Fate | ナノ
※後半部分に若干グロテスクな表現が含まれます



間桐雁夜とは高校から同級生として知り合い、高校を卒業してお互い違う職の道を歩んでからも連絡を取り合う友人という間柄だ。違う職といっても雁夜はルポライター、私は雑誌編集者と一概には違う職と言いづらいかもしれない。記事を書く人間がいなければ雑誌はつくることが出来ないし、雑誌編集者がいなければ記事をまとめることは出来ない。所謂相互依存関係と呼べばいいのだろうか。尤も、雑誌を発行する出版社がなければルポライターも雑誌編集者も何も出来ないのだが、これ以上話を広げると本題が逸れてしまうので割愛しておくとして。旧友の誼みで雁夜の書き上げた記事を載せるのが私の仕事だった。


雁夜の書く記事は身内目から見ずとも内容は面白いの一言に尽きる。学生時代からの趣味である小旅行で向かった先にあったその地域に纏わる地方伝説や、最近起こった事件を独自の視線から捉えたもの、身近に起きた微笑ましい出来事エトセトラ。幅広いジャンルを書き綴っていることから毎回彼の書くコラムを楽しみにしている人は少なくなかった。上司からは「良いライターを見つけたな」と褒められ、同僚からは羨ましい限りだと自身が請け持つ仕事の愚痴を零された。そのことを酒を注いでやりながら雁夜に言えば、彼は「俺もお前が担当で良かったよ」と笑ってつまみを口にくわえた。雁夜は分け隔てなく人に接する良い奴だ。何か複雑な家庭の事情を持ち合わせていながらも、そのような仕草を見せずに笑うなんて真似は私には出来ない。雁夜は良い奴であり、そして強い奴でもあった。



***



数週間振りに会った雁夜は、約束した時間よりもだいぶ遅れてやって来た。雨の中傘も差さずに店内に入ってきた雁夜に手を上げれば、彼は酷く疲れた笑みを見せてパーカーのフードを脱ぎながら私の前に座る。

「大丈夫?体調が悪いなら無理して来なくても──」
「なぁ、なまえ」

俺、暫く原稿書けそうにないんだ。
私の言葉を遮った雁夜はズボンのポケットをあさり、くしゃくしゃになった原稿を私に渡してきた。普段なら一つも汚れも皺もないように、二重にファイルに入れて渡すくらい丁寧に原稿を扱う雁夜からは到底想像出来ない行為で、思わず私は呆気にとられてしまう。

「原稿料はいい。金なら全部お前がもらってくれ」
「ちょ、何かあったの?……家庭の事情?」

図星だったのか、そっと目を窓の方に逸らした雁夜は傘を差して歩く人々を眺めながら頬杖をついた。その目に通り過ぎていく人々がちゃんと映っていたかは私には分からなかったが。

「数年は戻れないかもしれないから、俺の知り合いのライター紹介しとくよ。もう連絡は入れてるから」
「………」
「もし──いや、絶対また戻ってくるから。お前に紹介したい女の子がいるから、その時紹介するよ」
「…そう。楽しみに待ってるね」
「ああ。待っててくれ。…じゃあ、急いでるから」

いつもなら。いつもなら珈琲を二、三度おかわりするくらい話をするのに。もう用はないとばかりに立ち上がった雁夜はふと思い出したように私を振り返り、険しい顔で「言っておくことがあった」と重々しく口を開いた。

「俺が戻ってくるまで深夜に街をうろつくことはするな」
「…どういうこと?」
「危険だからとしか言いようがない。約束してくれ」
「…分かった」

私が頷くのを見た雁夜はそれから暫く私の顔を見つめ、何も言わずに喫茶店を出て行った。傘も差さず、ただフードを被って街中を歩いていく彼はカラフルに染まるそこから見るととてもみすぼらしく見える。雁夜に一体何があったのだろう。あの忠告の意味は。

湯気の立たなくなった珈琲は酷く不味く、ひどく喉に絡み付いた。今更雁夜に尋ねようと思っても、彼の姿はもう見えない。



***



今、奴は何をしているだろう。

最後に雁夜と会ってから何ヶ月が経っただろうか。
デスクの上にあったコンパクトなカレンダーをペンでつつきながら時計を見る。午前一時。終電はとうに行ってしまったが、まだ仕事は残っている。上司の尻拭いを何故私がやらなければならないのか全くもって理解できないが、ここで刃向かおうものなら私の立場が悪くなるだけだ。くそ、と呟いても目の前の真っ白な書類が黒で埋めつくされることはない。

ペン胝のできた指でペンを握り直し、社会人として培ってきたありったけの知識を活用し、上司の尻を拭う言葉を書き綴る。書き綴りながら、頭では別のことに思考の目を向けていた。

無論それは雁夜のことだ。

未だに彼は私の前には現れない。何度か彼の借りているアパートを訪ねても、いつも無人状態で、いつしかそこは空き部屋として扱われてしまっていた。
紹介したいと言っていた女の子の名前でも聞いていれば、それは雁夜を捜す手がかりの一つになっていたかもしれない。
何回とも分からない後悔の念に苛まれながら、それを打ち消すようにペンを握る手に力を込めた。



