Fate | ナノ
賑わう街中から逃げるように、笑顔で溢れる人通りを避けるように早足で路地裏に入りこみ、そのまま真っ直ぐ進んでいく。目印にしている一昔前に流行していた女優のポスターが貼られているのを横目で確認し、角を右に曲がる。しゃがみ込んで独り言を呟く正気を失った浮浪者の隣を通り過ぎ、今度は左に曲がる。そうすれば、ぼろついた店が並ぶ中で、その店通りの中ではそこそこ清潔さを保っているこじんまりとした店が見えた。この店に対面するのは何度目だろうか。思い出せない。思い出せない程度にはここに来ているということは分かる。
ドアには微かに「CAFE」と書かれた見慣れたプレートが引っかけられていた。


「………」


よくもまあこんな穴場を見つけるものだと流血沙汰には一切無縁そうな顔をしている彼女を思い浮かべながら、誰も自分を見ていないか一度周りを見回す。……前に彼女が言っていた通り、ここには誰も近寄ることはないらしい。全ての人間から忘れ去られてしまったかのように、ここは静寂によって完全包囲されていた。
誰もいないことを確認し、ドアノブ──強く力をこめると壊れてしまいそうな上に、錆び付いている──を魔術回路を接続した右手で掴み、そっと右に回す。嫌に耳につく金属の擦れ合う音を立てて開いたドアの向こう側に素早く身を滑り込ませた。普通の店でこんなことをやれば不審な目で見られるだろうが、ここは彼女の「領域」であり、僕らの小さくて脆い「拠点」の一つなので、人の目を気にする必要など一切ない。



「いつも思いますけど、切嗣さんって早いですよね」
「……君には負けるけどね」

外装からは決して想像出来ないくらい綺麗に片付いた内装はいつ見ても違和感が拭えない。
指定された時刻よりもだいぶ早く着いたというのに、なまえは薄暗い明かりが点いた室内の中、一人椅子に座っていた。その手の中にはカップが包み込められている。湯気がたっているので先程淹れたものらしい。なまえは僕にとりあえず座るように言うと席を立ってカウンターの方に行き、なまえの使っているカップと同じものを持ってきてそれにコーヒーを注ぎ始めた。適当に椅子に腰掛けて、埃一つ見当たらないテーブルに視線を落とす。コーヒーが注がれる音のみが小部屋に響いた。クラシックの一曲や二曲が流れ、数人の囁くような談笑する声があれば落ち着きのある喫茶店と勘違いしても仕方がないだろう。だがクラシックも流れなければ談笑する声もせず、様々な結界が張り巡らされていれば寛ごうという気にはなれなかった。…元々寛ぐつもりで来た訳ではないが。

「いつ来ても此処は人が住んでるような気がするよ」
「そりゃあいつも使ってますからね」


…勉強会で。
少し訝しげな視線で見られていることに気付いたのか、最後にそう付け足したなまえは僕の前にカップを置いて自らも椅子に座る。

「いつもアインツベルンの所で極上の珈琲飲んでる貴方からすればただの泥水でしかありませんが、良ければ」
「いただくよ。なまえの淹れるコーヒーは美味しい」
「……私おだてても何も出ませんよ」
「出るだろう。情報が」
「いやいや…私が知り得た情報は全て提供してるじゃないですか。何か私が情報を隠してるみたいな言い方やめて下さいよ」
「冗談だよ」

お互い軽く笑い合ってからカップを手にとる。彼女の言う通りアインツベルンでは最高級の豆と軟水によるコーヒーと比べればなまえの淹れたインスタントのコーヒーはただの泥水か、それ以下だ。でも僕としてはこちらの泥水に馴れ親しんでいたし、飲んだ気もする。一口啜り、やっぱりコーヒーはインスタントが一番だとしみじみ実感していると「最近どうですか」となまえの問いがとんできた。こうしてなまえとの報告連絡をする際に必ず行われる質問だ。何が、なんて聞き返す必要もなく僕は小さな愛娘のことを思い出す。

「…僕の後ろをついてまわるようになった」
「そっか。可愛らしいですね。……あ、そうだ。ずっと訊きたいことがあったんですけど、やっぱほら、あれ強かったですか?」
「あれって何だい」
「よく本とかドラマで描写されるじゃないですか。赤ちゃんの掌に指置いたら強い力で握られるとかそういうの。私赤ちゃんと触れ合う機会なんて今までなかったですからよく分からなくて」
「……強かったよ。とても」

僕の返事になまえは「いいな」と一言漏らし、カップの中に残るコーヒーに目を落とした。何が「いいな」なのかは、分からなかった。(多分、何が「いいな」なのかを知ってしまったら、僕はなまえを、衛宮切嗣を造り上げる一つの要素として見れなくなるということに本能が感じ取っていたのかもしれない。)


暫くなまえはコーヒーを見つめていたが、ふと顔を上げると「昨日の講義の話なんですけどね」と時計塔で起きたことをぼそぼそと話し始める。僕は時折相槌を打ちながら、コーヒーを啜り彼女の話に耳を傾けた。世間からすれば何の変哲もない、ありふれた話の内容だ。だが体験したなまえにとって、体験談を聴く僕にとっては何もかもが新鮮に満ち溢れたものだった。お互いがお互いろくでもない人生を歩んでいるからこそ、こんな日常的な話を楽しむことが出来る。


