。それ以外に何があるっていうの?」
「準備って何かすることあるか?」

士郎の問い掛けに凛は手紙を手の中で丸めながら答える。

「運転に決まってるじゃない」
「運転?!おい、遠坂。俺達まだ高二だぞ?十七だぞ?!運転免許だって持ってないのにそんな──」
「聖杯がかかってるのよ。アーチャーに任せるのもいいけど自分でやりたいの、こういうのは。……とりあえずちょっと小腹が減ったわ。何かつまめる物とかある?」
「……ああ、あるよ」

凛に居間へ向かうよう言い、もう一度手紙に目を通すことにする。よりによってギルガメッシュが何か思惑を抱いている時に限って本物の聖杯の出現とは、彼の幸運Aは本物なのだろう。
絶対にギルガメッシュに聖杯を賭けたカーレースのことについて知られてはならない。そして虎聖杯を手に入れるようなこともあってはならない。ここ数日は名前とギルガメッシュの様子に気を配ることにしようと考えていた士郎は、居間から自分の名を呼ぶ声に返事をして台所の方へ向かった。