「どうりで一段と寒いわけだ。主、雪ですよ、雪」
「…あ、ほんとだ」
大粒の雪がちらついたかと思えば、段々と空全体が白くなっていく。夕闇に染まりつつあった空の色は、雪が降り出したことによって瞬く間に白夜のように様変わりしていた。
「積もるでしょうか」
「どうでしょう。平年はそんなに積もらないんですけど……」
積もったら面倒だ。雪かきをしなければいけないし、慣れない雪道でコペンハーゲンへ行くのに時間がかかってしまう。
何より、寒いし怠い。
…そして、どうしても雪を見ると物憂げな表情を浮かべた切嗣さんを思い出してしまう。雪が降ると気が何処かへ消えてしまいそうな…暗い、とても暗い影を背負った切嗣さんを。
「──……、…」
「…主……主…………ナマエ様!」
「……あ、すいません。ぼーっとしちゃって…駄目ですね」
切嗣さんのことを考えるとどうも思考の海に沈んでしまうらしい。
一言謝れば、何か言いたげな顔をしたオディナさんの視線が逸らされる。
「……貴女は疲れている。…正月は、ゆっくり過ごしましょう」
繋がれていた手がそっと解かれて、指が絡み合った握り方へと変わる。
少し汗ばんだ手ではあったが、氷のように冷たいよりかは何倍も良かった。
アパートの前まで、私達は無言で歩いた。その間にも雪はしんしんと降り続き、冬木を優しく、そして冷たく覆っていった。きっと明日は何処もかしこも雪景色になっていることだろう。
憂鬱でしかない。
軽く溜息をつけば、白くなった息が口から出ていき、空気に溶けていった。こんな風に雪も直ぐさま溶けてしまえばいいのにと思う。世の中なかなか上手くは出来ていないものである。
アパートへ着く頃には、私もオディナさんも頭や肩に少し雪が積もっていた。互いに叩いて雪を落としていると、オディナさんが私の名前を呼んだ。応えようと口を開きかけた瞬間、耳が冷気に晒される。
それもその筈だ。耳当ては彼によって奪い取られてしまったのだから。
「っ、寒い……ちょっとオディナ、さん………」
何だ、急に。寒い。新しいスキンシップか何かか。
耳を押さえながら抗議しようと見上げれば、そこには真面目な表情のオディナさんが私を見ていた。
いつもと雰囲気が違う。
優しさと甘さに浸っている瞳が、いつになく真っ直ぐで、鋭い。私が通帳を見て頭を抱えていたところに進言してきた時も真剣な顔ではあったが、それとは訳が違った。寒い外の筈なのに、じんわりと汗が滲むような感覚。ふざけることは出来そうにない。
彼と視線が合った時から、私は緊張していた。
私の目の前には、サーヴァントでも、ましてや家政婦でもない。一人の騎士が立っている。
「──寒くなると、」
「…?」
「ほとんど太陽を拝むことが出来なくなり、一日中夜が続き、森も村も何もかもが闇に沈んでしまう土地があるのですが」
「…はい」
「この季節になると…死を司る神であるオーディンを筆頭に、死霊やら怨霊が辺りを彷徨うのです。生きている者を見付ければ、魂を奪われるか…あちらに連れ去られてしまう」
怖い話でも始めるのかと思ったが、オディナさんの顔を見る限り多分違う。
「…主が、故人をお慕いしているのは以前から知っています。…決して知るつもりは、なかったのですが」
「…ああ、別に隠すつもりもなかったので大丈夫ですよ」
「………故人に想いを馳せる貴女が──…」
今まで真っ直ぐに向けられていた瞳が、段々と下がっていく。あんなにも真剣な表情が、メッキを剥がされたようにボロボロと崩れていき、仕舞いには不安げなものへと変わっていった。
「──故人に連れられてしまうのではないかと……そう考えてしまうことが、あります」
その言葉は、静かに降る雪の中に溶けて消えた。
「…………随分と非現実的な悩みですね」
「…主は怨霊と成り下がった俺を思い出してもそう言えますか」
……ああ、確かに。
