羊飼いの憂鬱-another | ナノ
びゅう、と音を立てて北風が私の間を通り抜けていった。思わず身を縮めて、両腕で自然と震える体を抱きしめる。はあ、と溜息を吐けば白い息が口から漏れて消えていった。

ああ、本当に寒い。

最近の言葉で言うなら鬼寒い?…最近の若者言葉はよく分からない。とにかく寒い。マフラーをして、耳当てをして。カーディガンを着込んでカイロもポケットに入れて背中にも貼っているのに、寒い。確か今日は今年一番の寒さです〜、とお天気お姉さんが話していた。


今日は有難いことに一日オフだった為、引きこもりを決め込む筈だった。オディナさんの内職をせっせこ手伝い、終わった暁にはお汁粉でも作って食べようと話していた……のに、彼は今一人で内職戦士となっている。
その原因は紛れもなく、奴だ。

私の部屋に我が物顔で居座る庶民王様である。


たかがブランチュールのストックが底を尽きたという至極下らない理由で、私はこうして買い物に駆り出されているのだ。


自分が食べるものなんだから、自分で行け。


そう言ったものの、まあ、相手は自己顕示欲を具現化したような…自己中心的俺様何様王様我儘野郎だ。そんなミーイズム代表が私の言葉を聞くこともなく。ああやって自分のことしか考えられないから、いつまで経っても友達が出来ないのである。きっとこれからもあの人は友達と呼べる人間が出来ない原因が自分にあることに気付かないのだろう。……王様という位に立つ半神半人だから、そんなホイホイ己のことを理解してくれる人がいるとも思わないし、唯一「朋友」と呼んだあの人以外友達なんて作る気はないと思うが。


「さむ…」


寒さを口にしたところで、温まるわけもない。魔術で体温めたりとか、出来ないんだろうか。今度、言峰さんに何か方法はないか訊いてみよう。……教えてくれないのを前提で。




近所のスーパーは歩いて十分かかるか、かからないかの所にある。このまま真っ直ぐ行った先にある左の角を曲がればすぐそこだ。…すぐそこだというのに、こんな寒さの中では十分という時間は長く感じた。着実に目的地へ近付いているのに、途方もなく長い旅をしているような感覚。

去年もこんなに寒かったっけ…?

去年の今頃がどんな感じだったか思い返してみるが、ただひたすら仕事に明け暮れていたことしか思い出せない。あまり寒さだの何だのには気を配っていなかった気がする。ということは、あまり寒くはなかったのだろうか。

角を曲がって視界に入ってきたスーパーの看板をぼんやり見つめながら、もう少しの辛抱だと震える体に言い聞かせる。


…そういえばこの時期にトマト鍋してたな。
真っ赤に染まる鍋のことを思い浮かべていれば、遠くから叫ぶ男の声が聞こえた。スーパーの帰りであろう買物袋を下げたおばさんや親子連れの人達が、何事かと声の聞こえる方向に顔を向ける中、同じく私も何だろうと後ろを振り返る。
そして振り返ったことを後悔した。


「主っ!主ーっ!」


誰もが羨む長身に、服の上からでも分かる鍛え抜かれた肉体。艶のある黒髪に、見るからに甘そうな琥珀色の瞳──を隠すかのようにかけられた薄ピンクの、遊び人やチャラ男が好みそうな眼鏡。色気を更に引き出すかのように付いている右目の下の泣き黒子。

通りを歩けば女の子は当然の如く見とれてしまう顔を持った男は、私と目が合うとぶんぶん手を振った。その顔は季節外れだが向日葵みたいな笑顔を浮かべていて、とても眩しい。私の近くにいた親子が「かっこいい」と感嘆の声を上げる。


