羊飼いの憂鬱-another | ナノ
微かに甘い匂いと、じゅわじゅわと焼ける音が、鼻孔を、鼓膜を擽る。
自らが望んだ八つ時の甘味が着々と作られているというのに、この男──庶民王と巫山戯けた異名を名乗る正真正銘の王は、何故だか眉間に皺を寄せていた。テーブルに頬杖をついて、だらけた姿勢をとる様子はふて腐れているようにも見える。その不機嫌そうな顔から送られる視線の先には、彼が作れと命じた甘味──今日はホットケーキである──を作る臣下、もとい庶民の姿があった。

たいへん不本意ながら庶民王・ギルガメッシュの庶民生活を支援している苗字名前は、慎重な面持ちでどろどろに混ざったホットケーキミックスをお玉に集めて、ホットプレートに広げている。それだけならギルガメッシュは「さっさと焼け」「早く食わせろ!」といつものどや顔を浮かべながら文句をこぼしていただろう。それに対し、彼女は鬱陶しいと言わんばかりの表情を浮かべつつ軽くあしらいの言葉をかけるのだ。

これが二人にとっての日常だった。


だが、今日は違う。

いつもの横柄ながらどこか楽しんでいるような態度をとらないのは、それなりの理由があった。



「主、もうそろそろひっくり返しても?」
「表面にいっぱい大きいぷつぷつ出てきてるやつは……そのヘラでひっくり返してください。ヘラはそのボウルに入ってる水を付けてからで」
「了解した」


理由は至って簡単だった。
何故なら、彼女の隣にはディルムッド・オディナがいるからである。
美丈夫は手慣れた手つきでホットケーキをひっくり返すと、微かに笑みを浮かべた。良い具合に焼けていたのが嬉しかったのだろう。「主、焼けてますよ」とマスターの反応を貰いたいのかそわそわしながら話し掛ける姿に、ギルガメッシュの気分は益々降下していく。


「おい、早く作れ」
「そんなに言うなら手伝ってくださいよ。って言っても手伝う気ないんでしょ…」
「何故我が手伝わなければならんのだ」
「自分で食べるものくらい自分で作ってください」


いつもの言い合いが始まるのかと思いきや、そこに突如庶民王でも庶民でもない別の声が上がる。


「英雄王、少しは辛抱出来んのか」
「貴様……誰の赦しを得てホットケーキを作っている。我は名前に命じたのだ。貴様は日雇いのバイトでも探してこい!」


「…主から赦しは出ている。なんだ、英雄王。俺が主を手伝うと何かまずい理由でもあるのか?」

しっしっ!と追い払う仕種をするが、家政夫サーヴァント・ディルムッドはどこ吹く風といった感じで軽くギルガメッシュの言葉を受け流した。泥によって自分を見失っていた頃とは大違いである。もし彼が未だ泥に紛れた呪いに囚われていたのなら、売り言葉に買い言葉、後に乱闘へと発展していたであろう。


従者のそのまた従者に問われ、ギルガメッシュは少し考え込むと、家政夫をあらん限りに睨み付けてびしりと指を差す。


「……ホットケーキがまずくなる!」
「それは気持ちの問題ですよね」


名前のツッコミを「黙れ」と一蹴した古来の王は彼女に対する雑言罵倒を放とうとするが、それは敵わなかった。

「おい、さっさと──」
「主、一枚焼き上がりましたので次を…」


タイミングを見計らったかのように、ディルムッドが言葉を被せてきたのである。
実際は良い具合に焼き上がったホットケーキを皿に移し終えたので名前に声を掛けただけだったのだが、ギルガメッシュには牽制しているかのように感じた。

それ以上の主への苦言は許さない、と言っているかのように。


「ああ、はい。いやー、でも手伝いがいると結構楽ですね」
「そうなんですか?」
「はい。さっきだって手離せない時にヘラとか準備し忘れてたの思い出したけどオディナさん準備して下さったですし。今も分担出来てるし」
「………英雄王は?」
「ギルガメッシュさんは食べる係と時たまお皿を準備する係です」
「……………」


牽制に続いて「お前は何をやっているんだ」と言わんばかりの視線を送られる。
庶民王と名乗りをしても、元を辿れば世界を我が物とし、幾人もの従者・奴隷を所有していた王である。王が何故自分の世話をしなければならないのか、という庶民とは名ばかりの王らしい思考回路は捨てきれずにいたのだった。
だが、庶民王ならば庶民らしくそれなりに庶民的な生活をしていたのだろうと考えていたディルムッドとしては、何の家事もせずゲームや食事、惰眠を貪る彼の行動は信じ難いものだったのである。王と従者は互いに在り方が違うものなのだから、考え方や生き方に相違が生じることは仕方のないことと言っていいだろう。


「何だ、家政夫如きが図に乗るか。主を一度殺し呪いに呪われた貴様を救おうと手を貸してやった我に、不平不満でもあるのか?」
「…いや……」


そのことを引き合いに出されては、ディルムッドは口を噤むしかない。言いたげな視線をホットケーキに落とし、無言でそれをひっくり返した。


「あー、はいはい。もういいですよね。終わったことなんですから」
「しかし…英雄王の言うことは尤もです。俺は貴方を…」
「気にしないってお互い納得しましたよね。懺悔する暇あるならホットケーキ見ていてください」
「…っ…承知した!」


ホットケーキを見ろと命じられたものの、ディルムッドの瞳は主人を見ている。その瞳は敬愛と、尊敬と、憧憬の色に染まっていた。
そんな瞳で見られている主人は内心「この先また言い合いになったら私が止めないとならないのか…」と面倒臭がっているのだが、ディルムッドは知る由もない。


「主、夕飯も是非俺に手伝わせてください」
「…やることないならお願いしてもいいですか?」
「はい、喜んで」


「…………」


こうして積み上げられていく主と従者の関係を、ギルガメッシュは眺める他なかった。自分とて名前の主ではあるが、それはただの言葉の上にしか存在していない関係である。その一方で、ディルムッドと名前はサーヴァントとマスターという目に見えた関係が存在している。

別にそれは構わない。

僕(しもべ)が一人増えただけで、若干部屋が狭くなった気はするものの、名前が仕事でいない間も不自由をせずに済むようになったのだ。

だが、自分が名前に命じたことにディルムッドが主の命令は我が命令と当然だといった顔で入ってこられると、些か苛立ちが募った。


何故かは知らない。
英雄王はこの臓物が煮え返るような感覚の名前など、知ろうとも思わなかった。
その感情を彼女に向けるのは、己の自尊心がそれを許してはいなかったからだ。



「ギルガメッシュさん、三枚だけですけど出来ましたよ。熱いうちに食べません?」



自分がこんなにも苛々しているというのに、名前は疑問にも思わないでこちらに問いを掛けてくるのだから、余計に腹立たしい。

「……要らん」
「は?」
「そんな腐れ家政夫サーヴァントが手を出したホットケーキなど食えるか!」



テーブルを勢いよく叩きながら立ち上がり、ソファーにかかっていたジャケットを羽織る。名前がギルガメッシュの名を呼んで止めようとするも、ディルムッドがそれを静かに制した。不機嫌指数が上昇している男の気を立たせないように、という配慮であったが、この状況を生み出した元凶を辿れば彼なのだから、そう考えると何とも言い難い行為である。元凶である彼が彼女の行動を諌めて何がどうなるのだろうか。



やや乱暴にドアを開けて彼がアパートから出ていく音は、名前にはやけに響いて聞こえた。