***



途中から若干いびつさが出てきた始末書を書き終わり、徒歩での帰宅を余儀なくされた私は肩を解すようにまわして社会人になってからお世話になっている鞄を手にとる。こんなに遅い退社で金の一つにもならないのだから、最近の日本はおかしい。どいつもこいつも社蓄に成り下がり、文句を言いながら自らの睡眠時間を削ってまで仕事に打ち込む姿は外人の視点からすれば何と見られるだろう。学生の頃、放課後の教室で雁夜と将来の夢について語り合ったことがあった。あの時私は「土日休みで残業なしの仕事であればいい」と、今の私が聞くとただの甘ったれな夢を語っていた筈だ。それはただの何気ない夢だというのに、甘ったれだと、呑気だと思ってしまうくらいに私はいつの間にか変わってしまった。


私の夢を聞いた雁夜は少しおかしそうに目を細めたが、「なまえらしいよ」と言って笑ってくれたっけ。懐かしい思い出に気を緩ませながら、会社の階段を歩く。彼の忠告を聞かないのはこれで何度目だろう。忠告された数日後、今日のように残業で退社時間が大幅に遅れた時は戦々恐々としながら帰ったがさして問題もなく帰宅に終わり、夜道を警戒しながら、時にはタクシーを使って帰った自分がすごく阿呆らしく思えたのだ。そしてそれを幾度か繰り返してから、段々と忠告される前のように徒歩で帰るようになった。そもそもだ。何故雁夜があんなことを私に言ったのか、まったく理由が分からない。雁夜が無駄なことをする奴でないことは分かっているが、私は何事もなく、不変的で平凡な毎日を送り続けている。雁夜が消えたこと以外に、私の世界に変化はない。雁夜は私に何か危険が迫ると察知して忠告をしてくれたのか?例えば今冬木で起こっている児童誘拐事件のことを予期していたとか──…だがあの事件はその名の通り児童を中心とした誘拐であるから、私はその対象には入らないだろう。…何か、マスコミもまだ嗅ぎ付けていない事件でもあるというのだろうか。

元々人通りのない道だった所為か、薄暗いままの街頭が並ぶ道をひたすら歩き、角を曲がる。


そういえば、あの時雁夜はどんな夢を語っていたんだったか──………っ?




あっという間の出来事だった。突然頭に衝撃が走り、一瞬気味の悪い紫色の「何か」が視界の隅を横切る。それから目の前にシャッターが下りたかのように、私は意識を手放した。




***




今思えば、私は奴のことが好きだったのかもしれない。



激しく肩を揺さ振られ、何故かとても重い瞼を開けると、真っ赤に染まった視界の中に白髪の男が何か私に向かって叫んでいた。髪はだいぶ伸びている上に、左の皮膚が火傷にでもあったかのように爛れ、見るに堪えないものになっている。それでも、右の目の、あの寂しさと優しさと、少しの憎しみがこめられた目だけは何も変わっていない。


私が会いたくてたまらなかった雁夜だった。


しきりに動く口の形をぼんやりと見詰めていれば、それは私の名前を呼んでいるのだということに気付く。口を開こうにも溢れるのは血ばかりで、必死に視線を下に向ければ、私の体は見るも無惨にぐちゃぐちゃになっていた。痛みはないが、これじゃあ雁夜をうちに連れて行けないし、帰ることもままならない。……私はここで死んでいくのだろうと、本能的に悟る。


今までどこで何してたの。
その顔痛そうだけど大丈夫なの。
左目は見えてるの。
そういえば紹介するって言っていた女の子の名前を教えてよ。
雁夜の原稿がやっぱり一番読んでて楽しいよ。

忠告、守らなくてごめんなさい。


言いたいことはたくさんあるのに、口は動いてくれない。痛々しい雁夜の頬を撫でてやろうにも手は行方知らずだ。目の前にいる雁夜は時折苦しげな表情になりながら、それでも私の名を呼んだ。私が死んだら、彼は悲しんでくれるのだろうか。雁夜はいつだって──そう、いつだって私のような平々凡々な一般人とは違う別の道を進んでいた気がしていたから。…私は雁夜の日常の一欠片として存在出来ていたのか、分からなかったから。





──学生の頃、放課後の教室で雁夜と将来の夢について語り合ったことがあった。あの時私は「土日休みで残業なしの仕事であればいい」と、今の私が聞くとただの甘ったれな夢を語っていた筈だ。私の夢を聞いた雁夜は少しおかしそうに目を細めたが、「なまえらしいよ」と言って笑ってくれた。私はどこかその笑いが馬鹿にしているように見えたのだ。「雁夜の夢は何なのさ」と少しふて腐れながら訊くと、雁夜はそんな私に軽く謝ってから考えるように窓の外に顔を向ける。空は橙色に染まり、空以上に赤く染まる太陽を眩しそうに見つめる雁夜はとても様になっていた。

「──そうだな、俺は…」


好きな人を影からでもいいから支えて、助けてやれたらいいな。


照れ臭そうにそう言う雁夜は今まで見てきた奴のどの表情よりも綺麗で、哀愁に帯びていると感じた。それと同時に、奴には自己が犠牲になってもいいくらいに想っている人間がいるのだと悟る。その人間が私でないことも。

「叶うといいね。その夢」
「ああ」


ねえ雁夜、そういえば昔言っていた夢は叶えることが出来たの?


あの日の続きの話をしたいのに、こんなにも真っ暗闇の中では雁夜の照れ臭い笑顔も思い出せそうにない。

なすべくしてなった命ならわたしはそのままでいい
3/22 Happy Birthday Dear Kariya!
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