「ねー、かっこいいねぇ。映画俳優さんかなー?」
「“あるじ”ってよんでたけど、あるじってなぁに?」
「………なんだろうねぇ?」


親子の会話を聞きながら、私は無我の境地に降り立ったかのような感覚に陥る。


人前で「主」と呼ぶのはやめろと何度言ったら分かるんだ。

金髪赤目と同居してるだけでもアパート付近に住んでる人から珍しい目で見られているのに、重ねて流し目美丈夫も転がり込んでからは更に視線が痛くなった。

主だの何だのと呼ばれているのが知られたら、イケメン侍らせて女王様気分に浸って怪しい遊びをしている女だと誤解が生じてしまう。

主にイケメン大好き!噂大好き!な、ママ友集団プラスおばさま方に。




どうしよう。激しく他人のフリをして去りたい。スーパーに入りたい。まだオディナさんが私の元に辿り着くまでそこそこ距離があるし、彼は一般人の目もあって驚異的なサーヴァントパワーを発揮することはない筈だ。瞬歩みたいな移動は出来ない。私とオディナさんの距離と、私とスーパーの距離を比べるなら後者の方が距離は短い。

くるりと踵を返し──後ろから「主?!」と聞こえたが──早足でスーパーの中へと入り──後ろから「主!お待ちを!」と聞こえたが──買い物カゴを手にする。同時に入店したお姉さんが、ちらちらと私とオディナさんの方を見比べていた。完璧にオディナさんが私のことを呼んでいるとばれている。死にたい。
が、死ねない。何とも不便な体になってしまったものである。


ブランチュールは後にして、何か安売りされている物はないかと野菜コーナーをうろつくことにした。やはり年末近くなだけあって、いつもより人が多い。息が詰まるが、それは他の人も同じである。


最近の野菜はどれも高いから困るな………あ、白菜が安い。今日はやっぱりトマト鍋にしよう。鍋に入る白菜ほど、美味しい白菜はない。



白菜を物色していれば、背後から買い物カゴをぶん取られる。呆気にとられていると、目の前には鬼気迫る表情のオディナさんが。


顔が近い。顔が。



「主!何故無視するのです?!」
「…………」


以前指摘されたことを綺麗さっぱり忘れているらしい彼は、白い目で見つめる私によって更に焦燥に駆られたらしい。切羽詰まった声音で「俺が何かご無礼を働いてしまったのならば、謝ります。ですから、どうか俺をないもののように扱うのは…!」と言いながら買い物カゴを床に落とした彼は、私の両手を掴むと自分の額に擦り付けるようにして懇願するように目を瞑る。


「主…」
「それ」
「…え?」
「主呼び」
「………あ…」
「私に変な噂が流れても全然構わないのであればそのまま呼び続けても結構ですけど、その内アパートから拠点を──」
「もっ、申し訳ありません!このディルムッド、すっかりあの時の約束を忘れておりました…ここはニホンの仕来りに則りハラキリを…!」
「しなくていいです」


幾ら死なないからといって、そんな呼び方如きでいちいち切腹されたら困る。あのアパートをいつぞやの血の海(ディルムッド・オディナver.)にでもするつもりか。
即答で断れば、オディナさんは「そうですか…」としょんぼりとした面持ちで俯いた。どうしても何か罰せられなければ気が済まないらしい。騎士は皆そうなのだろうか。だとしたらなんて面倒臭い生き物なのだろう。


「……ほら、血とか臓物とかで部屋が汚れちゃうじゃないですか」
「………それもそうですね…」


尤もらしいが生々し過ぎる理由で納得してしまう辺り、この人には若干天然の気が入っているに違いない。


「今後は気をつけてくださいね。気をつけてくれるだけでいいので。ほんと」
「…はい。申し訳ございません」
「あと店中でミュージカルみたいに大袈裟な立ち振る舞いは止めてくださいね」

無視していたが、ちらほらと視線が痛い。
買い物カゴを拾い上げ、色の良い白菜を中に入れてどちらからともなく歩き始める。隣を歩くオディナさんは再度「申し訳ない」と謝ると、恥ずかしそうに頬を掻きながら口を開いた。


