右心室と汚い揶揄 | ナノ
忠誠を誓うべき相手であるケイネス・エルメロイ・アーチボルトという御方は、許嫁であるソラウ様が俺の魔貌に心を掻き乱されてしまってからというもの、俺に対しての態度は無機質なものから冷たくぞんざいなものになってしまった。勿論ケイネス殿が何を思っているかは心中を察せずとも分かっているので俺が何を言っても解決出来ような問題ではない。それに、彼が俺に対して溢れんばかりの憎悪を抱いていようとも俺は俺の願いである忠義を尽くすことが出来れば何も文句は言わない。俺は黙ってケイネス殿が望むままに動ければそれ以上の幸せなんて有り得ないのだ。




──時計塔のとある一室。他の部屋とは一回りも二回りも違う広さを持つケイネス殿専用の部屋でいつもの如く霊体のまま我が主の後ろに控えていると、控え目なノックが二度繰り返された後「苗字です」と女の声がドア越しから響く。ケイネス殿は書類に目を落としたまま「入りたまえ」と入室を促した。
入って来たのは東洋人のような顔立ちをした女だった。年は十代後半から二十代前半だろうか。女は静かにドアを閉めるとケイネス殿の方を振り返り、にっこりと明るさを感じる笑みを作った。

「アーチボルト先生が私に用なんて珍しいですね。明日は水銀が降るのかな」

悪戯っ子のように笑う女にてっきりケイネス殿は怒鳴るか締め出すかするのだと思っていたが、彼は少しだけ眉間に皺を寄せて溜息を吐き出すだけだった。

「君の減らず口は相変わらずだな……まあいい。ナマエ、君は以前聖杯戦争に興味があると言っていたな」
「!…ええ、そうですね。聖杯戦争は魔術師の誰もが憧れるものでしょう。己の技量や限界を思い知ることが出来ますし、何より魔術師同士が命を懸けて競い合いが出来るでしょう?」
「ああ、君の言う通りだ。…で、君は日本では名高い家系の生まれであり、魔術師としての素質は充分にある。時計塔に入ってから首席の座は誰にも譲らず、それでも決して驕ることはなく向上心は忘れず勉学に励んでいる…」
「お褒めに預かり光栄の至りです、先生。ですが私の成績と聖杯戦争に何か関係がおありで?」

どうやらそれなりに実力はあるらしい。少し頬を赤く染めた女は口元を緩ませてケイネス殿に尋ねる。

「ナマエ、私の補佐となって聖杯戦争に参加する気はないかね」
「……ジョークですか?」
「…私がジョークを言うような人間に見えるのなら時計塔を自主退学して、入学し直してまた一からやり直すといい」
「いやいや…え、いいんですか?私なんかで」
「日本人はいちいち謙遜しなければならない規則でもあるのか?」
「美徳なんですよ。…私で良ければ是非お付き合いさせて下さいませ、先生」

にこりと笑う女にケイネス殿は顔色を変えずに「決まりだな」と頷き、書類を机の引き出しにしまい込むと「ランサー、出て来るがいい」と俺に実体化するように促した。ケイネス殿の僅かに憎悪を含ませた声に気付かない振りをしながら霊体から実体化し、彼の足元に跪く。そうすれば女は感嘆の声を漏らした。

「私の召喚したサーヴァントだ」
「ランサーって言ったら三大騎士クラスの一角を担うサーヴァントですよね。アサシンじゃなくて安心しました」

女は遠慮のない視線でじろじろと顔を下げている俺を眺めていたが、ケイネス殿の咳ばらいで我に返ったのか姿勢を正して彼の方に向き直った。

「日本には明後日の早朝に発つ予定だ。それまでに両親に報告を──…いや……君は両親を亡くしているのだったな」
「はい。叔父と叔母なら健在なので戦争の参加の報告にはその二人にしてきます」
「きちんと伝えておくことだ。…今日中に荷物をまとめて出発する準備を整えておけ」
「分かりました」
「私はこれから少し工房に篭る。お前はサーヴァントと言葉を交わすのが夢なのだろう。今の内にその夢とやらを叶えても損はなかろう。サーヴァントに気をとられて敵に足元を掬われては堪らないからな」
「ありがとうございます、先生」
「戸締まりは頼んだぞ。鍵は明日返してくれれば良い。ランサー、お前はここで待機していろ」
「……御意」

ケイネス殿は鍵を女に渡すと足早に部屋から立ち去って行く。ぎぃ、と建物の古さを主張するようにドアが閉まった。女は鍵を弄んでいたが、未だ跪き顔を下げているままの俺を見て「真名は何なんだい?」と尋ねてくる。さっきとはだいぶ異なる砕けた口調に、こちらがこの女の素なのだと理解した。

「……ディルムッド・オディナ、と申します」
「ディルムッド・オディナ…ディルムッド……ああ、フィアナ騎士団のか!」
「左様で御座います」
「確かディルムッド・オディナには呪いのある黒子があるのだったかな?それを見るとたちまち女が君にイチコロだとか……ああ、君は私が君に魅了されてしまわないか不安なのか?…だからいつまで経っても君は顔を下げたままだ」
「……こればかりはどうにも制御出来ませんから」
「君の耳はお飾りか?さっきのアーチボルト先生と私の会話を聞いていた筈だと思うが、私はそこらの魔術師よりは格段に腕が立つし、対魔力についても劣らんよ。何だ、そんなにも君の黒子の呪いは強力なものなのかい?」

そう言うなりどかどかと音を立てて女は俺の目の前に立つと、しゃがみ込んでいきなり俺の顔を覗き込んでくる。暫くお互い黙り込んだまま見つめ合うように相手の顔を眺めていたが、この女の目にグラニアの時のように色を帯びることはなく、その目は好奇心一色で染まっていた。女は笑うと片手を俺に差し出してくる。


「ほら、何ともないだろう?苗字名前だ。気軽にナマエと呼んでくれよ」
「……私のことはランサーとお呼び下さい。ナマエ様」

握手をする為に差し出したであろう手を握ろうとするとその手は握る前に彼女の背中に隠れてしまった。真意が分からず顔を見ると、その顔はやや不満げである。

「『様』付けはやめてくれよ。そういう堅苦しいのは好まない性質なんだ。ここはアーチボルト先生が聖杯を手にする手助けを行う者同士、対等にいこう。敬語もなしだ。この条件を飲まないなら私は君に……そうだな、悪戯をしよう」

ケイネス殿と話している時と真逆で、子供らしいその言動と表情に本当にこの人は先程の彼女なのかと凝視していれば「それで、」と彼女は話を続ける。

「敬語はやめてくれるのかな」
「……ああ、そうしよう」
「よし、それじゃあ改めて」

よろしく。
ようやく差し出された手を握り締めれば、彼女はまたにっこりと笑う。色のない、さっぱりとした笑顔が似合っていた。


「温かいね、君の手は」


これが俺とナマエという女の出会いだった。