羊飼いの憂鬱 | ナノ
「……願い、ですか」
「ああ、そうだ。──まあ、尤もその願いを叶えるのは我ではなく聖杯だが」
「聖杯?あれ、聖杯戦争ってもうとっくに終結してたんじゃないんですか?」
「…今の冬木では虎聖杯を巡る争いが絶えないことは贋作者から聞いたであろう?」
「………虎聖杯?虎の聖杯なんてあるんですか?」
「貴様があやつから聞いたのは聖杯戦争のことだけなのか。使えん奴だ」

私の問いに意地くそ悪そうな笑顔から忌ま忌ましそうな表情へと変えたギルガメッシュさんはゆっくり起き上がり、私と向き合うと胡座を掻いて虎聖杯について説明をしてくれた。
ああ、だから最近虎柄模様の物をよく見かけたり派手な外見の人達が壮絶な追いかけっこをしてたのか。
納得している私を見て彼は「それでだな」と話を続ける。

「今の冬木は常識という概念が崩れ始めている。その因果かは知らんが終わった筈の聖杯戦争が再び始まろうとしているわけだ。先日現れた虎聖杯ではない聖杯が突如出現したお陰でな。虎聖杯と聖杯では願望を叶えられる規模に大きな違いがある。よもや参加しない手はあるまい」
「へぇ…で、その聖杯戦争はいつから行われるんですか?」
「明日だ」
「明日?!」

えらく急だな…。
まあ私には聖杯を使うくらいの特別叶えたい願いはない。生活を送る為のお金は欲しいが、それは働けば手に入れられるものだ。これといって願う必要もない。

「私叶えたい願いとかないんでギルガメッシュさんのお気持ちだけ有り難く頂戴しておきます」
「何を言うか貴様」

携帯をいじろうかと立ち上がった瞬間に腕を引かれ、私は無様に布団へ仰向けの状態で倒れ込むこととなった。起き上がろうとすれば当然のようにギルガメッシュさんが上にのしかかってくる。呼吸が苦しい。ギルガメッシュさんの顔はいつも見る不機嫌顔だ。

……ちょっとこの体勢危なくないか。

ギルガメッシュさんの性格は下の下だが悔しいことに顔は上の上だ。少しずつ顔に血が集まってくるのを感じる。私の顔を見てギルガメッシュさんは嘲笑をすると耳元で「考えてもみろよ」と囁いてきた。吐息が耳を擽って首の後ろがぞわぞわする。

「聖杯を手に入れれば何もかもがお前の思うがままなのだぞ?」
「いやいや、私そんな願いとか──」
「世界の破滅も、人類滅亡も、世界征服も可能だ」
「はぁ?そんなこと考えたことないです」
「──死んだ人間を再び現世に蘇らせることも容易い」
「……!」

心臓の動きが速まったのを感じ取ったのか、悪魔のような瞳を持つ男は嫌な笑みを浮かべる。爪の整った綺麗な手が私の頬から首筋をゆっくりと伝い、こつりと人差し指で鎖骨を軽く叩いた。

「なぁ、名前。お前見たところ死んだ人間に未練があるよなぁ」
「…それは、」
「王の目を誤魔化そうとも無駄なことだ。相当な未練があると見える。その人間が死んだ途端全てのものに執着も興味もなくなるほど、貴様はそいつを愛しているのだ。我が明日行われる聖杯戦争でそいつと再び出会える機会をやろうと言っているのが分からんか?」
「………」
「実に貴様は運が良い。はじめは虎聖杯で願いを叶えてやろうと思っていたがこのタイミングで虎聖杯の性能を上回る聖杯の登場。虎聖杯も混沌を呼び起こす程度には願望が叶えられる範囲は広がったが聖杯の方が確実に願いを叶えられるだろう。…ふふ、我の運の良さが付加されたのかは知らんがな。ともかくだ。貴様と我は聖杯を手に入れる為に明日の聖杯戦争には参加せねばならん」
「……でも、戦争というからには戦わなければならないんでしょう?」

命を懸けたくはないのが正直な気持ちだ。それに私自身戦って生き残れるようなスキルは皆無だ。
あまり落ち着いた呼吸ができない中、振り絞るように疑問を投げると彼は何故か面白そうに笑うと「レースだ」と簡単に答えた。……レース?

