Fate | ナノ
───喫煙とは、緩慢な自殺である。



その男は気怠そうな表情で懐からくたびれた箱を取り出し、一本の煙草を咥えた。スラックスのポケットからは上質そうな古めのジッポーが取り出された。ジッポーの蓋を親指で弾き、発火石を回し火を灯すと煙草の先端へ移していく。その火はじわりじわりと葉を燻していき、その葉の風味や香りを引き出していった。男は主流煙をゆっくりと、静かに自らの肺に取り込み、煙の香りや苦さを存分に堪能した後、副流煙として周囲の人間を緩慢に殺す煙を撒き散らしていった。その顔ははじめの気怠そうな表情から一変し、少しばかり綻んでいる。中毒性のあるニコチンを摂取したことで幾らか気が紛れたのかもしれない。



───喫煙とは、緩慢な他殺である。




私は口を手で覆い、辺りに漂う煙を払うようにもう片手で扇ぐ。それでも煙草独特の、嫌な臭いが僅かに鼻腔を擽る。嫌悪感剥き出しの私を見て、彼は──巌窟王は、鼻で笑った。まったくもって不愉快になる笑い方だった。私に英霊を殺す力があれば瞬殺しているところである。ただの魔術師の端くれのそのまた端くれであることが残念でならない。


このカルデア内に何騎かの愛煙家のサーヴァントが現界してからというもの、こじんまりとはしているものの、喫煙室が増設された。ドクターはマスターのサポートに健康管理、オペレートとなかなか忙しく、設備の充実に充てる余裕がない今、そんなことが出来るのはあの爆破から上手い具合に逃れることが出来た下っ端である私しかいなかった。私は彼のように医療に詳しいわけでもなく、マスターのサポートが出来るほど器用な人間ではない。どちらかといえば料理や洗濯、掃除などといった身の回りの世話をする方が性に合っている。

そんな仕事も、赤い外套を纏った英霊に殆ど奪われつつあるのだが。


殆どの仕事を取られてしまい雑用代表と化した私は、有り難迷惑な赤い外套の申し出を何とか振り切り喫煙室を一から一人で作った。これから増えるかもしれないであろう喫煙者サーヴァントのことも考え、部屋はそこそこ広くし、煙草の煙が直ぐさま吸収されるようにと換気扇も幾つか設置した。愛煙家サーヴァント達の要望も聞いて居心地が良くなるようにソファーも置いたし、ダ・ヴィンチちゃんが気まぐれに描いて私に寄越した絵もその壁に飾った。私の部屋で育ち過ぎた観葉植物も一部そちらに移動させた。お陰様で愛煙家サーヴァントからは居心地が良いと好評で、煙草の煙を嫌うサーヴァントからも感謝された。


問題はない。不満が上がることもない。


「まだこれには慣れないか」



私に向かって煙を吐き出しながらそう言葉を投げ掛けるこの男以外のことで、問題はなかった。


嫌悪感を剥き出しにする私の顔を見て、「ハッ」と嘲笑う彼に、非喫煙者を気遣う素振りは見えない。見えていたら、こんな廊下で堂々と喫煙する筈がないのである。

「喫煙は喫煙室でして下さい」
「断る。俺は今、この廊下で吸いたい気分だ」


確かこの前は食堂、その前は医務室だった。場所なんてものは選ばずに、煙草を嫌う私の前ですぱすぱ吸うのだ。

いつでもどこでも吸う男!その名はエドモン・ダンテス!