記録で見たオディナさんは、本当に怖かった。何度か夢にも出てきたし、それによる寝不足で良くも悪くもあんな目にも遭ってしまった。
「…でも、ほら、日本の死者は彼岸の頃しか帰って来ないですし。大体、あの人が私を連れ去るなんて有り得ないですよ」
……連れ去るとしたら、それは多分違う人だ。
私の知らない、切嗣さんが心の底から愛していた人。
心の中でそう付け加え、彼の手中に収まる耳当てを取り戻す。まったく、何を言い出すのかと思いきや、ナンセンスな話だ。けど、また女の人からストーカー被害を受けているとかではなくて良かった。あれは面倒臭かった。色々と。
「初詣はオディナさんの無駄な心配性がなくなることを願わなくちゃならないですね」
「…では、俺は主が消えてしまうことがないように願いましょう」
冗談のつもりがくそ真面目に返ってきてしまった。
ついでに冗談も通じるように願わなくてはならないようだ。
「私は死ぬまでこの冬木を離れるつもりとか毛頭ないですから、そんな悩みはさっさとゴミ箱にでも突っ込んで下さい」
「……善処致します」
するのか、本当に。
…という突っ込みは、答えの見えない話を延々と始めなければならない事態に陥りそうな気がしたので、止めておいた。寒いし、何よりお腹が空いた。空腹は苛立ちと自棄、そして争いしか生まないのである。
未だ情けない顔をしているオディナさんを半ば無理矢理連れて、部屋のドアを開く。そこには真顔で仁王立ちしたギルガメッシュさんがいた。スウェット姿なので、ほとんど威厳を感じられない。
「遅い。貴様らはブランチュールすら長時間かけなければ買いに行けんのか」
中に入らせてくれないかな。寒い。ドア開けっぱだから暖まった空気が逃げて行ってしまう。そんなことには気付かないのか、ギルガメッシュさんは咎める姿勢を崩そうとはしない。とことん私を問い詰めて、気が収まるまで中には入れないつもりだ。
お前はいつからこの部屋の主になったのか。
「…雪降ってたんですよ。足場悪くて…あと、今日の夕飯の調達もしてたので」
「…今日は何だ」
「トマト鍋です」
「ほう……味次第では、この件、不問にしてやらなくもないぞ。さあ作れ!」
「まずは靴脱がせてください」
「早く脱げ」
居間に退散するギルガメッシュさんの後ろ姿をしっしと追い払う。これで「部屋が寒い」などとほざかれたら毛根が根絶やしになってしまいそうだ。
雪に塗れた靴を脱いでさっさと玄関を上がり、振り返れば未だ玄関にすら入っていないオディナさんがいた。
「オディナさん、中入って下さい。寒い」
「……主の居場所は、此処、で間違いありませんか」
まだ先程の話は、彼の中では終わってなかったらしい。無意識に、眉間へ皺が寄る。
いい加減くどい。
「オディナさん──」
「─────」
その時、彼の薄い唇が開かれ、何かを呟いた。その零された言葉がどんな内容のものであったかは、生憎私には聞き取れなかったが。
「すいません、何て?」
「……いえ、先程から申し訳ありません。この心配性は、今年中にはどうにか致します」
「いっそ除夜の鐘で煩悩と一緒に消してもらったらどうです」
「…!主、なかなか良い策をお考えになりますね…」
除夜の鐘が何たるかは知っていたみたいだ。
神妙な顔で「俺は思い付きすらしなかった」と述べるオディナさんに早く扉を閉めて上がるよう促すと、今度は素直にこちらへやって来た。
「主、玉葱は俺が…」
「分かってますって」
「名前、トマト鍋はまだか」
「まだ野菜の封切ってすらいないんですけど」
「それはお前の要領が悪い所為だ」
防寒着を脱いで、手洗いうがいをして、オディナさんが持って来てくれたエプロンを身につける。
「いつか、近い未来……貴方が此処から消えてしまう気がして、ならないのですよ」
そんなことを呟いたオディナさんの杞憂も知らないまま、私はギルガメッシュさんの厭味をかわしながら野菜の封を切ろうと包丁を手にとった。
もう少しで、年が明ける。
白を怖れて