「明日の聖杯戦争は今までとは違い少々名前もルールも違ってな。正式には『聖杯グランプリ』という名称で、まあ簡単に言うとカーレースだ」
「カーレース……」

カーレースならそんな命に関わる危険性も殺し合いと比べればぐっと下がるだろうけど。
……だからギルガメッシュさんは調子を取り戻そうとバイクを運転してたのかと気付く。だとしたら元々聖杯戦争…いや、聖杯グランプリには参加しようとしていたのか。それははじめから私に拒否権がないことを暗示しているも当然じゃないか。くそ。湧き上がる苛立ちに気付いているのかいないのか。ギルガメッシュさんはいつものどや顔を浮かべて話し始める。

「明日は貴様の為に我が一肌脱いでやろう。感謝しろよ……まあ願いは貴様が決めること。人間を蘇らせること以外にも叶えたいことがあるのなら考えておくのだな」
「参加したくないと言っても無駄ですか」
「当然であろう。小屋ごと吹っ飛ばされたいか」
「いいえ」
「ふん。分かれば良い。明日は早く起きて走るぞ」
「…………」
「……それにしても貴様、胸はセイバー以上なのだな」
「…は?」

突然百八十度切り替わった話題に反応が遅れる。当然のように伸びた手は私の体を這い、反射的に殴る為に飛び出た拳はやすやすと握られた。欲を含んだ手の動きに普段通りの動きを取り戻していた心臓が再びめちゃくちゃな動きを始める。ギルガメッシュさんはさして興味もなさそうな、それでも男の目で私をじっと見下ろした。口を開きかけたところで、それを何かが良いタイミングで邪魔をする。邪魔をしたのは一定の音を小刻みに繰り返す電子音だった。
彼は大きく舌打ちをして私から離れると携帯のある方向を顎でしゃくる。私は慌てて鞄から携帯を取り出した。着信先は珍しいことにアーチャーさんで、こんな夜更けにどうしたのだろうと疑問が浮かぶ。

「…誰だ」
「アーチャーさんです」

私の言葉に少し目を見開いたギルガメッシュさんは眉間に皺をつくり、何か考えるように目線を左に寄せる。しきりに電子音が鳴る中、彼は低い声で「ここにいることは伏せて我はゲームしていることにしろよ」とだけ言って布団に寝転んでしまった。何故そう言ったのかは分からないが、ギルガメッシュさんの命令を無視すれば最悪この旅館が吹き飛びかねないので素直に従っておくことにする。

アーチャーさんからの電話は今度また喫茶店で話でも、という誘いの内容だった。そしてギルガメッシュさんと暮らす私を心配する言葉を幾つかくれるとそのまま通話は終わり、携帯を閉じるといつの間にか布団に入っていた英霊が「やはりな」と呟く。

「何がですか?」
「我の動きを探ろうとしているのだろう。雑種共も大変だな」
「…?」
「我が明日の聖杯グランプリの開催を知って参加の準備をしているか知ろうとしていたのだ。一番我の身近にいる貴様を使ってな。さり気なく我の様子をきいておっただろうが」
「…成る程。…あれ、開催を知ってって…ギルガメッシュさん元々参加される予定なんじゃ…」
「我は呼ばれておらん」
「え?」

衝撃な事実を聞かされ少しの間思考が停止する。お構いなしにギルガメッシュさんはそのまま話を続けた。

「全く以て解せぬ。我を呼ばぬとは一体言峰は何を考えているのだ…」
「えっと……それ無理矢理参加するってことじゃ…いいんですか、大丈夫なんですかそれは」
「我がルールだからな。この話はさておき明日に備えて今日は寝るぞ」
「………おやすみなさい」


のび太並に眠りにつくのが早いギルガメッシュさんからはすぐに寝息が聞こえてきた。電気すら消していないのに、眩しくはないんだろうか。電気を消して私も寝ることにする。それにしても今日は色んなものを見てまわったなと思う。もし明日の聖杯グランプリで優勝を勝ち取ることが出来たのならば。


私はあの綺麗な紅葉を切嗣さんと一緒に見ることができるのだろうか。


一瞬にして駆け巡った思考を追い払うように目を瞑れば、疲労によって直ぐさま意識は闇に紛れていった。