羊飼いの憂鬱 | ナノ
聖杯グランプリ開催当日。その当日になるまでに、グランプリの参加者の中では様々な思惑が互いの間を交錯させ、何かしらの決意を秘めていた。事のはじまりを知るのならば、騎士王の名を持つセイバーが苗字名前と英雄王ギルガメッシュの元に泊まり込みをしたところまで遡らなければならない。




名前が見守る中、セイバーがギルガメッシュを布団にたたき付け、二人でベッドに横になり数時間が経った頃。




ゆっくりと、小気味のよい音が響いた。数回叩いて、数秒静まったのち、再びテンポよく数回。それはとてつもなく小さな音で、普通の人間ならば気付かない程度の音だ。彼女の知っている暴君なら、言葉もなく扉を開けて入ってくるか、こんな控え目に扉をノックなんてしないだろう。どう考えても自分の隣で睡眠をとっている人間に配慮しているということは訊かずとも明らかだった。
セイバーはうっすらと目を開いて体を起こし、扉の方を見つめる。そうすれば音は止み、代わりに「公園」という言葉だけが扉越しに聞こえ、瞬く間に気配が消えた。返事を待つことも聞くこともなく行ってしまう辺りが、やはり彼らしい。美少女と形容しても誰もが否定しないだろうその顔を少しばかり歪ませながら、セイバーはこの部屋の主人が貸してくれた寝巻から普段着へと着替えると静かに扉を開けて、音を立てないように気をつけて玄関へと向かう。

外に出れば、ひやりと刺すような冷たさが彼女の白い肌を刺激した。少しの間だけぶるりと体を震わせた後、このアパートに足を運ぶ途中に小さな公園があった筈だと道中の景色を頭に浮かべてセイバーは歩を進める。
五分ほど歩いた先には「冬木青空公園」と木彫りの標識が立っており、敷地内に入ると、金色の髪を持った青年がベンチに座っていた。手にはいつかの日に見た黄金の杯を持っている。セイバーの姿を見るなり、青年──ギルガメッシュは人の悪い笑みを浮かべた。その端正な顔には彼女のつけた拳の後がうっすらと赤みがついて残っている。

「来たか、セイバー」
「……こんな夜更けに何用だ」
「まあ座れ。あの雑種がいると話もままならいからな…このような妖しく輝く満月もあるのだぞ。月見酒とでも洒落込もうではないか」
「………」
「何故我が苗字名前の所にいる理由も気になっているのであろう?話してやっても良いのだぞ。 理由を話さなければ貴様らはいつまでも付き纏いそうだからな。セイバー、貴様に付き纏われるのは我としてもなかなか気味の良いものでもあるが、あの贋作者に付き纏われるのは鬱陶しくて堪らん」

ギルガメッシュの鋭く赤い双眼がセイバーを面白げに見つめた。何もかも見通したその瞳はセイバーが疑問に思っていたことを全て見通しているようである。彼女は少し黙ってはいたものの、ギルガメッシュが再度座るよう促せば少し距離を開けて隣に座る。
セイバーが座るのを確認したギルガメッシュは宝物庫から自身が持っている物と同じ物を宝物庫から取り出し、この世にある全ての酒と比べようにならないであろう美酒を注いで彼女に手渡した。セイバーは美酒の中に浮かんでいる完全な球体を覗き込んで軽く息をつく。


「……あの時を思い出すな」

──聖杯問答。
英雄王、征服王、騎士王の三人が願望機に如何なる願いを託すのか。それを酒の肴にしながら酒を酌み交わしたのが十年前の話である。その際に自らの願いを真っ向から否定されたのも十年前だ。セイバーの言葉に口端を歪な形に変えたギルガメッシュは喉の奧で意地が悪そうに笑う。

「…くく…あの時の貴様の道化っぷりには笑わせてもらったなぁ…滅んだ故国の繁栄などと愚かなことを考えた愚かな王がいたものだ…──だが、今はそのような昔話を語り耽る為に我は貴様を呼んだわけではないぞ」

自分を踏みにじる言動に口を開きかけたセイバーだったが、本題に入ると分かった今、彼の顔を憎々しげに睨むだけで何も言わなかった。その様子を見て古来の王は目を細め、ゆっくりと口を開く。

「興味だ。あやつに興味が湧いた。それだけだ」
「……興味? そんなものの為にお前はナマエの所に?」
「ああ、そうだ。あれは我が興味を持つものに値する雑種だ。…貴様とてあやつの目を見ただろう?」
「………」
「生きることも死ぬことも、何もかもどうでもよいと思っているような、そんな目だ。生を実感することを放棄していることに気付かず毎日を過ごしているような…生きる理由もなく、かといって死ぬ理由もない。ただ生きているから生きているだけ。生きがいなんてものを持っていない。意志もなく、流れるままに生きている。自分も含めて何もかもがどうでもいいと思っている。完全な、完璧な日和見者なのだ。虫螻でも子孫を残さねばならんという本能を持って生きているというのにな。アレは虫螻以下の雑種だ。生きるという本能を捨てた廃人そのものだ」
「そんなことは……」
「ない、と言い切れるのか? セイバー」
「………」

