羊飼いの憂鬱 | ナノ
「おい、帰ったぞ」

衛宮家に帰って行ったセイバーを訪ね、昼過ぎになるまで散々彼女やそのマスターを振り回したギルガメッシュは、心が充実感に満たされているのを感じながら現在の彼の住み処であるアパートの名前の部屋の扉を開けた。部屋の中はやけに静寂で溢れていて、空気が死んでいるかのようだ。いつもならば自分が帰宅した意を示すと少なからず名前の声が聞こえてくるのだが、今日はうんともすんとも返事がこない。王の言葉を無視するとはいい度胸をしている、とさっきまでの爽快な気分を損ねた暴君は靴をその辺に散らすように投げ捨て部屋に上がる。名前の気配はするのだ。無視か、何かが原因で聞こえなかったのか。後者なら許してやらないこともない。そう思いながらギルガメッシュは大股で居間へと移動して、自分がいつも使っている布団が少し膨らんでいるのを見つけた。名前だ。深く掛け布団を被っているお陰で髪の毛が少しばかり飛び出ているのが見える。

「おい、雑種。誰の許可を得て我の寝具を使っている?」

この布団は今使用している名前の物だが、ギルガメッシュの中では既に自分の物だとインプットされているようだ。
枕元まで歩み寄り、男にしてはやけに美しい足から親指を少し伸ばし、彼女の頭のつむじへとぐりぐり当てる。それでも名前に目覚める気配はない。

王が直々に起こしてやっているのに起きぬとは!

大きな舌打ちを一つして彼女の反応を窺うも、名前は規則正しい寝息を繰り返すだけだ。

「おい、雑種。おい、起きろ」
「………」
「………」

無言で勢いよく掛け布団を剥がしてみる。ストーブを焚いていることから室内は外よりも格段に温かいが、やはり名前には少し寒かったようで、少し体を震わせるとようやく目を覚ました。上体を起こした名前はどこか遠くの方に視線をやり、何か考えるように頭を掻いていたが、ふと般若の如く顔を歪ませているギルガメッシュと目が合うと「お帰りなさい。帰ってたんですか」と起きた直後の所為でいつもより数段低い声を出して彼に挨拶をする。それでもギルガメッシュの表情は晴れず、不機嫌なままだ。

「出迎えの辞儀もなし。その上我の所有物を無断で使用するとは貴様も偉くなったものだな」
「辞儀って…いつもそんな大したことしてないでしょ…。そしてこの布団元々私のですから」
「ふん、この部屋の物は全て我の物だ」
「あーハイハイそうですね。ギルガメッシュさん、お腹空いてますか」
「ん?──ああ、そうだな。…おい、話を逸らすな」
「じゃあご飯作ります」

名前はギルガメッシュの言葉を適当に流しながら一度大きな伸びをして起き上がり、台所の方へ歩いていく。これ以上話をしようにも名前がのらりくらりとかわすことを理解したギルガメッシュは口を開きかけたが、名前の口からこぼれ落ちた「麻婆豆腐にしますね」というギルガメッシュを黙らせる常套句を聞いた途端、暴君はすぐに怒りを収めた。麻婆豆腐を食べたくないのなら何処かの飲食店にでも入ったり、先程までお邪魔していた衛宮家に行けばいいものの、ギルガメッシュはそうしようとはせずに黙って名前が料理をする様子をソファーから眺めた。そういう考えに至るまでの発想力が欠けているのか、ただ単に此処が気に入っているのかは彼のみぞ知るということだろうか。



***



麻婆豆腐ではない昼食を終えたあと、名前は敷いたままだった布団を寝室の方に運んでいき、居間に戻ってきた頃には布団の代わりに火燵布団が両手に抱え込まれていた。テレビゲームに精を出していたギルガメッシュは、一度ゲームを中断して興味深そうに名前が火燵布団をテーブルに設置する様子を観察する。

「何だ、それは」
「火燵です。火燵」
「コタツ……どういう用途のものなのだ」
「教会に火燵なかったんですか?」
「なかったぞ」
「へぇ…まあとりあえず説明するより実際体験した方がわかりやすいですよ。この布団の中に足突っ込んで下さい」
「ふむ…」

ソファーから降りて、コントローラーを両手に持ちながらギルガメッシュは火燵の中に下半身を入れてみることにする。それを見た名前は火燵の中に頭を入れて電源ボタンを右にかちりと回した。何が起きるのかと期待した暴君だったが、何か驚くようなことも起きず、さっきとまるで変わらない状態を見て彼は不機嫌顔で火燵から頭を出した名前を見る。

「何も起きぬではないか」
「そのうちわかりますよ」
「………………温かくなるのか?」
「はい。庶民が冬の季節になると病み付きになる物ですよ」

そんなことを言ってから名前はぼんやりと頬杖をついて止めたままのテレビ画面を見つめていた。思考の奥底に潜っているのかどこか気が抜けたような、だがどことなく真剣さが漂うその表情にギルガメッシュは少し珍しいものを見たかのように名前を凝視した。普段の彼女はやる気のない表情が通常運転なので思わず古来の王は「どうかしたのか」と声をかける。名前はゆっくりと視線をテレビから王へと移したが、決して目を合わそうとはせず、彼の手に視線を落としたまま口を開いた。

「……さっき、掛け布団引っぺがして起こして下さったでしょう」
「…ああ。謝辞を述べるならその頭を床に伏して述べるがよいぞ」
「…昔、を…思い出して…」
「昔?」
「ええ、まあ……」

名前の言葉を続きを待っていたが、それ以上名前が話すことはなかった。ギルガメッシュは少し面白くなさそうにゲームを再開させる。こんな齢で身寄りもいないらしい名前にはそれなりの事情があるのだろう。人の生き方や業を愛でるギルガメッシュにとっては何か面白い話の一つや二つ聞けるのかと少し楽しみにしていたのだが、尻窄まりに終わる結果となってしまったのが非常に気に食わない。メニュー画面を解除して再び始まる乱戦に静かだった部屋の中は瞬く間に騒がしくなった。



「───切嗣、さん」


名前の呟いた名前にギルガメッシュは微かに反応したが、その微動なる動きに名前が気付くことはなかった。