「ようやくこうして…聖杯に願った関係を得ることが出来たのに、理由も分からないまま別居というのは嫌でしたので…つい」
「別居しても契約は続くので大丈夫ですよ」
「………」
「冗談です。追い出すつもりも予定もないです」
「……失礼ですが…ナマエ様のジョークはジョークに聞こえません」
「………」
「………」
「………」
「ジョークだと分かるように精進します」
「ジョークだと分かってもらえるジョークを言えるよう努力します…で、オディナさん、何かスーパーに用でも出来たんですか?」



トマトを一パックカゴに入れながら尋ねる。

ギルガメッシュさんに新たにパシられでもしたんだろうか。そんな私の予想に反し、彼は含み笑いをしてから懐に手を突っ込んだ。そして彼の懐から取り出されたそれを見て、反射的に鞄の中を漁る。



「……!」
「テーブルに置かれていたので、もしやと思い」


買い物に来たのに一番大事な物を忘れるなんて、私は馬鹿か。
オディナさんは「追いかけて良かった」と言って私の鞄に財布を入れると、自然な、無駄のない動きで私の手から買い物カゴと鞄を取っていった。

抵抗する暇もなかった。



「……オディナさん」
「名前呼びを忘れていた罰として、僭越ながら荷物持ちをさせて頂きたく」


にこりと柔らかな笑みを向けられては、そうしてもらう他ない。


「……ありがとうございます」
「とんでもありません。ナマエ様のお役に立てられるのなら……このディルムッド、喜んで致します。ブランチュールの他に何を買われる予定ですか?」
「夕食の食材の買い足しをしようと思いまして」
「ほう。今日の夕食は…」
「トマト鍋にしようかと」
「……鍋、に……トマトですか?」


果たしてそれは美味しいのか?と、彼の頭の上には疑問符が浮かんでいる。そうだよな、トマトを鍋で煮て食うなんて普通しないよなぁ…。


「白菜、玉葱に、じゃがいもとー…ウィンナー入れて…市販のトマト鍋の素入れて……結構美味しいんですよ。チーズ入れたりもして……あ、あとベーコンは欠かせないな。味が濃く出て美味しくなる」
「ほう…主が美味しいというなら外れはなさそうですね」
「でも味覚は人それぞれですから。オディナさんの口に合うといいんですけど」
「合います、きっと。


──なんせ、俺の主がお作りになるんですから」


そう言って、フッと笑うオディナさん。どうしていつもそう若干シリアスな雰囲気に持っていきたがるのかは謎である。きっと無意識なんだろうが。


「はい、そうですね。じゃあ野菜買いましょう。玉葱と……じゃがいもは家にあるから…トマト鍋の素も買わないと。ブランチュールは最後で」
「………」


「流された…」みたいな顔をするのはやめて欲しい。ちくちくと良心が痛むのを堪えながら玉葱が置いてあるコーナーに行けば、しょんぼり顔に戻ってしまったオディナさんが「玉葱は俺が切らせて頂きますね」と呟く。


「手伝わなくて大丈夫ですよ」


野菜切って煮るだけだし。

そう言えど、彼は首を横に振って「手伝わせて下さい」と言う。オディナさんが手伝ったらギルガメッシュさん文句うっさいんだよなぁ。不味くなるとか、なんとか。オディナさんが味付けをするわけではないから、味なんて変わらないのに。

だが、それを分かった上で申し出るオディナさんの気持ちも、分からないわけではない。


きっと、歯痒いのだ。

聖杯戦争中──と言っても今はまだ本物の聖杯の出現はなく、虎聖杯戦争なのだが──であるにも関わらず、サーヴァントとしてやることは戦いではなく、待機するだけ。自分が出来ることは内職か、日雇いのバイトしかない。彼が望んだのは主に忠義を尽くし戦うことで、決して私のお財布事情を何とかすることを願ったわけではないのだ。だから少しでもマスターである私に、それこそ家事手伝いでも何でもして尽くして気を紛らわせておきたい……のかもしれない。


「…不満ですよね、今の生活。戦うことはないし、ギルガメッシュさんのお守りか働くかばっかりで」
「…!…いえ、決して不満ではありません………ただ…」
「…ただ?」


サングラス越しの琥珀が、どこか迷うように揺れた。