そんなことは、ない。
そう言おうにも言葉が出てこなかった。セイバー自身、名前とは深く付き合いはない。マスターである士郎を通して少しの交流をはかるだけだ。取り留めのない、下らない世間話をするだけだ。それだけの関係でしかない。それでも名前の話す内容はなかなかセイバーの笑いを誘うものだったので、セイバーは名前が気に入っていた。そんな名前のことを隣の金色以外の何色にも染まらない彼は虫以下だと評する。一瞬怒りが湧くも、いつの日か士郎の家を訪ねてきた時に見たあの名前は、紛れも無くギルガメッシュが言う全てを投げ捨ててしまったような──暗い表情をしていた。
ギルガメッシュは嘘を付かない。彼が名前の本質を見抜き、それをセイバーに嘘や偽りを含めて語ることは有り得ないし、虚偽を含めたところでギルガメッシュには何の利益にもならない。彼の言っていることは残念ながら全て事実なのだ、とセイバーは美酒を優雅に喉に通す様を見て思った。

「言峰は他人が絶望で満ちることで自らが愉悦に浸ることが出来たがな、苗字名前はそれすらも持っておらんのだ。実に憐れな女よ」
「…それで、その憐れな女がどういう経緯を経て死んでいくのか……貴様はそれを見たいのか?」
「それも一つの余興としては面白いものだが、それは最期の楽しみというやつだ。今の段階では違うと言っておこう」
「では、何故…」
「ただ理由も目的もない人生を送る人間が万能の願望機を目の前にした時、一体そいつは何を願うのか…気にはならないか?」
「…!虎聖杯か!」

最近の冬木では突如現れた虎聖杯という一見ふざけた形をした聖杯が出回っており、第五次聖杯戦争を生き残ったサーヴァントやマスターがそれを手にしようと躍起になっているのである。だが、もし名前が虎聖杯を巡る争いに参加したとて普通の人間である名前が虎聖杯を手に入れることなど確率でいっても低いものになるだろう。

だが、もし彼女を助太刀をする人間、もしくは英霊が現れたとするならば。


「…貴様の思い通りにはさせない」
「ふん、止められるものなら止めてみるが良いさ。あの雑種が貴様らの助けを素直に受け入れるとは思わんがな」
「…何?」
「これ以上はもう何も言うことはない」

それだけ言うとギルガメッシュは美酒を喉に流し込んだ。セイバーは何故ギルガメッシュが名前は自分達を拒むと断言するのかが分からなかった。名前は死んでいる心の奥底で並々ならない執着を持っているのだろうか。聖杯に頼らねばならないくらいの願いを持っているとは到底思えないのだが、と騎士王と名高い彼女は考える。


やはりギルガメッシュという男は危険だ。
最近のこいつは大人しく馬鹿なことばかりしていた為か、安心しきっていたのだ。一般人相手には何もしないだろうと。かえってそれが仇になるとはあの時はこれっぽっちも思っていなかったのだ。
私があんな安直に奴を彼女の所に放り込むことを良しとしなければ、今頃彼女は聖杯に関わり合う危機に直面することもなかったのかもしれない。
この男の類い稀なる執着を誰かに押し付けて解放されたい心がどこかにあったのだ、と己のことしか考えることが出来ない心に思わず歯を食いしばる。

私の一言がなければこうはならなかったのだ。

こうなれば私の手で彼女とこいつを引きはがすしか──



「なあセイバー、我をあの掘っ建て小屋から追い出そうとしてくれるなよ」
「っ!」

口元を歪ませた金色を睨みつけるが、金色はますます笑みをこぼすだけで何も効果はなかった。

「あそこは小さくて狭いがな。なかなか気に入っているのだ」
「………」
「あの雑種の作る飯もまあまあ美味だと言っておこう。臣下としてはそれなりに我に仕えてくれているわけだ。そのような奴にはそれ相応の見返りをしてやらねばなるまい。……と、こう言っておけば貴様も幾分かは止めづらくなるだろう?無粋な真似はするなよ」
「……シロウには報告させてもらうぞ」
「勝手にどうとでもするが良いさ」

セイバーは自身が持っていた杯を一気に飲み干すと、持ち主であるギルガメッシュに突き返し、そのまま踵を返して歩き始める。どうやらアパートに戻るつもりのようだ。
本題が終われば満月でも見ながら愚かな王に愛を囁こうと考えていたギルガメッシュはつまらないとばかりに舌打ちする。思考の切り替えが上手いギルガメッシュとは違い、セイバーは物事を引きずる方に近い。無理に引き止めても宝剣を出してくることが分かっている英雄王は少しの間靴で砂利を蹴っていたが、それも飽きたのか目の前に浮かぶ月を見上げる。冷えた空気の中に浮かんだ月はどこか壮大さを醸し出していた。

何年経っても変わらないものもあるものだ、と真っ赤な双眼でそれを見たギルガメッシュは心の中で呟く。


いつまでそうしていただろうか。一際冷たい風が体を撫でたと同時に彼は立ち上がり、ずっと持っていたままだった杯を宝物庫にしまい込むとゆっくりな足取りで公園から出て行き、掘っ建て小屋と称するアパートへの道のりを歩きだす。

静けさを取り戻した公園で何があったのか、それはずっとそれを眺めていた月だけが知っていた。