「──苗字名前さん……だよね?」 午後の授業も掃除も終わった帰宅部は学校に残る意味など皆無だ。しかもこんな暑い日に意味もなく居残る人なんて多分いない。放課後はいつも残って騒いでいるケバい女子も今日はそそくさと帰っている。そして私も担任にあった用事を済ませ、帰路に立とうと、ちんたら玄関に足を進めている途中のことだった。名前を呼ばれて振り向けば、そこには学年で美人だと噂の桃井さつきが私を見ていた。 桃井さつき。バスケ部のマネージャーであり、諜報部員であり、バスケ部の勝利に貢献している人物。何事にも一生懸命で、明るくて、誰にでも対等に接する。容姿も、頭も、性格も、全て良し。 そして、 同じくバスケ部の青峰大輝とは幼馴染という関係を持っている人。 「………」 「あ、あれ?苗字さんじゃない?人違いしちゃったかな私…」 いつまで経っても無言な私に桃井さつきは勘違いしたのかわたわたと手を振った。その為高い位置で結ばれているポニーテールがゆらゆらと揺れる。とてもよく似合っている。 その艶のある綺麗な桃色の髪と、触ればさぞ柔らかいであろう赤い唇。鼻筋がよく通り、ぱっちりとした二重瞼にルビーのような赤い目。中学二年生だというのに大人顔負けのその豊満な肢体を併せ持つ彼女。 神様は全力で桃井さつきをつくることに専念したのだろうなと、そう思ってしまう程、彼女は完璧な女だ。今まで可愛いと噂には聞いていたものの、遠目でしか見たことがなかった私は桃井さつきを遠慮なく眺めてしまった。同性の私から見ても彼女はとても綺麗だ。男子が騒ぎたくなる気持ちは分かる。 「…いえ、間違ってないです。何かご用ですか」 「あーっ、良かった。突然ごめんね?話し掛けちゃって…帰り、急いでたりする?」 「……いえ、大丈夫です」 えへへ、と笑う桃井さつきは「訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」と尋ねてくる。 私と彼女は今まで会話を交わしたことなどなかった。私は彼女のことは知っていたけど、彼女は平々凡々たる私のことなんて知らないと思っていた。それなのに。私の存在を知り、名前を呼んで、話し掛けてくる理由なんてほとんど分かりきっていることだ。 無言で頷けば、人の良い笑顔のまま彼女は口を開いた。 「苗字さんって、青峰君と付き合ってるんだよね?」 「………」 私と彼女にある間接的な、それでいて小指の皮ほど薄い、あるようでないような接点。 桃井さつきの幼馴染の青峰大輝が私の恋人だということがそれに該当する。 私と青峰が付き合っているということは当人だけの秘密で、学校でだってそんな素振りなんて見せていない。目立つ青峰の恋人となれば嫌でも好奇な目の晒されることは考えなくても分かることだ。目立つのは嫌な私は青峰と付き合うことになったその日、学校では交際していることは隠しておこうという取り決めをした。教室でふと時折目を合わせ、視線を交わらせるくらいで、後は何もしていない。同じクラスの生徒、程度の認識に見られるようにしていた。 その筈なのに、何故目の前の彼女は私と青峰の関係を知っているのだろうか。 「……どうしてそう思ったんですか」 「あのね、この間家に遊びに行った時におばさんがそう言ってたから。…その後酷かったんだよ、青峰君。すごく怒って…」 「………」 幼馴染だから家の行き来があることは分かっていたので何も言わない。 まさか青峰の母から漏れるとは思わなんだ……。思わぬ伏兵に数回会ったことのある青峰の母の顔を思い出していると、彼女は「それでね」と話を続けたので意識をそちらに向ける。 「八月三十一日、青峰君の誕生日でしょ?部活の二年レギュラーの皆で部活終わりにサプライズとしてお祝いしようってなってるんだけど、苗字さんもどうかなって。彼女もいたら青峰君喜ぶと思うし」 「………」 「……苗字さん?」 『青峰の誕生日』 『八月三十一日』 二つのワードが頭の中をぐるぐると回り、そして反響する。 私と青峰が付き合うことになったのは中学初めての春休みに入る少し前のことだ。だから、去年の誕生日を祝う間柄にまでは発展していなかった為、祝っていない──というか、今まで私は青峰大輝の誕生日というものを知らなかった。誕生日の話なんてしたこともない。私と青峰はいつも内容のない馬鹿な話ばかりをしていて、お互いを知るような話なんて、全然していなかった………ような気がする。 「………」 「苗字さん、苗字さん、大丈夫?具合悪い?」 「…っ! あ、いや、大丈夫…」 「そう?……それで、三十一日、来れるかな?バスケ部の部室でやるんだけど」 「……多分、無理…忙しいと思う…」 「そっかぁ…残念」 私の付いた嘘に気付かないまま彼女は肩を落とし、しょんぼりとした顔になるが「しょうがないよね」と悲しい笑みを浮かべた。こんな良い子に私は嘘を付いている。罪悪感で心苦しさが胸に広がるが、私は二年レギュラーという得体の知れない人間と共に青峰の誕生日を祝うなんて出来そうにない。きっと私は息苦しくてその場の空気に堪え切ることが出来なくて、途中で抜けてしまうかもしれない。恋人を祝うよりも自分の保身に走るなんて最低だと思うが、私は堅苦しい内輪に飛び込む勇気など持ってはいなかった。 「じゃあ、私はこれで…」 「あの、青峰君のこと、よろしくね!あいつ、バカだし、すぐ人のことおちょくるし、叩くけど…優しいところとかあるから!それに──」 「時間、大丈夫ですか?」 「あっ!大変!ちょっとヤバいかも……じゃあ苗字さん、またね!」 「………」 桃井さつきが青峰の隣にいる時間は私よりも遥かに多い。だから私より、彼女の方が青峰大輝のことをより深く理解している。 恋人である私よりも。 遠くなる小さな背中を見つめて、いつまでも此処にいたところでどうにもならないと思った私は彼女に会う前よりだいぶ沈んだ心と共に学校を出た。じりじりと熱い太陽が私を照らしつけ、汗がだらだらと皮膚に浮かんでくる。 八月三十一日は青峰の十四回目の誕生日、か。 それを知ってしまったら、何かしなければならないんだろうが、自分の知らない内に誕生日を知られ、プレゼントを用意されているなんて、ちょっとストーカーじみているような気がする。 まあ、どうせ三十一日はバスケ部の部員と祝うことが決められているのだ。祝う人がいるなら、別にそれでいいんじゃないか。私なんかが祝わなくても。「俺この間誕生日だったんだぜ」とかなんとか言われたら行動を起こせばいい。青峰の中では、私は誕生日を知らないことになっているから。 そうだ。 それでいい。これで。多分、後悔は、しない、筈、だ。 「…………」 汗が額から、こめかみを通り、首筋に流れて、カッターシャツに滲んでいく。 嫌な汗だ。 今日は、とても暑い。 ×
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