羊飼いの憂鬱 | ナノ
元武家屋敷と言われるこの家はこの前まで私が住んでいた家の何倍も大きく、そして広かった。
衛宮君と衛宮君のお父さんしかいない此処は、夜になると誰もいないかのようにしんと静まり返り、まるで私しかいないように感じる。実際問題、そんな感じだ。一人部屋を貸し出されたのはいいものの、私の所有物なんてこのランドセルと教科書に筆記用具、数着の服ぐらいで、あとは何もない。小学生らしからぬ部屋だと自分でも思う。これ以外の物は全て衛宮家の物だ。

暑苦さの所為で蹴り飛ばした掛け布団は敷き布団とだいぶかけ離れた位置にあるけれど、朝になってからきちんと畳み直せば大丈夫だろう。四つん這いで襖まで近づき、ゆっくりと音を立てないように開く。静かに部屋から抜け出し、抜き足差し足で丁寧に磨き上げられた長い廊下を歩いた。
此処は本当に広い。広くて、静かで、暗くて、少し怖い。嫌ではないけれど、落ち着かない。此処が私の家だなんて、未だに信じることが出来ない。私は何故こんなところで寝食を行っているのだろうと、一ヶ月経った今でも時々思ってしまう。何の繋がりもない私が衛宮家に転がり込んでいるのだろう。幾ら考えても分からないその問いを考えながら縁側の方まで歩き、適当な場所に座る。自室からはあまり聞こえなかった虫の鳴く声がはっきり聞こえ、空を見上げれば大きくて完全な球体の月が私を見下ろしている。その周りには星が幾つも静かに主張を続けていた。私の唯一休まる時間がこの瞬間だった。最も静かな空間が訪れる丑三つ時が好きだ。特に何をするということもないが、ただぼんやりと空を見上げながら、どうでもいいような問いを心中の中で繰り返すだけだ。こんな時間に起きるお陰で、学校では眠気に意識を囚われているのが問題だけれど。


「まだこの家には慣れないかな?」


心臓が一瞬止まったような気がした。

指先や足先が冷たいものに覆われていくのを感じながら、ゆっくり後ろを振り返る。動悸がとてもうるさく感じた。薄暗くも月明かりに照らされた部屋には、衛宮君のお父さんが困ったような笑みを浮かべて立っている。足音も、気配すらもなかった。いつから此処にいたのだろう。すっかり冷たくなった指先を握り締めて、彼に向き合う。無言の中で、虫の鳴き声がただただ鳴いていた。お互い暫く見つめ合い、私が喋らないと悟った衛宮君のお父さんは口を開く。果たして彼はどのような雑言罵倒を繰り返すだろうかとぼんやり考えていると、予想だにしない言葉が吐き出された。

「君がよく布団から抜け出してこうしているのは知っていたよ」
「…!」

驚く私を見て衛宮君のお父さんはおかしそうに少し笑ってから、こちらに近付いて来ると当たり前のように私の隣に座った。

「…今日の月は綺麗だね。名前と一緒に見てるからかな?」
「………昨日の月も綺麗でした」
「そうか。僕は昨日の月なんて見ていないから比較のしようがないなぁ」
「……そうですか」



「…この家は君にとって重荷になっているかい?」

衛宮君のお父さんは月を見ながら本題に入る。私はからからの咥内を唾液で濡らして簡単に否定の言葉を零した。

「…じゃあ、僕と士郎は君にとって家族という存在に成り得ている?」
「…………まだ一ヶ月しか経っていないから…その…分かりません」
「…そうか。……君は…僕達と家族になりたいという気持ちはあるかい?」
「…………あります」



意志ならある。

あるけれど、どうしてもこの家の中で生活をしていると、ほんの些細な出来事からでも、この家に私の居場所なんてない、と思ってしまう。この家は私という存在がなくても成り立つのだと思えざるをえない。私は白紙に落とされた黒インクのようなものだ。一生孤独を抱えて生きる人間なのだと、そう思ってしまう。

例えこの戯言をこの人に言ったとしても、決して理解は出来ないのだろう。彼には衛宮士郎という人間がいる。

私の心中を知らない彼は、私の答えに何故か悲しそうな目で私の顔を覗き込んできた。衛宮君のお父さんの目はとても深い黒色で、気付けば引き込まれてしまいそうな危ない匂いがする。この人からは乱暴をされることも、刺々しい言葉を向けられることもないのに、何故だか危険だと私の第六感がそう告げるのだ。

「………困ったことや嫌なことがあったらちゃんと僕でも士郎にでもいいから言うんだよ。もしそれが、僕らに理解し合えないだろうことだろうことでもね」
「…!」
「さて、そろそろ寝ようか。名前さえ良ければ僕と一緒に寝よう。そうだな…眠気がこないなら羊でも数えてあげるよ」
「…………では…お願いします」



その日の明け方、衛宮君のお父さんは私を抱きしめて、私の背中をゆっくり優しく叩きながら羊を数えてくれた。彼の体も、声も、そして大きな手も、全て温かくて、思わず涙を流してしまう程に、彼は私に優しくしてくれた。




あの頃の幼い私には、衛宮切嗣という人間が全てだった。