羊飼いの憂鬱 | ナノ
激しい電子音を鳴らす携帯のアラームを止めて、名前はゆっくりと起き上がり、あまり開いていない瞼を両手で擦った。相変わらず寒い。今日こそ火燵を出した方がいいかもしれないと考えていたところ、ふと視線を感じる。顔を上げれば、床に正座をしたまま名前を見つめるセイバーの姿があった。セイバーが既に起きているとは露ほど思っていなかった名前は、慌ててベッドの上で姿勢を整える。
セイバーは既に寝巻からいつもの白いブラウスに青いスカートへと着替えていた。どうやら名前が起きるのを待っていたらしい。

「おはようございます、ナマエ」
「お、おはようございます…」

起こしてくれればいいのにと思ったことが顔に出ていたのか、セイバーは「快眠しているところを邪魔するのは気が引けたので」とだけ言って立ち上がる。

「昨日から今日にかけてお世話になりました。あまり長居するのも申し訳ないので私はこれで失礼します」
「え、もう帰っちゃうんですか?」

てっきり朝ご飯を食べてから出るのかと思っていた名前は、少女にもう少しくらい居ることは出来ないのか尋ねる。だが、少女は首を横に振ると口を開いた。

「シロウに言われているのです。個人的には納得し難いのですが、ナマエの冷蔵庫を空にする前に帰って来いと」
「…あー……はい」
「それに──」

報告しなければならないことも幾つかありますから。

そう言ったセイバーの顔には眉間に皺が幾つも寄せられている。夜の公園で何があったのかを知らない名前は、そのような表情を浮かべるような原因なんてあったっけかと記憶を巡らせる。ギルガメッシュと一緒の部屋で寝てたのがそんなにもまずかったのかと、少し焦る気持ちを抱いた。

「衛宮に言うんですか?」
「…?」
「そんなにまずかったですか?だってギルガメッシュさんですよ?ギルガメッシュさん、セイバーさんのこと大好きじゃないですか。セイバーさんのことが好きならどこをどう間違えたって私に手を出すなんてことしないと思うんですけど…」
「ああ、それですか。ええ、きっちり報告させてもらいます」
「………はぁ」

面倒臭いなと溜息を吐いた名前は、聖杯に頼る程度の願望を持っているのだろうか。セイバーは暫く名前を見つめていたが、その視線に気付いた名前と目が合うとゆっくり顔を近付ける。戸惑い、焦った表情を浮かべる名前の耳元で「英雄王には気をつけて下さい」と、居間にはギルガメッシュがいるからと気づかれない程度に声のボリュームを下げながら囁く。

「……ギルガメッシュさんにですか?」

真面目な話らしいと判断した名前も声の大きさを最小限に抑えて疑問を飛ばす。

「ええ。あれは貴女にとって悪魔のようなものです。誘惑の言葉を囁かれても、どうか惑わされないで」
「……セイバーさんにならともかく、ギルガメッシュさんが私を誘惑とか天地がひっくり返っても有り得ないと思います」
「いえ、遅かれ早かれ奴は貴女に一つ問いを投げるでしょう………『一つだけ願いを叶えるなら、何を願う』と」
「…………まあ、気をつけておきます」

頷いた名前を見て、これで少しはひとまず安全だと判断したセイバーは名前からゆっくり離れると、一度お辞儀をして寝室から出ようとする。それを止めたのは名前の声だった。振り返れば、ベッドから下りた名前が「ピラフ持っていきませんか」と尋ねる。セイバーは少し、ほんの少しだけ迷ったが昨日食べたあのピラフの味を思い出し、直ぐさま返事をした。そうすると名前は少し笑って部屋から出て行く。

それを見て、一瞬だけ思ってしまう。
親も兄弟もなく、友人と呼べるべき人間は一人だけのこの少女に何か願うことがあるとするならば。
叶えてやっても良いのではないかと。

そう考えた瞬間、甘い誘惑をかける蛇のような赤い目が脳裏に過ぎる。一度毒牙にかかってしまえば、もう二度とは戻ることが出来ない目。
セイバーはその考えを振り払うように頭をぶんぶんと左右に振った。

あんなものがあるから駄目なのだ。聖杯なんて、誰かの手に渡っていい筈がない。

自分の名を呼ぶ名前の声に返事をして、彼女は金色の髪を揺らしながら寝室を出て行った。

もう一度聖杯を破壊するという決意を、心に抱きながら。