なまえと話すとまるで旧知の友人と話をしているような感覚に陥ることがあった。僕には生来親しい友人なんて存在しないし、長年共に道を歩んでいる舞弥はそういう類のものではない。友人と呼べる人間がいないというのにそのような感覚を知るなんて馬鹿馬鹿しい。旧知の友人がいたのだと勘違いしてしまうほどなまえと話すこの時間を僕はとても心地の好いものだと感じていた。水面下で着々と進めている戦争の準備をしている中での、何気ない幸せ。アイリやイリヤと過ごす幸せな時間とはまた違う幸福。それと同時にこのまま彼女と話し、幸福を感じつづけることは僕自身を駄目にしてしまうという警報が常に僕の脳内を支配していた。






「──…切嗣さん。私、この任務を頼まれて良かったです」
「…!」

なまえの初めて見る表情に内心驚きながら、言葉の続きを待つ。彼女は今まで僕が言い渡してきた任務には顔色一つ変えず、ただ淡々とやるべきことをこなしてきていたから。冷徹に、そこに感情など存在していないかのように。それなのに目の前にいるみょうじなまえは今まで見てきたどの表情よりも穏やかで、優しさに満ちていた。

「今までヒトらしい人生を歩んでこれなかった私にとって今の長期任務は楽しくて──あ、勿論ちゃんと気持ちは切り替えて仕事はしてますよ。でも、偽りでもこんな普通の人間の生活が送れるんだなって思うと嬉しくて」
「…………」

僕がなまえに言い渡した任務は「時計塔に一学生として潜入し、聖杯戦争への参加を目論んでいるケイネス・エルメロイ・アーチボルトの情報を入手すること」だ。なまえにとって学生として生活することはどうやら頑なに張り付けて守り続けてきた仮面をあっさり剥がしてしまうくらいに、充実しているらしい。

「……そうか」
「ええ。だからお礼を言っておきたくて。ちゃんと冬木で会えるか分からないし」


聖杯を手に入れることが出来れば、なまえに任務を言い渡すことなんてことはもうしなくていい。この長期任務の間でしか見ることができそうにない笑顔が、いつでも見れるようになる。

無言で立ち上がったなまえは、カウンターの隅に置いてあった紙袋を手に取ると無言で僕の前に紙袋を置いた。同じく無言で中身を覗き見れば、コーヒーの絵がプリントされた箱が幾つも詰められた中に分厚い紙の束が入っていた。…これは彼女が集めたケイネスに関する資料と見て間違いないだろう。

「ありがとう。城でゆっくり飲むとするよ」
「じっくり味わってくださいね」

シニカルな笑みを浮かべたなまえはコーヒーを一気に呷ると僕には目もくれずカップを片付け始めた。どうやらこれでお開きにするつもりらしい。呆気ない終わりだが、元々僕は資料を受け取る為にわざわざイギリスまで足を運んだのだ。資料を受けとった今、僕はもう此処にいる意味なんて、ない。


「……僕はもう行くよ」
「切嗣さん」
「……?」

ドアノブに手を触れたとき、後ろからなまえの声が僕を引き止めた。振り返ろうとすれば、背中に温かい温もりと、腹に手がまわされる。僕は中途半端になまえの頭にあるつむじを見る状態になった。なまえは僕の背中に顔を埋めたまま、くぐもった声で言葉を紡いでいく。




私、貴方の武器の一つとして生きてきてよかった。貴方がいたから私はこうして少しの間だけでも幸せを掴めることができた。だから…私を武器として扱ったことを責めるなんて、そんな馬鹿なことはしないでください。




返事をする間もなく、ドアノブに触れていた手の上からなまえの冷えた手が重なり、右に回されると同時に僕は外へと押し出された。振り向けど、既に扉は閉ざされている。


試しにドアノブを捻ってみようとしたが、ドアノブはぴくりとも動かなかった。


「…………」


なまえのことだから、僕が任務を言い渡した際に言った「情報提供後は冬木で合図を送るまで互いに連絡をとることはしないこと」という命を忠実に守っているのだろう。…開いたとしても僕はなまえにどんな言葉をかければいいか分からなかったから、このままで良かったのかもしれない。



あの日なまえを武器として使えると判断した僕を責めることを禁じられた今、僕は彼女を一時の間だけでも幸福に浸らせたことを幸せに思うべきなのだろうか……?


次になまえと会うのは聖杯戦争が始まってからだ。その頃になれば、なまえは今の幸せを無理矢理にでも忘れて僕以外のマスターを殺すことに専念するだろう。僕の手となり、足となり、僕らの理想を隔てるもの全てを潰す人間兵器に──僕がただ一つ彼女に望むそれになる。それは人間という概念を棄て感情を忘れた彼女を扱うこちらとしては、とても好都合であり、そしてある意味幸せでもあった。


(……インスタントコーヒー、アイリは嫌がるかな)


何故僕の一部分であるなまえの幸せの定義は僕と違うのだろう、なんて問いかけの簡単な答えを出さないまま、僕は先程通った道を歩いていく。

なまえの銃器の如く冷たい手が本当に銃器だったなら僕は偽りの幸せを信じ込むことなく幸せに浸れたのに、どうしてこうもいかないのか。

煙草をくわえた拍子に頬を伝い落ちた水滴が空から落ちてきたものかそうじゃないかなんて、僕は知らない。


冷たい両手で抱き締めて

主催企画「多幸感」提出