それだけでもタチが悪いのに、私が一人で何かしら仕事やら作業やらをしているところを狙ってやってくるところなんて更にタチが悪い。そのくせマスターの前では、私に嗅がせるが如く煙草を吸っているような素振りなど何も見せずにおすまし顔で、マスターの方へ副流煙がいかないような場所で吸うのだ。猫被りもいいところである。

マスターの前では優等生ぶる男!エドモン・ダンテス!
小憎たらしいにも程がある。


「こんな所で何をしている?」
「何って…見れば分かるでしょう。壁の補修作業です」


壁だった物の残骸の中で黙々と直している私の姿を煙草を吸いながら眺めていたのに、わざわざ訊くやつがあるか。



「今度は誰がやった」
「酒呑さんに煽られた金時さんがおおきく振りかぶって、どかんと」
「フッ………クハハハハハッ!!バーサーカーが本能のままにその身を怒りに任せれば施設の破壊は免れんだろうに…!制御出来ぬその憤怒と剛力には恐れ入る……面白い!」



いや、全然、まったく、これっぽっちも面白くないよね。

一体、どこにそんな高笑いする要素があるのか。
全然面白くもないし、またもや施設の一部を破壊されたドクターはもう胃に穴が開いているかもしれない。

笑う巌窟王を傍らに、その辺の破片を手に取り、壁に貼り付けて物質の再構築を試みる。

アステリオスくんが、四、五人余裕で通り抜けられそうな穴も大方直ってきた。修復を試みて一時間経った頃。
そろそろ終わりそうだと伸びをしていたところ、突如現れた復讐者は「よっこらしょ」と当然の如く大きな破片の上に腰を下ろし、私の作業見物を行いながらいつものように一服し始めたのだった。
ここまでくると最早嫌がらせだ。吸いたくもない副流煙を吸わせるなんて、嫌がらせ以外に何があるというのだろう。私の真っ白で健康的な肺を、その体に纏う漆黒の炎の如く黒く染めて早死にさせたいのかもしれない……。


「…ちょっと」
「……何だ」

私の声掛けに応じながら、ふーと煙を吹きかけてくる害悪喫煙者から更に距離を置いて、椅子代わりにされている破片を指差す。
そろそろそのメインディッシュたる大きな破片を修復してしまいたかった。巌窟王にはお退きになっていただき、そのまま私の視界からもフェードアウトしていただきたかった。それが無理なら、巌窟王を壁に貼り付けて修復してしまいたい。



「それ直すので、どけてください」
「もう一服したい。待て」


………待て?
待て、しかして希望せよ、とでも言いたいのだろうか。煙草を吸い終わるのを待っていろとでも言うのだろうか。寿命を蝕む煙を延々と吸い続ける行為に希望もくそもあるか。むしろあるのは死に対する絶望しかない。
 
にやにやと薄気味悪い笑顔を浮かべながら私に向かって煙を吹き掛ける悪趣味の男に、小さな破片やら塵やらを投げてやる。相手は人間以上の能力を持つ英霊なので意味なんてないのは分かっているが、こうでもしないと気が収まらない。ああ神よ、神……神…私の願いを聞いてくれそうな優しい神様……神様が無理なら優しき聖女よ、どうかこの巫山戯た喫煙者に何かこう、手痛い罰とか、苦しみだとかを味合わせて欲しい。


「しかし、一向に慣れないな」
「慣れません。嫌いなので」
「クハッ、そうか。嫌いか」
「嫌いです」


「嫌い」と言えば言うほど、巌窟王は薄気味悪い笑顔から、目を細めて穏やかに笑った。私は彼を喜ばせるような言動は一切していないつもりだ。
なんだ。
巌窟王はマゾだったとでもいうのだろうか。
嫌いと言われて喜ぶ男…エドモン・ダンテス…?


「ナマエ」
「何ですか」


ちょいちょいと手招きされ、一瞬渋るも真顔で舌打ちされては近付くしかない。めちゃくちゃ行きたくないですオーラを出し惜しみなく漂わせ、のろのろと彼に近寄った。
巌窟王は破片に腰掛け私を見上げたまま、煙草を蒸かす。蜂蜜に似た、けれど甘くはない金色の瞳が私を見据えた。

……気まずい。見ないで欲しい。


ここにいるサーヴァントは揃いも揃って美男美女だ。特別これといった得意の魔術もない平々凡々である私には、ここは居心地が悪かった。ただただドクターや他のスタッフの指示を聞いて言われた仕事を行い、雑用を引き受けるだけで充分であり、こんな英霊と一対一の触れ合い体験なんて要らないのである。


微妙な空気が二人の間に流れる。
煙草の嫌な臭いが、妙に鼻についた。


「…ふっ」


奴が煙草から口を離した時、嫌な予感がした。
咄嗟に離れ、口元を押さえようにも手を掴まれては抵抗することは敵わない。人間離れした金の眼が一つ、間近にあった。反射的に息を止め、目も瞑ろうとするも、どうしてもその宝石のように輝く瞳から視線が離せない。一瞬遅れた反応にしまったと後悔するその前に、奴は口を開いた。




「いい加減さっさと慣れろ」
「っ…ぐあっ!……うぅ…」


直接細かいヤスリをかけられたような感覚が目に走ったと同時に、生理的な涙が目尻に溜まる。

痛い。
鋭い何かが刺さったみたいに、痛い。

ぎゅっと目を瞑り、力任せに腕を振り払いながら、両手で瞳を覆い隠す。その場にしゃがみ込めば、憎き巌窟王の腹立たしい笑い声が聞こえた。他人事のように笑うその声に、じわじわと涙が溢れてくる。
いじめられた…もうやだ…の悲しみによる涙ではない。何をするんだこの素っ頓狂、死に晒せ、の怒りによる涙だ。

「クハハハ」というその声音から笑い方にまで腹が立って思わず手を出したくなるのだから、本当に巌窟王は人を煽るのが上手い。よくもまあルーラーの二人はあそこまで挑発させられても怒らずに、むしろ巌窟王を不機嫌にさせることが出来るなと感心してしまうくらいだ。


「…本当何なんですか、あんた。こんなことして…そんなに人をからかって遊びたいなら、適材適所が色々居るでしょう……」

からかわれてすぐに怒る煽り甲斐のあるサーヴァントなんて、その辺に沢山いるだろうに…。


「…………さぁてな。俺を恨み、怒りの涙を零すくらいなら、俺に面白いと思われる自分を恨め!憎め!そして俺に復讐しろ!復讐者に復讐する機会は早々なかろう。一介の魔術師がサーヴァントに復讐を誓い、地獄の底まで追い詰める……それはそれで中々面白い話になりそうだ!」


一人でテンション上げて置いてけぼりにされるこの感覚は、英雄王ことギルガメッシュとマスターのやり取りを見ていて感じたことと同じだ。話を聞かない類のそれだ。
服の袖で目を擦り、薄目を開けて奴を睨むように見つめる。

どうやら、今の発言を解釈すると、巌窟王は私が仕返しに何かをすることを期待しているようだった。


「…何言ってるんですか」


何一人で盛り上がってるんですか。

「狂化スキルが付加しちゃったみたいなんだよね。だから巌窟王は“今日か”らバーサーカーだよ。“狂化”だけに!」とドクターに言われても「ふーん、成る程ね」と駄洒落には突っ込まないまま納得してしまう程には、理解し難い。

巌窟王は私の問い掛けに答えず、「仕事の邪魔をしたな」と口元のふざけた笑みは隠さないまま立ち上がり、マントを翻すとすたすたと廊下を歩き出した。煙草を吹きかけた謝罪なんて何もなく、去って行く。壁の一部が散らばった廊下の中で、間抜けにも涙目の私だけが残った。


……何だったんだ。くそ、くそ!
サーヴァントだからって調子に乗りやがって!



「こんのフレンチ野郎がっ!死ね!」



ゆっくりと立ち上がり、八つ当たりするように、今まで奴が腰掛けていた破片を蹴り飛ばす。
生憎、当たり所が悪かったのか、指の付け根がじんじんじくじくと痺れるように痛んだ。声にならない声を上げながら再びしゃがみ込み、どうにか痛みが和らぐようにと足を擦る。

踏んだり蹴ったりだ。煙草なんて、この世から無くなればいいのに。そうすれば、こんな風に私が副流煙で苦しむことなんてないのに。
煙草の煙を美味しそうに吐き出す巌窟王を思い浮かべ、私は大きく重苦しい溜息を吐き出す。



微かに残る煙草の余韻が、彼がここに居たことを証明していた。



ビター・ロマンスの幕開け